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戦えない転生者ですが、亡国の女兵士の専属ナビになりました~元ラリーの助手席担当、十五メートルの戦場を読む~  作者: 他力本願寺


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第37話 帰投せよ

旧都の地下から鳴り響いていた統律塔の同期テンポが、突如として鋭利で異質な波形に切り替わった。


 城壁の下で主級個体の防衛網に風穴を開けたヴェラの身体が、目に見えない巨大な杭で地面に打ち付けられたかのように、激しく硬直した。


「……ッ、ぁ……!」


 ヴェラの喉から、苦悶の呻き声が漏れる。


 アルディスが中枢から全軍へ向けて発信した、旧グラディア軍における絶対の最上位コード。


 ――『帰投(前線を放棄し、直ちに中枢へ帰還せよ)』。


 それは、右を向け、槍を突けといった通常の戦術命令とは根本的に次元が違った。旧軍の兵学校に入所したあの日から、猟兵の脳髄の最も深い部分にまで徹底的に刷り込まれた、いかなる状況下でも最優先で実行しなければならない『絶対的な権威』。


 ヴェラの強靭な両足が、彼女の意思とは無関係に、ギリリと音を立てて旧都へ続く帰還路の方へと向きを変えようとする。


 城壁の上で片膝をついていたカイは、平原で戦っていた旧グラディア兵たちの動きが、一斉に不自然な後退へと切り替わったのを見て、何が起きたのかを悟った。


(アルディスの野郎、主級個体が塔に向かっているから、前線の兵士をすべて盾にする気か……!)


 カイは立ち上がろうとしたが、過負荷による激しい頭痛と判断遅延が容赦なく襲いかかり、再び膝をついた。


「ヴェラ……!」


 眼下では、ヴェラが自らの足に槍の石突きを突き立てるようにして、強制的な反転を必死に堪えていた。


 彼女の脳内では今、「軍の絶対命令に従え」という強烈な服従反射が吹き荒れているはずだ。


 カイは、血の滲む唇を開きかけた。


『その命令に従うな。前へ出ろ』と。


 そう叫んで、自らのコールの力で彼女を上書きしてしまえば、彼女の苦しみは一瞬で終わるかもしれない。


 だが、カイは奥歯が砕けるほど強く噛み締め、その言葉を喉の奥底へと飲み込んだ。


(駄目だ。……それを言ったら、俺はまた逃げることになる)


 先ほどの戦闘で、カイは極限状態のパニックから、「俺の言う通りに動け」と強引な命令を下してしまった。相棒が反応できることと、任せてくれたことを一緒にした、崖での失敗。


 俺はもう、他人の意思を縛り付けて動かすような真似はしないと誓ったはずだ。


 塔の命令に上書きするために、俺が新たな命令を下す。そんなことをすれば、彼女は一生、誰かの命令に振り回されるだけの機械から抜け出せない。


「……ヴェラ」


 カイは深く息を吸い込み、視界の端が暗く欠け落ちる中、自らの手帳を開いた。


 命令はしない。指示も出さない。


 カイはただ、自分が見ている盤面の事実だけを、淡々としたリズムに乗せて読み上げた。


「現在地、旧国境防衛線跡。前方に主級個体、距離三百」


 カイの声が、戦場の喧騒を縫ってヴェラの耳に届く。


「主級個体の進路の先、統律塔まで約四キロ。……ダリオたち王国軍と冒険者の部隊は、今も戦線を維持して踏みとどまっている」


 行けとも、戻れとも言わない。


 ヴェラの靴底が石を擦った。足は帰還路へ向きかけている。だが槍先は、味方のいる側へ残っていた。


「聞こえる」


 彼女が言った。


「帰れという意味は、分かる。……だが、あそこにはまだ人がいる」


 カイは城壁の低い窪みへ身を移した。自分の足で道を示せる場所まで降りる。


「お前の右、足場は残ってる。俺はそこへ下りられる」


 ヴェラの右足が震えた。上がり、一度戻った。


 もう一度。今度は、味方の盾が割れた方へ靴底がついた。


「私は、私の進路を行く」


 塔の鐘は続いている。それでも彼女は、次の一歩を自分で選んだ。


「……上等だ」


 城壁の上で、カイは鼻血を拭いながら薄く笑った。


 彼女は自分の意思で、前を選んだ。ならば、自分は相棒として、彼女の進む道に最高の情報を敷き詰めるだけだ。


 カイは立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。


「右斜め、二秒で開く!」


 ヴェラは右斜めへ踏み込み、帰還路を背にした。カイは壁の上を追い、彼女の前方へ目を戻す。


 二秒後、彼女が到達したその空間で、近衛魔獣同士の連携がわずかに乱れ、明確な死角が生まれる。


「正面は、届く!」


 カイが叫ぶ。


 ヴェラは届くという事実を信じ、自ら跳躍の軌道を描いて、魔獣の装甲の隙間へ槍を叩き込んだ。


 二人の連携は再び噛み合い、主級個体を取り巻く強固な防衛網を次々と切り裂いていった。


 主級個体の山のような巨体が、もう目の前に迫っていた。


 最後尾の近衛魔獣を血祭りに上げ、ヴェラがついに主級個体の懐へと飛び込もうとした、その時だった。


 ドスン、と重い足音が、ヴェラの進行方向を塞いだ。


 舞い上がる土煙と血飛沫の中から、一人の男がゆっくりと姿を現す。


「……隊長」


 ヴェラが足を止め、油断なく槍を構えた。


 そこに立っていたのは、大剣を肩に担いだラゲルだった。


 彼の目は、普段の粗野な笑みを完全に消し去り、底知れないほど無機質で冷酷な光を放っていた。統律塔の拍と完全に同期し、一切の感情や迷いを排除された、旧グラディア軍の究極の完成形。


「帰投せよ、灰槍」


 ラゲルの低く重い声が、戦場の喧騒を切り裂いて響く。


「これ以上の逸脱は許さん。お前が戻るべきは、我々の陣列だ」


 かつて彼女に戦闘のすべてを教え込み、そして『再編命令を待て』という呪縛をかけた上官。


 ヴェラの過去そのものが、圧倒的な暴力の壁となって、彼女の選んだ進路の前に立ちはだかった。

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