第35話 書き換える軍
大黒潮の波打ち際と化した平原の防衛線で、かつてない変化が起きていた。
王国軍の将軍の決断により、前線で孤立しかけていた各部隊に、カイが作成した『共通ノート』の写しが急遽配布されたのだ。
それは単なる地図ではない。「現場の状況が違えば書き換えろ」という、明確な権限委譲の証明書だった。
水を受け取りに通信陣地へ寄ったカイの耳に、報告が相次いで飛び込んできた。リオは通信機の送話口を握り、受け取った地点を地図に打っている。
『第一防衛線、左斜面が崩落! ノートの指定退路は使えない、各隊は尾根側へ迂回せよ!』
『右翼、魔獣の変異行動を確認! 空へ跳ぶ個体がいるぞ、上方の警戒を追記しろ!』
リオは発信した隊の名を書き、いつ見たのかを聞き返した。受信した時刻とは別の欄へ、観測時刻を入れる。退路の先を確かめていない報告には、『迂回先未確認』と添えた。
元の記録を残し、訂正を隣の隊へ送る。カイが一口、水を飲む間にも、地図の上の線が増えていった。
「聞こえるか、全隊! 第四区画の沼地は底が抜ける! ノートの情報を更新しろ!」
リオの叫びが、戦場を行き交う。
「尾根へ移る。隣隊、下の道を空けてくれ」
返ってきた声に、別の隊が応じた。
次に届いた声は、右翼のダリオのものだった。
「おい、この先の谷は魔獣が潜ってるぞ! ノートの『安全』を取り消せ!」
金属を打ち合う音が、声に重なった。
「隣隊、中継器を外した! 迂回に同意、援護に入る!」
「ダリオ隊、今の目視ですね。谷の先は?」
「見えてねえ。手前までだ!」
リオは時刻と『ダリオ隊・谷手前確認/奥未確認』を記し、地図の駒を動かした。
一度で揃うわけではない。違う退路を選んだ二隊がぶつかり、一本の道を譲るまでに時間がかかった。リオは部隊名を一つずつ呼び、返答を取った。
南の隊からは返事がない。リオはその欄を『未達』のまま残し、伝令を出した。
「書き換わったのは、今、返事をした隊の分だけです」
カイは南側の古い退路へ線を足しかけた手を止めた。向こうの隊長は、まだ前の情報で動いている。
「これなら、俺にも足せるな」
カイは自分が通ってきた水路に印を置いた。
「ここに負傷者がいる。俺とヴェラが、来る直前に見た。どの退路でも、この水路だけは空けてくれ」
リオが予備の小型通信器を渡してくれた。塔の同期網とは別の、音声だけを通す器具だ。
「旧軍の通信図も。どの中継器につながるか、これで追えます」
カイは写しを保守図と重ね、手帳へ挟んだ。通信器を帯へ結び、水筒を返してヴェラと中央の遊撃隊へ戻る。
さっきまで歩けた水路の出口に、もう糸が渡っている。
「カイ! 右からさらに群れが来る!」
戦線の中央で遊撃に当たっていたヴェラが、血糊のついた槍を構え直しながら叫んだ。
「分かってる! 少し下がれ!」
カイは十五メートル圏内を維持しながら、周囲に残る通り道を探していた。
彼らを取り囲むように迫ってきたのは、吐き出す粘着性の糸で獲物を拘束する『鋼糸蜘蛛』の群れだった。
通常の魔獣ならカイの引くラインで躱せる。だが、奴らが無差別に吐き出す糸が木々や岩場に張り巡らされ、さらに前日の長雨による地盤沈下が重なり、安全な退路がカイの視界から完全に消滅していた。
右へ行けば糸に絡め取られる。左の崖は崩れる。後方には別の群れ。
(……クソッ、隙間がない!)
余裕ゼロのラインすら引けない。空間把握能力に長けたカイの眼をもってしても、この局地的な地形変化とトラップの複合は、完全に計算の限界を超えていた。
蜘蛛の魔獣が、一斉に毒牙を剥いて飛びかかってくる。
万事休すと思われた、その時だった。
「第三隊より伝令!」
戦線の後方から、王国の兵士が声を張り上げて駆け込んできた。リオの状況共有網を経由して、隣接する部隊から届けられた情報だ。
「その谷間の右奥、蔦の裏に旧坑道の入り口あり! 足場強固、中へ抜けられます!」
それは、カイが作成した基本ノートには存在しない情報だった。数十分前、この場所を通過した別の部隊の兵士が、自ら発見して手元のノートに書き足した『現場の修正情報』。
「いつの確認だ!」
「四半刻前! 自分が通りました!」
カイは蔦の根元を見た。新しい泥の靴跡がある。危険が消えた保証はない。それでも、確かめるための手がかりがあった。
「右奥の蔦の裏! 旧坑道へ抜けろ!」
カイは伝令の情報をそのままヴェラへとコールした。
「三秒で糸が来るぞ! 一気に駆け抜けろ!」
ヴェラは伝令が示した靴跡を見た。低い入口へ槍を沿わせ、身体を沈める。
一、二、三。
鋼糸蜘蛛が四方から一斉に糸を吐き出し、包囲網が完成するコンマ数秒前。ヴェラは蔦に覆われた右奥の岩壁へ向かって跳躍し、隠されていた旧坑道の入り口へと身を滑り込ませた。カイもその直後に転がり込む。
糸は虚しく坑道の入り口を塞ぐように張り付いた。
「シィッ!」
狭い坑道の中へ無理やり侵入してきた蜘蛛の魔獣に対し、ヴェラは地の利を完全に活かした。左右に逃げ場のない一直線の地形で、彼女の長槍が恐るべき速度で突き出され、入り口に群がった魔獣を次々と串刺しにしていく。
間もなく、群れは完全に沈黙した。
「……助かった」
カイは坑道の壁に背を預け、荒い息を吐きながら汗を拭った。
自分が物流課の事務員として働きながら、無意識のうちに書き溜めてきた『人を安全に帰すためのメモ』。それを部隊へ渡し、書き換える権限を与えた。
その情報が現場の兵士たちの手によって成長し、共有網を通って巡り巡り、最終的にカイとヴェラ自身の命を救ったのだ。
ただ一方的に指示を出すだけの関係ではない。現場から返ってきた情報を受け取り、信じることで、初めてこの戦術は完成する。
カイの胸の中に、事務員としての自分の仕事が、戦場という社会において確かに実を結んだという深い感慨が広がっていた。
「お前の作ったノートが、我々を救ったな」
ヴェラが槍を納め、僅かに口角を上げて言った。
「今の兵の名前、あとで聞こう。どこを通ったかも、ちゃんと残したい」
分散型の情報共有が見事に機能し、大黒潮の波は再び防衛線の前で押し返され始めていた。
坑道の外で、ようやく交代を知らせる笛が鳴った。
だが、その微かな希望を粉砕するように。
平原の奥底、魔獣の群れの最後尾から、空気が凍りつくような圧倒的なプレッシャーが放たれた。
ズン……ズン……と、大地が悲鳴を上げるような足音。
地平線の土煙を割って姿を現したのは、小山のように巨大な四つ足の魔獣だった。全身を黒晶の鎧で覆い、無数の巨大な角を天に向けて突き出している。
周囲の魔獣たちが、その存在を恐れるように道を譲る。
黒潮の頂点に君臨する、規格外の怪物。『主級個体』。
「なんだ、あれは……!」
ダリオが思わず剣を取り落としそうになる。
だが、主級個体は防衛線の兵士たちには目もくれなかった。北の断崖を回り込んできた列から外れ、西へ頭を向ける。塔の鐘が鳴るたびに首を上げ、その巨大な体躯に似合わぬ速度で旧都へ進み始めた。
その方角にあるのは、旧都。
アルディスが操作し、中継器を通して全軍へ号令と拍を送り続けている《統律塔》の地下中枢に他ならなかった。




