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戦えない転生者ですが、亡国の女兵士の専属ナビになりました~元ラリーの助手席担当、十五メートルの戦場を読む~  作者: 他力本願寺


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第33話 黒潮

地平線が、うごめいていた。


 地上の連絡所で借りた馬車が、東へ四キロの防衛線まで二人を運んだ。負傷者を乗せて戻るため、御者は二人を降ろすとすぐに荷台を空けた。


 北を見れば、旧都を囲む断崖の切れ目から、群れが平原へ流れ込んでいた。西から来た本隊は旧都の北を回り込み、街道の兵と補給隊へ押し寄せている。


 旧都の地下から生還したカイとヴェラの眼前には、現実の光景とは到底思えない絶望が広がっていた。


 セルカへと続く広大な平原。そこを、空の暗雲よりも濃い『黒』が埋め尽くしている。大黒潮の本隊。数万という桁違いの魔物の群れが、地鳴りを立てながら押し寄せていたのだ。


 王国の正規軍と冒険者ギルドが急造した平原の通常防衛線は、すでに限界を迎えつつあった。


 魔獣の波はあまりにも分厚く、そして速い。前衛の盾が次々と弾き飛ばされ、後列の兵士たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。戦列に穴が空き、そこから溢れ出した魔物が後方の補給部隊へと食らいついていく。


「マズいぞ……このままじゃ、防衛線が五分と持たない!」


 カイが手帳を開くが、魔物の数が多すぎて処理が追いつかない。


 どこにラインを引こうと、数秒後には別の魔獣の波に呑み込まれる。カイの《戦導》は一対一の局地戦には最強だが、これほどの面を制圧する能力はない。


 王国軍の指揮官たちが絶望の声を上げ、戦線が完全に崩壊しかけた、その時だった。


 ゴォォォォン……ッ!


 旧都の地下深くから、大地を揺るがすような巨大な同期鐘の音が連続して鳴り響いた。


「……統律塔」


 ヴェラが、自身の胸を強く押さえて呻いた。


 鐘の音が響くたび、平原に散開していた旧グラディア兵たちの動きが、不気味なほど劇的に変化し始めた。


 パニックに陥りかけていた兵士たちの呼吸が、一瞬にしてピタリと揃う。恐怖も、痛みも、撤退への迷いも、すべてが彼らの脳から強制的に削り落とされていく。


 アルディスが、王国軍本部の正式な承認を待たず、独断で旧都地下の統律塔を実戦起動したのだ。


 数十人単位の小隊が、まるで一つの巨大な機械の部品のように連動し、流れるような動作で前衛の盾を組み直す。


 カイは、彼らの異常な速度と完璧な同期を見て、背筋が凍りついた。


 試験で揃ったのは数十人だった。今は、見渡す限りの列が同じ拍で槍を引く。その基準に誰が選ばれたか、カイは見ていた。


 カイは手帳を開き、試験で控えた登録番号と灰槍の識別名をヴェラに見せた。彼女の指が、自分の名の上で止まった。


「……私の、波形か」


 ヴェラが震える声で呟く。


 地下での試験起動時。塔の同調圧力に抗い、自らの意思で「確かめる」ために一歩踏み出そうとした。あの瞬間に彼女の肉体が極限まで研ぎ澄ませていた『完璧な待機波形』が、塔の中枢に自動登録され、今こうして全軍を操るためのテンポとして再利用されている。


 命令ではなく、自分で選んだ。その『選択』の結果が、皮肉にも、かつての同胞たちから自由意思を奪う最も強固な鎖を完成させてしまったのだ。


「登録の番号は控えた。実戦使用の承諾はしてない。それも、後で必ず報告する!」


 カイはヴェラの隣に立った。


「今は、補給隊へ抜けた群れを止めたい。行けるか」


「行ける。左腕が重くなったら言う」


 塔の是非を問うている場合ではない。目の前の波を捌かなければ、全員死ぬ。


 統律塔の拍を受信した旧兵たちは、まさに無敵の軍隊だった。


 コンマ一秒のズレもなく放たれる数千の槍衾が、魔獣の波を次々と粉砕していく。あれほど脆く崩れかけていた防衛線が、旧兵たちの驚異的な再編によって一瞬で持ち直し、逆に黒潮の波を押し返し始めたのだ。


 倒れた兵を引き戻す手が、ようやく盾の後ろから伸びた。塔がなければ、あの数人には届かなかった。


「俺たちも行くぞ!」


 カイは手帳を引き抜き、戦線の中央、旧軍の陣形がまだ届いていない激戦区へと走り出した。


 ヴェラは受信器を着けていない。聞こえる鐘に踵は揺れたが、前へ出る足は自分で決められた。だが、カイの引くラインとヴェラの即応があれば、独立した一組の部隊として十二分に機能する。


「右から大型が回ってくるぞ!」


 カイの視界の端、防衛線の崩れた瓦礫の陰から、硬い岩の装甲を持つ鎧角獣(アーマーホーン)の群れが、側面を突こうと回り込んでくるのが見えた。


 カイは安全圏から口先だけで指示を出すことをやめ、自らその突進軌道の上へと飛び出した。


 足元には、先ほどの戦闘で死んだ巨大な魔獣の屍が横たわっている。


 カイは装甲の陰へ入り、補給用のロープを横倒しの荷車の軸に通した。反対端は石の車止めへ巻く。張った綱を自分の手で受けず、結び終えたら脇へ逃げた。


 物理的なトラップ。


 先頭を走っていた鎧角獣が、足元のロープに引っかかり、巨体を大きく揺らしてバランスを崩す。そのあおりを受けて、後続の群れの突進軌道が強制的に左へとズレた。


「軌道が左へズレる! 三秒待って、首の付け根を貫け!」


 死骸の陰から、カイが秒を数える。


 ヴェラは綱の跳ね返る高さを見て、槍を引いた。


 一、二、三。


 三秒後。軌道が乱れ、お互いにぶつかり合って体勢を崩した鎧角獣の群れの中へ、ヴェラが跳躍した。


 装甲が重なり合い、唯一無防備になった首の付け根の隙間。そこへ向けて、彼女の槍が、露出した継ぎ目を続けて突く。


「シィッ!」


 血しぶきが舞い、数トンの巨体が次々と地響きを立てて倒れ伏す。


 旧軍の機械的な陣形とはまったく違う、極限の個と個の連携。カイとヴェラはたった二人で、防衛線の一部に強固な突破口を穿ってみせた。


 旧兵の再編と、カイたちの局地的な奮闘により、戦線は完全に膠着状態へと持ち込まれた。


 黒潮の波は止まった。


 後方の高台で指揮を執っていた王国軍の将軍たちは、その光景を見て息を呑んでいた。


「……信じられん。あの絶望的な波を、一歩も通していないだと」


 アルディスが独断で起動した統律塔。王国の権限を無視した明らかな反逆行為だが、それが生み出している『何万人もの兵士と避難民の命を救っている』という絶大な戦果の前には、誰も塔の停止を命じることなどできなかった。


 アルディスのやり方が、完全に勝利を収めようとしている。


 だが、カイは手帳に目を落としたまま、嫌な汗を流していた。


「……カイ、どうした?」


 槍の血を振り払ったヴェラが尋ねる。


「おかしい。奴らの動きが変わった」


 カイは、押し返されて平原の中央で渦を巻いている魔物の群れを指差した。


 これまでの魔獣は、ただ前へ突進し、目の前の敵を食い殺すだけの単純な本能で動いていた。旧軍の教範は、その『群れとしての定型パターン』を完璧に解析し、効率的に処理するためのシステムだ。


 しかし今、魔物たちは旧兵の強固な盾の壁を前にして、突進をピタリと止めた。


 そして、まるで巨大な一つの知性体のように、後方の個体が前方の個体を踏み台にして跳躍の準備を始めたり、一部の群れが地中へ潜行して防衛線の足元を崩そうとするなど、未知の変異行動を開始したのだ。


「奴ら、防衛線のパターンを学習して、動きを変えやがった……!」


 定石(教範)にはない、命令パターン外の変異行動。


 それは、中央からの定型命令でしか動けない統律塔のシステムにとって、最も致命的なエラーを引き起こす前兆だった。

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