第31話 従わない練習
グラディア旧都の地下深くには、巨大なすり鉢状の空間が広がっていた。
入都した翌朝。地上で受け取った保守図を片手に、カイは案内の技師と回廊へ進んだ。
中央には円形の広大な戦闘床があり、周囲の壁面には複雑な歯車や太い動力ケーブル、そして音を増幅するための巨大な音響反響板が幾重にも組み上げられている。
カイは、戦闘床からおよそ三十メートル上方に設置された、防護ガラス張りの『観測回廊』から眼下を見下ろしていた。
「これが、統律塔……」
物流記録の解析担当という保守条項の特例で随行を許されたカイの目の前には、観測用のメーターや計器類が並んでいる。
連絡用の伝声管が、戦闘床の操作席とつながっていた。カイは口元の栓を抜き、声が通ることを確かめた。
眼下の戦闘床には、アルディスとラゲル、そして数十名の旧グラディア兵たちが等間隔で整列していた。ヴェラもその中にいる。ここからでも彼女の灰色の外套ははっきりと視認できたが、カイの脳にあの研ぎ澄まされた『姿勢の同期感覚』は降りてこなかった。
十五メートルの有効距離の限界。
見えているのに、今のカイの声は、ただの物理的な音波としてしか彼女に届かない。《戦導》による姿勢・速度の同期処理は、この距離の断絶の前には無力だった。
「統律塔、試験起動を開始する」
戦闘床の中央で、アルディスが静かに宣言した。
直後、旧都の外縁で聞いたあの不気味な鐘の音が、今度は地下空間の反響板に増幅され、腹の底を直接殴りつけるような重低音となって鳴り響いた。
ゴォォォォン……ッ!
*
鐘が鳴った。ヴェラの踵が寄りかけた。
耳元の試験用受信器から、短い拍が骨へ響く。隣の兵と呼吸まで揃い、背中が教範通りに伸びていく。待て、と言われるより早く、身体は待機の形を取っていた。
昔は、この感覚が楽だった。何をすればいいか、迷わずに済んだ。
今も楽になりたい気持ちが、ないわけではない。崖で折れた腕を思い出すと、間違えない場所へ戻りたくなる。
だが、ここへ来ると決めたのは自分だ。来ると決めたことと、あとのすべてを渡すことは違う。
(まず、一歩)
右足の踵を浮かせた。揃え直せと身体が急かす。奥歯を噛み、つま先の下にある継ぎ目を越えた。
隣の足は動かなかった。
自分だけの靴音が、鐘の合間に落ちた。誰かを救うほどの距離でもない。半歩だ。
それでも、選んだ側へ足が出た。ヴェラはその位置で、もう一度息を吸った。
*
観測回廊から見下ろしていたカイは、整然と並ぶ旧兵の完璧な幾何学模様の中で、ヴェラだけがほんの半歩、陣形から逸脱したのを見逃さなかった。
(ヴェラ……!)
カイが息を呑んだのと同時に、戦闘床で彼女の隣に立っていたラゲルが、その異変に気づいた。
だが、旧軍の教範の完成者であるはずのラゲルは、陣形を乱したかつての部下を咎めなかった。
ラゲルがヴェラの足元を指した。声は届かない。だが、腕をつかんで列へ戻そうとはしなかった。
その時、カイの目の前にある観測計器群が、突如として激しく明滅を始めた。
「基準を選んでいます」
技師が計器を指した。兵ごとに揺れていた針が、順に止まっていく。
そして、計器のメインスクリーンに、一つの波形データが固定される。
それは、ヴェラが陣形から一歩踏み出そうと抗う直前の、彼女の肉体が極限まで研ぎ澄ませていた『完璧な待機波形』だった。
計器の下に『仮基準・灰槍』と点った。兵を動かす拍の基準に、彼女が選ばれていた。
カイは計器の数値を睨みつけた。技師が「仮基準、保存完了」と読み上げた。カイはその時刻と登録番号を手帳へ写した。実戦使用の判断はまだ済んでいない。ただ、システムが彼女を『最適鍵』として認識したことだけは事実だった。
その直後。
メキメキメキッ! という、岩盤が砕けるすさまじい轟音が響き渡った。
統律塔の起動による想定外の共鳴振動が、旧都の地下水脈を隔てていた脆い岩盤を破壊したのだ。戦闘床の東側の壁が崩落し、そこから濁流とともに、巨大な水棲の魔獣――水刃蛭の群れが空間へとなだれ込んできた。
「緊急事態だ! 迎撃陣形を取れ!」
アルディスの声が響く。旧兵たちは塔の同期テンポに従い、驚異的な速度で陣形を再構築する。
だが、崩落した壁のすぐ傍、配電盤のチェックを行っていた非戦闘員の民間技師が、逃げ遅れて魔獣の群れの前に孤立してしまっていた。
ラゲルの指示は、部隊全体の陣形を固めることを優先している。
しかし、ヴェラはラゲルの命令を待たなかった。彼女は自らの判断で陣形を飛び出し、民間技師を救うために魔獣の群れへと単騎で突っ込んだ。
「ヴェラ!」
観測回廊から、カイが身を乗り出して絶叫した。
水刃蛭が、技師へ向けて鋭い水圧のカッターを吐き出そうとしている。
カイの脳が地形と距離を計算し、退路を割り出す。
「右の配管裏へ逃がせ! 二秒で水刃が来る!」
カイは伝声管へ口を寄せ、配管の位置を叫んだ。
だが、距離は三十メートル。カイの脳とヴェラの肉体を繋ぐ『姿勢と速度の同期』は発生しない。処理加速の伴わない、ただの普通の声。
伝声管の出口から響く声が、濁流の音に途切れた。
だが、ヴェラはカイの『声のリズム』を聞き逃さなかった。
カイには彼女の歩幅も重心も読めない。だから配管の位置を先に伝えた。ヴェラは自分で水刃の向きを見て、技師の襟首を掴んで右の太い配管の裏へと全力で跳躍した。
直後、二人が元いた場所を、高圧の水刃が深々と切り裂いた。
「シッ!」
配管を盾にしたヴェラが、跳ね返りを生かして槍を突き出し、魔獣の口腔を正確に貫く。
配管の陰から、技師が震える手を上げた。カイはその手を見届けてから息を吐いた。
「……やったか!」
カイが安堵の息を吐いたのも束の間。
警報が鳴り、赤い光が地下空間全体を染めた。
岩盤の崩壊と魔獣の流入を、統律塔の防衛システムが『致命的なエラー』として検知し、暴走を始めたのだ。
「マズい! システムが強制封鎖に移行する! 全員、中央から退避しろ!」
アルディスが操作盤を叩きながら叫ぶ。
ズズズズズ……ッ!
空間をいくつもの区画に分断するため、天井から分厚い鋼鉄の隔壁が次々と落下し始めた。
「カイ!」
眼下の戦闘床から、ヴェラが観測回廊を見上げて叫ぶ。
カイも回廊の出口へ向かって走り出したが、扉の上の赤いランプが点滅し、重い金属音が鳴り響いた。
ガァンッ!
観測回廊の扉がロックされ、同時に戦闘床を横断するように巨大な隔壁が落下する。
防護ガラス越しに、カイは隔壁の向こう側へと遮られていくヴェラの姿を見た。
安全隔壁の作動。旧都の門まで連動して封鎖され、カイとヴェラは、光の届かない地下深くで、分厚い壁によって別々の区画へと完全に分断されてしまった。




