第34話 命令が残る
平原を覆い尽くす大黒潮の本隊は、カイたちの予想をさらに超えるおぞましい進化を見せていた。
統律塔の拍を受信し、一つの巨大な機械と化した旧グラディア兵たちの防衛線は、確かに強固だった。正面から突っ込んでくる魔獣をすり潰す速度は、冒険者の寄せ集めでは到底出せない絶大な威力を持っている。
しかし、本能のままに動いていた魔獣たちが、その「完璧すぎる定型陣形」の前に死骸の山を築き始めた頃、群れの動きが不気味に変異し始めたのだ。
ズォォォンッ!
旧兵たちが構える盾の壁の数メートル手前。巨大な土煙が上がり、地中から無数の節足動物のような魔獣が這い出してきた。
さらに、後続の身軽な魔獣たちが、仲間が築いた死骸の山を『踏み台』にして高空へと跳躍し、旧兵たちの頭上を飛び越えて陣形の内側へと雪崩れ込んでくる。
「奴ら、立体的に攻めてきやがる!」
カイが前線で手帳を握りしめながら叫んだ。
旧グラディア軍の教範は、平面的な戦線の構築において無類の強さを発揮する。しかし、統律塔が与える定型命令のシステムは、この『地中と上空からの同時奇襲』という想定外の局地的な変化への対応が遅れる。
前線のあちこちで、完璧だったはずの陣形が次々と食い破られ始めた。
「右翼の第三中継点が崩されたぞ!」
ダリオの悲痛な声が響く。
カイが視線を向けると、数百メートル離れた小高い丘の上――防衛線の要となる中継拠点の一つが、地中からの奇襲によって完全に孤立していた。
丘の土台は魔獣に掘り崩され、今にも崩落しそうな危険な状態だ。そこに残された旧兵の一小隊、約二十名が、四方八方から押し寄せる魔獣の波に完全に包囲されている。
どう見ても、即座に陣を捨てて後方へ撤退すべき状況だ。
だが、彼らは逃げなかった。
『死守!』『死守!』『死守!』
統律塔との通信がノイズで途切れる中、彼らは最後に受信した『死守』という命令テンポを忠実に継続し、円陣を組んで玉砕しようとしていた。
現場で自ら「離脱」という判断を下すことに慣れていないのだ。命令が更新されない限り、彼らの脳は別の選択肢を生み出せない。
「……馬鹿野郎、死ぬ気か!」
カイが怒鳴ろうとした瞬間、彼の横を灰色の突風が駆け抜けた。
ヴェラだった。
「あの兵たちを出す」
ヴェラが言った。カイは並んで走り、彼女が斜面へ入る前に退路の位置を伝えた。
「ヴェラッ!」
カイも立ち止まらない。相棒から十五メートル圏内を保ち、戦導の有効距離を維持するため、自らも死線へと全速力で駆け込んだ。
「前列、崩れるな!」
孤立した小隊の副官が悲鳴のように叫ぶ中、空からヴェラが舞い降りた。
着地の衝撃を利用して長槍を大きく薙ぎ払い、兵士たちに群がろうとしていた魔獣をまとめて吹き飛ばす。
「灰槍……!」
旧兵たちが驚愕に目を見開く中、ヴェラは素早く周囲を見渡した。
「陣を解け。ここは間もなく崩れる」
ヴェラが短く告げるが、兵士たちは動かない。
「駄目だ! 中枢からの後退命令が出ていない! 我々はここを……」
「中継器を外せるか!」
カイは副官の肩を指した。砕けた受信箱が、最後の号令を繰り返している。
副官が留め具を外す。音が止まった。それでも兵の足は揃ったままだ。
「後退の許可が……」
「現場で退路を変えていい。将軍の文書が、ノートの一頁目にある」
カイは自分の写しを渡した。
「決めるのはここで隊を預かってるあんただ。判断に要るものは渡す」
副官は紙を見た。顔を上げても、まだ手が震えていた。
「通れる道は?」
「後ろの岩場には敵が来る。右は亀裂がつながった。左の森なら、荷を捨てて二列で抜けられる」
カイは丘の縁へ走った。折れた槍の柄を、崩れない地面に突き立てる。一つ目。足裏の砂が流れた先を避け、二つ目。
ヴェラは十メートル後ろで魔獣を止めた。
「カイ、三つ目の左。土の色が違う」
カイは足を引いた。薄い表土の下に穴がある。右へ寄り、もう一本を打つ。
「この杭の内側! ここは二人で確かめた!」
副官が最初の杭まで走った。戻ってくる目に、ようやく焦点が合った。
「負傷者を中へ。左の森へ退く。俺が責任を取る!」
最後の命令は、消えてはいない。副官はそれを、自分の声で更新した。兵たちが互いの肩を引き、杭の列へ動き始める。
カイは最後尾に戻った。ヴェラの左手から槍の柄へ、血が伝っている。
「長くはもたない」と彼女が言った。
「あと六人。その次に俺たち」
二人は三本目の杭まで下がった。追ってくる魔獣が、さっきヴェラの指した穴へ足を取られる。
「右の一頭、喉が上がる!」
槍が伸びた。カイが転びかけた兵の肩を引き、ヴェラも最後の杭を越えた。
森へ入ったところで、背後の丘が崩れた。
孤立した小隊が、無事に後方の安全圏へと生還を果たした。
救い出された副官は、泥だらけの写しをカイへ返そうとした。
「持っていてくれ。次も、あんたが使うものだ」
カイが言うと、副官は紙を胸当てへ押し込んだ。
ほどなく本部から伝令が来た。監視所の報告を受け、ノートの増刷と隣接部隊同士の連絡が正式に認められたという。
「ただし、一つ足してほしい」
カイは伝令の紙へ、短く書いた。
『古い号令を繰り返す中継器は外す。退路変更は隣の隊へ知らせる』
ヴェラが横から覗き込む。
「字が小さい」
カイは息を吐いて笑い、もう一度、大きく書いた。




