第38話 灰槍対ラゲル
舞い上がる土煙の中、大剣を肩に担いだラゲルが立ちはだかっていた。
かつてヴェラに戦闘のすべてを叩き込んだ旧グラディア軍の精鋭であり、彼女に「再編命令を待て」という呪いをかけた男。
だが今の彼からは、部下を案じるような人間的な感情は一切読み取れなかった。その両目は焦点が合っているのかすら怪しいほどに無機質で、統律塔が発するテンポに完全に同期し切っている。
耳の受信器が、前進の拍を刻んでいた。ラゲルは呼吸さえ、それに揃えている。
「……来るぞ、ヴェラ!」
城壁の上に立つカイが、鋭く叫んだ。
直後、ラゲルの巨体が爆発的な速度でヴェラへと肉薄した。大剣が恐るべき精度と最短の軌道で、ヴェラの首を狙って薙ぎ払われる。コンマ一秒の無駄もない、完璧な殺意。
ガァンッ! と激しい火花が散り、ヴェラは槍の柄でその一撃を辛うじて受け止めたが、衝撃で足元の石畳が砕け散った。
「右、三段の段差!」
カイは手帳を開き、地形情報を叩き込む。ヴェラはカイのコールを利用して右の段差へと跳躍し、ラゲルの大振りの連撃を躱した。
だが、定型命令の完成者であるラゲルは、一対一の連携におけるカイのコールの厄介さを、本能的に理解していた。
ラゲルはヴェラへの追撃をピタリと止め、その巨体を反転させると、凄まじい脚力で地面を蹴り、城壁の上のカイへ向かって大剣を全力で投擲した。
「なっ……!」
風を切り裂いて迫る大剣。カイの運動神経では到底躱しきれない速度。
カイは石柱の残骸へ身を伏せた。
ガキンッ! という金属音。大剣が石柱を削り、その切先が横へ逸れた。大剣はカイの足元をかすめ、城壁の岩盤に深く突き刺さった。
だが、その衝撃で城壁の縁が大規模に崩落した。
「カイ!」
ヴェラの悲鳴が響く中、カイは崩れ落ちる瓦礫と共に視界から消え、土煙の向こう側へと完全に分断されてしまった。
*
カイの声が、途絶えた。
ヴェラは目の前で崩れ落ちた城壁を見つめ、柄を握る手に冷たい汗が滲むのを感じた。
武器を失ったラゲルは、すぐさま腰から予備の短剣を引き抜き、再び無機質なステップでヴェラとの間合いを詰めてくる。
カイの地形情報がない状態での、一対一の近接戦闘。
教範通りなら、隊長は次の足を知っている。かつて何度も、稽古場で転がされた。
ズバッ! と短剣がヴェラの頬を浅く切り裂いた。
教範の最適解通りに防いだはずの軌道の先へ、すでにラゲルの刃が置かれていたのだ。
(……声が、ない)
ヴェラは後退しながら、カイの声を求めてしまいそうになる自分に気づいた。
これまでにも、自分で選んだ。林道でも、試験場でも。だが、隊長と刃を交えるこの間合いで、まだ知らない一歩を選んだことはない。
だが、今は誰も命令してくれない。情報すら渡してくれない。
ヴェラは、深く息を吸い込んだ。
ならば、どうする。
教範の型を外れる。合理的な最適解を捨てる。それは、旧グラディア軍の猟兵にとって『絶対の禁忌』だ。
しかし、ヴェラの中に迷いはなかった。
これは、軍への反逆ではない。隊長の教えを全否定するわけでもない。
ただ、私が、生き残り、あの相棒の隣へ帰るために。
私が私の勝機のために選んだ、私自身の戦い方だ。
*
「……ゲホッ、クソッ……」
土煙の中から這い上がったカイは、全身の打撲の痛みに顔をしかめながら、崩れた城壁の縁から身を乗り出した。
眼下では、ヴェラがラゲルの猛攻を前に防戦一方に追い込まれている。
カイは慌てて手帳を引き抜き、彼女へ渡せる退路を探した。
その瞬間、ラゲルが強烈な踏み込みから、ヴェラの右半身を両断するような横薙ぎの一撃を放った。
カイの脳が瞬時に教範のパターンを計算する。この間合いと角度、最も生存確率の高い合理的な最適解は『後方への跳躍』だ。そしてラゲルもそれを完全に予測し、後方へ逃げるヴェラを追撃するためのタメを作っている。
「ヴェラ! 後ろに飛ぶな、奴が……!」
カイが指示を叫ぼうと口を開いた、まさにその剎那。
ヴェラは、後方へは飛ばなかった。
彼女は、あえて「左斜め前方へ半歩踏み込む」という、教範から完全に外れた、一見すると自殺行為にも等しい非合理で遠回りな一歩を選んだのだ。
「……!」
ラゲルの無機質な両目が、驚愕に見開かれた。
後退する相手を追うため、右足へ乗せた体重が残った。短剣を引き戻すより早く、ヴェラがその腕の内側へ入った。
ラゲルの短剣が空を切り、致命的な隙が生まれる。
ヴェラはその死角へ滑り込み、下段から跳ね上げるような軌道で槍を突き出した。
ガァンッ!
槍の石突きがラゲルの手首を正確に打ち据え、短剣が宙を舞って遠くへ弾き飛ばされた。
静寂が落ちる。
ヴェラの槍の切先が、膝をついたラゲルの喉元にピタリと突きつけられていた。
カイが「外れろ」と指示したからではない。ヴェラ自身が、自らの主体的な選択によって教範の型を破り、勝利を掴み取ったのだ。
カイは出しかけた声を止めた。自分が言葉にするより早く、彼女はその一歩を踏んでいた。
「……見事だ」
武器を失い、膝をついたラゲルは、ふっと憑き物が落ちたように息を吐いた。
ヴェラが槍先をずらし、耳の受信器の留め紐を切った。ラゲルは止まらない鐘を一度振り返り、それから彼女を見た。
「お前は今、俺の予測を完全に超えた。命令でもなく、誰かの指示でもなく……自分自身の意思で、型を破ったな」
「……はい」
ヴェラは槍を構えたまま、静かに頷いた。
「お前のその目は、もう誰の再編命令も待っていない。……立派な戦士になったな、灰槍」
ラゲルは息を吐き、その場に座り込んだ。ヴェラは短剣を遠ざけ、駆けつけた衛生兵へ彼を引き渡した。
ヴェラは追わず、受信器だけを地面へ置いた。
「ヴェラ!」
崩れた城壁から飛び降りたカイが、足を引きずりながら駆け寄ってきた。
「怪我はないか! 今のは……すげえ動きだった」
「お前の声がなくても、私は自分で選べる。そう証明しただけだ」
ヴェラは誇らしげに胸を張り、カイへ向けて、口の端を少し上げた。
カイは頷いた。教官と向き合う彼女に、足すべきコールはなかった。
障害は排除された。あとは目の前に立ちはだかる主級個体を討ち取るだけだ。
カイとヴェラが、地響きを立てて進む主級個体の背中へ向けて走り出そうとした、その時だった。
ブォォォォン……ッ!!
世界が、歪んだ。
旧都の地下から響いていた統律塔の同期テンポが、突如として次元の違う異様なうねりを上げ始めたのだ。
空気が震え、地面の小石が重力を失ったように宙に浮く。
「なんだ、このノイズは……!」
カイは頭を抱えてしゃがみ込んだ。先ほどまでの比ではない、脳を直接掻き回されるような暴力的な磁場。
一方、ヴェラの様子はさらに異常だった。
彼女は両手で自らの首を掻きむしり、呼吸を忘れ、その場に棒のように立ち尽くしていた。
通信兵が手持ちの器具を押さえた。
「中枢から、出力切替の通知……何だ、直結運転とは」
カイにはまだ、その意味は分からなかった。ヴェラが槍を握り直そうとして、指を二度閉じ損ねた。
さっきまでとは違う異常が、二人の目の前で始まっていた。




