第36話 最前線十五メートル
山のように巨大な主級個体が、地響きを立てて平原を西へと突き進んでいく。
その巨体が向かう先は、旧都の地下に眠る統律塔。アルディスが中枢を操作し、全軍へ同期の拍を送り続けているその心臓部が狙われていた。
主級個体を仕留めなければ、塔もろとも防衛線が完全に瓦解する。
「行くぞ、ヴェラ!」
カイは声を張り上げ、平原を分断するように遺されていた旧国境の巨大な石造りの城壁――崩れかけた防衛線の残骸の上へと駆け上がった。
戦線の最前線へと矢のように飛び出したヴェラを、上方からナビゲートするためだ。カイは地上を走る彼女から絶対に十五メートル以上離れないよう、崩落の危険がある城壁の上を全力で並走する。
壁の高さは約十メートル。地上のヴェラが横へ離れる分も含め、斜めの距離を見なければならない。カイは彼女のほぼ真上を追った。
ヴェラが横へ大きく回ると、カイも壁の折れ目まで走った。斜めの隔たりが十数メートルになる手前で追いつく。土煙に脚が隠れた間は踏み込みを読まず、見えている敵の位置だけを叫んだ。
主級個体の周囲には、ただの群れとは質の違う、分厚い装甲と巨大な体躯を持つ近衛魔獣たちが幾重にも陣形を組んで護衛に当たっていた。
だが、今のカイとヴェラの前に、その壁は意味を成さなかった。
「右二!」
カイが短く叫ぶ。ヴェラは着地した足で地面を捉え、そのまま右へ二歩踏み込んだ。近衛魔獣の角が外套をかすめる。
カイが手信号で上を指し示すと、ヴェラは自ら着地の反動を利用して跳躍し、魔獣の死角から槍を突き下ろした。
指示。動作。結果。
カイが次の足場へ指を向ける間に、ヴェラは槍を引き戻していた。短い声でも、動きが途切れない。
しかし、主級個体へ肉薄するにつれ、敵の圧力は指数関数的に跳ね上がっていく。
魔獣の変異行動が激化し、地面を掘り進む者、仲間を盾にして突っ込む者など、不規則な変数が爆発的に増殖する。
城壁の上を走るカイの脳は、敵の動き、味方の位置、地形の起伏、そして自らが走る崩れかけの城壁の足場の強度という膨大な情報を、休むことなく極限の速度で並列処理し続けていた。
「次、左の岩陰、三秒――ッ!」
コールを飛ばした瞬間、カイは激しい眩暈に襲われ、城壁の上で大きくよろめいた。
視界の端が、不自然に黒く欠け落ちている。
(……視野狭窄)
風景がトンネルの中から見ているように狭まり、周囲の状況が極端に読み取りにくくなる。さらに、両方の鼻孔からどろりとした生温かい血が流れ落ち、顎を伝って地面に滴った。
脳が、長時間の過剰な《戦導》の処理負荷に耐えきれず、明確な悲鳴を上げ始めていた。
思考が泥の中に沈み込んでいくように重い。敵の動きが、一瞬だけ遅送り(スロー)に見え、自分の判断がそれに追いついていないことを自覚する。
言うべき言葉が、敵の踏み込みに遅れる。
(クソッ……止まるな、まだ前衛を抜けきってない……!)
カイは痛む頭を振り、無理やり視界の焦点を合わせた。
その時だった。
視野が狭まったカイの死角、ヴェラの右後方から、大気の揺らぎに擬態するような透明な体色を持つ変異種の魔獣が、音もなく跳躍して襲いかかってきた。
(見落とした……!)
カイの判断遅延のせいで、ヴェラへ警告を出すのが致命的に遅れた。
ヴェラが背後を振り返って確かめる余裕はない。
カイは考えるより先に身体を動かした。城壁の縁へ足を伸ばし、落ちかけた小石を蹴った。積み上がっていた欠片が、まとめて下へ崩れる。
拳大の欠片が、透明な魔獣の頭上を掠めて地面へ散った。
乾いた音とともに上がった土埃が、魔獣の透明な輪郭を乱し、その姿を一瞬だけ空中に可視化させた。
だが、魔獣の牙は止まらず、ヴェラの首元へと迫っている。
視界の端が黒く欠けた。牙と足場だけが、異様にはっきり見える。
右なら抜けられる。そこから先を確かめるより早く、声が飛び出した。
「考えなくていい! 俺の言う通りに動け、右へ飛べッ!」
言い切った喉がひりついた。崖で、彼女の報告に次の声を重ねた時と同じだった。
声の強さに弾かれたように、ヴェラの足が出た。右へ跳ぶ直前、槍の石突きで縁の石を打ち、崩れなかった内側を蹴る。
ガキンッ! と虚空で牙が噛み合う音が響き、ヴェラが元いた空間を魔獣の巨体がすり抜ける。ヴェラは空中で身を捻り、無防備になった魔獣の胴体を槍で一刀両断に斬り捨てた。
血しぶきが舞い、近衛魔獣の壁に、主級個体へと至る明確な突破口が開いた。
だが。
魔獣の死骸が地に落ちた直後。ヴェラは主級個体へ向かって前進するのを一瞬だけやめ、足を止めた。
彼女は槍を下ろし、土煙の向こう側、十メートル上方の城壁で膝をつき、鼻血を流して荒く息をつくカイを静かに見上げた。
「……カイ」
彼女の声は、戦闘中とは思えないほど静かで、平坦だった。
「今の指示は、『命令』か?」
カイは手すりを握りしめた。頭が回らなかった。緊急だった。喉まで来た言い訳を、血の味と一緒に飲み込む。
「……そう言えば、お前が動くと思った。すまん」
「右は使えた。だが、考えるなとは言うな」
ヴェラは主級個体へ向き直らず、カイを見上げていた。
「次を急ぐ前に言え。今、どこまで見えている」
「端が欠けてる。お前の先まで、一度には追えない」
口にすると、開いた突破口の狭さが分かった。向こうへ出た彼女を、今の目では追いきれない。
「なら、ここで持たせる。壁沿いは?」
「足元は見える。右の瓦礫までなら、隠れずに戻れる」
「そこへ下がる」
ヴェラが槍を構え直し、瓦礫へ寄った。カイも壁の上を二歩戻る。主級個体へ急がせる言葉を飲み込み、彼女が足場を確かめるのを待った。
その時だった。
世界から、音が消えたような錯覚に陥った。
平原を満たしていた魔獣の咆哮も、戦闘の喧騒も、すべてが一時的に遠のく。
代わりに、西の旧都の地下から鳴り響いていた統律塔の一定の同期テンポが、突如として異質で、鋭利な波形へと切り替わったのだ。
それは、部隊に前進や死守を命じるような、通常の戦術命令の拍ではない。
旧グラディア軍の猟兵の脳髄の、最も深く、最も抗いがたい部分に刻み込まれた、いかなる状況・いかなる自律的判断よりも優先される『絶対の最上位コード』。
塔の操作盤を握るアルディスから、全軍へ向けてその信号が送信された。
――『帰投(前線を放棄し、直ちに中枢へ帰還せよ)』。
「ッ……!」
城壁の下でカイを見上げていたヴェラの身体が、まるで見えない巨大な杭で地面に打ち付けられたように、激しく痙攣し、硬直した。




