第39話 迷いを消す男
大気を震わせるような異様な磁場が、城壁の周囲を渦巻いていた。
地面から響く拍に、不揃いな脈動が混じっていた。その凄まじい同期ノイズは、カイの脳髄を直接鷲掴みにするように揺さぶり、立っていることすら困難にさせている。
『――聞こえるか、カイ・レーヴェン』
不意に、空間そのものが喋ったかのような錯覚に陥った。
中継器の拡声部から、アルディスの静かで、ひどく疲弊した声が響いていた。
『君は、私のやり方を非人間的だと蔑んだな。思考を奪い、兵士を部品にする悪魔の装置だと』
アルディスの声には、怒りよりも深い哀愁が漂っていた。
『十一年前だ。前回の大黒潮がこの地を襲った時、私は最前線の指揮を執っていた。当時の我が軍は、まだ個人の判断を尊重する普通の軍隊だった』
カイは痛む頭を押さえながら、その声に耳を傾けた。
『号令は届いていた。兵は槍を握っていた。それでも、穂先が前へ出なかった。逃げる者さえいないまま、数秒が過ぎた』
アルディスはそこで息を継いだ。
『開いた穴から魔獣が入り、市民の列を食い破った。私の妻と娘も、あの列にいた。数千人だ。守ると約束して、兵の後ろへ置いた者たちだ』
拡声部から、小さく息の擦れる音がした。
『あの数秒をなくせばよかった。怖くても、足が動くようにしておけば。……次は、私が動かす。そう決めた』
その悲痛な告白に、カイは息を呑んだ。
次は迷わせない。それなら死なせずに済む。
カイにも、その考えが分かった。崖へヴェラを送り出した時、自分もよく似たことを考えた。
『カイ君。私は今、自らの脳を塔の処理中枢と同化させている』
アルディスの声に、血を吐くような苦痛の響きが混じった。
『中継器が集める各隊の反応を処理し、私自身の神経を発振源にして拍を送っている。私の命は、もって数時間だろう』
彼は自らを巨大な『指揮脳』として酷使し、その命を燃やし尽くすことで、大黒潮の波を強引に押し留めているのだ。
『人間の自由判断を永遠に奪うつもりはない。今日、この数時間だけ、私に預けろ。そうすれば全員を救える』
アルディスからの、最後の勧誘だった。
『君のその完璧な空間把握能力と情報を、塔に接続してくれ。君がナビゲートし、私が全軍を動かせば、犠牲はゼロになる。君が恐れている命の「責任」は、すべて私が背負って地獄へ行こう。……だから、君の力を貸してくれ』
それは、カイにとってあまりにも甘く、致命的な誘惑だった。
自分の情報が数万の命を救う。しかも、兵士が死んだとしても、それは命令を下したアルディスの責任になる。自分が他人の死を背負う恐怖から、完全に解放される。
目的は、安全な救済。その正しさに、カイの決意が一瞬揺らぎかけた。
だが。
「……ぁ……ぐっ……!」
すぐ隣で、ヴェラが膝をついた。
「従っていない。戻ろうとも、思っていない」
槍を杖に立ち上がりかけ、その足がまた止まる。
「でも、足が拍を拾う」
カイは通信兵の器具を見た。中継の表示に加え、近傍送出という警告が点っている。
「号令の音なら、受信器を外しても聞こえた。だが今は、意味を拒んでも足が止まる。何を変えた」
通信兵は首を振った。彼も知らない。
『中継器も、今は周囲へ直接拍を送る。塔の近くでは中枢そのものが発振源になる』
アルディスの声が答えた。
『灰槍の波形を基準にしている。彼女には特に強く届く。接続すれば、抵抗する必要はなくなる』
カイはヴェラの足を見た。動こうとした瞬間だけ、筋肉が違う拍を拾う。命令の意味を拒んでも、干渉は残るらしかった。
「カイ……! 私は、自分の意思で動きたい……! もう、誰の歯車にもなりたくない……!」
ヴェラが血の滲むような声で叫んだ。
その悲痛な叫びが、カイの脳に渦巻いていた迷いを完全に吹き飛ばした。
(一人で全部背負えば、ほかの誰も怖がらずに済む。俺だって、そうしたかった)
カイは、両頬を思い切り叩いて気合を入れた。
(だが、恐怖から逃げるために、他人の選択を奪って機械にするのは、救済じゃねえ。ただの呪いだ!)
カイはアルディスの声が響く空へ向かって、喉が裂けんばかりに怒鳴り返した。
「俺は行かない! 俺の言葉は、こいつが自分で道を選ぶためのただの情報だ! お前みたいに、他人の命の責任を背負い込んで自己満足で死ぬための道具じゃない!」
明確な、そして決定的な決別。
カイはヴェラの膝に触れた。拍の間なら、ゆっくり足を動かせる。
「アルディスの野郎が塔と直結してるせいで、お前の身体がバグを起こしてる。止めに行くぞ、ヴェラ」
中枢へ行き、アルディスとの接続を物理的に断つしかない。
「行く。歩幅は小さくなる」とヴェラが答えた。
近くで待機していた伝令の馬車へ、通信兵が二人を案内した。残っている南の道なら旧都の保守門へ出られる。
「リオへ伝えてくれ。塔を止める。受信器を外しても戦えるよう、各隊へ知らせてほしい」
カイは切断の見込み時刻を紙に書いた。まだ早くは走れない。それでも何も言わず止めるわけにはいかない。
馬車の上で、ヴェラが問いかけた。
「お前は、どこまで見えている」
「視野の端が欠けてる。足元も、長く見てると二重になる」
「なら、私がそこを見る」
旧都に着く頃、主級個体の影が北側の城壁を越えた。迂回路を駆けた馬車より、瓦礫を踏み越える巨体の方が速い。
巨獣が前脚を打ち下ろした。街路が陥没し、地下から赤黒い光が噴き上がる。
塔が引きつけたものが、塔の真上へ来ていた。
カイは揺れる馬車から降り、保守門へ肩を入れた。ヴェラも隣から押す。
鉄扉の向こうに、下り階段が残っていた。




