第30話 統律塔
夜明けの地平線に、新しい砂煙が上がった。先遣群の後ろへ、さらに大きな群れが続いている。本隊が近い、と斥候が報告した。
数千、数万という魔獣の群れが、ただ本能のままに押し寄せてくる。山道の百人で食い止められる規模ではない。王国の将軍がアルディスの進言を受け、混成部隊は無用な損耗を避けるため、戦線を後方の安全な谷間まで一時後退させていた。
「……ん?」
撤退の殿を務めながら、カイは耳を澄ませた。
西の彼方、堅く封鎖されているはずの旧グラディア領の奥深く――旧都の方角から、低く重い音が風に乗って響いてきたのだ。
ゴォォォォン……。
腹の底を震わせるような、巨大な鐘の音。
その不気味な音が響いた直後、撤退ルートの側面にある切り立った崖の上から、予期せぬ影が降ってきた。
「伏兵か!」
ダリオが声を上げる。
それは、大黒潮の正規の進行ルートから外れた『鎌鼬の変異種』の小群だった。鋭い刃のような前足を持ち、風の真空刃を飛ばしてくる厄介な魔獣。
奴らの進行方向は、明らかに先ほどの『鐘の音』が鳴った旧都の方角へ向かっていた。鐘の音に引かれてルートを外れた群れと、撤退中の部隊が鉢合わせしてしまったのだ。
「陣形を崩すな! 遊撃、処理しろ!」
ラゲルの怒号が飛び、カイとヴェラが即座に前へ出た。
ヒュンッ、と鋭い風切り音が鳴り、見えない真空刃が岩肌をえぐって土埃を上げる。
カイは十五メートル圏内を保ちながら、崖の斜面に走る亀裂を探した。敵は素早く、風の刃は厄介だが、地形の脆弱性を突けば活路は開ける。
「ヴェラ、待機!」
カイは指示を飛ばすと同時、自ら崖際へと全速力で走り込んだ。
風の刃がカイの頬を掠め、一筋の血が滲む。カイは岩の根元へ滑り込み、崩れかけた土留めの板を蹴り外した。足元の砂が流れ始め、彼はすぐに横へ逃げた。
ゴボッ! という音とともに、斜面の一部が崩壊し、大量の土砂が土煙を上げて滑り落ちてくる。
「今だ! 前三、崩れる土砂を盾にして上から突け!」
カイの身体的な介入によって生み出された一時的な土砂の壁。
ヴェラは土砂の手前へ三歩踏み込み、風の刃が土砂の壁に当たって掻き消されたその一瞬の隙を突き、土煙を突き抜けて跳躍する。
土煙へ消えた間、同期は切れた。カイは次の声を飲み込む。上へ抜けた外套と槍が見えてから、ようやく彼女の落下先を読めた。
「ハァッ!」
空中からの刺突。逃げ場を失った鎌鼬の変異種たちが、次々と岩肌に縫い留められ、絶命していく。
地形を利用したカイのコールと、ヴェラの異常な速度が見事に噛み合い、数秒の戦闘で群れは完全に沈黙した。
「……助かった。だが、なんであいつら、群れから外れてこんなところへ来たんだ?」
ダリオが不思議そうに魔獣の死骸を蹴り飛ばす。
カイは、西の空を見つめた。鐘に反応して進路を変えたように見えた。採石場の黒晶と、鳥の覚えた鐘。カイはまた一つ、同じ頁へ記した。
部隊が安全な野営陣地へと後退を完了させた後。
アルディスは、王国の将校やダリオ、リオたち各部隊長、そしてカイとヴェラを天幕へと集め、一枚の古い図面を机に広げた。
「先ほど、旧都方面から鐘の音が聞こえたはずだ。あれは、大黒潮の到来に合わせて地下で調整を行っている、『統律塔』の試験起動の音だ」
アルディスの言葉に、旧軍出身のラゲルやリオの表情が引き締まる。
「統律塔……旧グラディア軍が黒潮に対抗するため、極秘裏に建造していたという大規模同期設備ですか」
王国の将校が怪訝な顔で問うと、アルディスは深く頷いた。
「中継器で、号令と動く拍を兵へ送る。数時間だけ、列の遅れをなくす装置だ」
アルディスが図面の三本の線を指した。隣の技師が小さな試験器を鳴らす。ラゲルと戸口の旧兵が同じ瞬間に踵を揃え、天幕の床が一度だけ鳴った。
「この速さを、数千人で揃える」
カイは戸口を見た。兵が自分の足を見下ろしてから、静かに息を吐いた。
「だが、速く、乱れない基準がまだない。灰槍、君の反応を記録したい」
「私がその場を離れても、使えるのか」
「記録が安定すれば、可能だ」
カイはその答えを手帳へ残した。彼女が戻れば終わり、ではない。
「ヴェラ・カルド。旧都の地下中枢へ同行してほしい。君の波形が、崩れかけた戦線を支える基準になる」
それは、参謀総長からの命令ではなく、懇願に近い形を取っていた。
天幕の空気が張り詰める。カイの心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打った。
(行くべきじゃない。あの中枢へ戻れば、お前はまた、ただ命令を聞くだけの機械の部品に逆戻りする)
カイは喉まで出かかった『断れ』という言葉を、奥歯を噛み締めて必死に飲み込んだ。
自分が道を決めてはいけない。
『選ぶのはお前だ』
そう約束したのだ。カイは拳を握りしめ、ただ黙って彼女の横顔を見つめることしかできなかった。
ヴェラは、アルディスの顔を見据えたまま、しばらく沈黙していた。
かつての彼女なら、上位の指揮官から「国を救う鍵だ」と言われれば、一秒の躊躇いもなく「了解した」と答えていただろう。
だが、彼女はすぐには返事をしなかった。
ヴェラはゆっくりと顔を向け、隣で黙って立っているカイの目を見た。
カイは視線を逸らさず、彼女の言葉を待った。
ヴェラは小さく息を吸い込み、アルディスへ向き直って、はっきりとした声で告げた。
「……行く」
カイの胸が、ズキリと痛む。やはり、彼女は旧軍の呪縛から逃れられないのか。
だが、ヴェラの次の言葉は、カイの予想を鮮やかに裏切るものだった。
「私は、命令に従うから行くのではない。自分の過去と、その塔の正体を、自分自身の目で確認したい。……だから、私が自分で、行くことを選ぶ」
「試験で波形が記録されることは分かった。だが、実戦で使うかは、危険を確認してから決める。王国側の立会記録に、それを残してくれ」
将校が頷き、アルディスも承知したと答えた。
それは、国のためでも、上官のためでもない。
彼女が付けた条件は、将校の手で書面に残された。
アルディスは少しだけ目を見張り、それから深々と頭を下げた。
「……感謝する、灰槍」
カイは固く握っていた拳を解き、一歩前に出た。
「俺も行くぞ。……戦後協定の保守条項には、王国側の観測員の随行が認められているはずだ。俺は物流記録と戦導の解析担当として、こいつに同行する」
アルディスはカイの要求を拒絶しなかった。「君の随行を歓迎しよう」とだけ言い残し、天幕を後にした。
翌朝、アルディスとラゲルの一隊が旧都へ向けて出発した。王国軍は後続の防衛線へ回り、カイとヴェラは保守用の馬車に随行する。
尾根を越え、谷を迂回して丸一日。夕暮れに、国境共同管理区域の封鎖都市――旧都の外縁へ辿り着いた。
門前の泥には、保守馬車の轍を横切る魔獣の足跡があった。カイは御者に馬を止めてもらい、ノートの空白へ写した。
「定期の巡回は?」
「ない。保守の者だけだ。道中で獣を見ても、これまでは軍の詰所へ届けていた」
御者の答えを聞き、カイはギルドへ回す記録に印をつけた。旧都へ魔物が来ないのではない。あの机に、報告が届いていなかった。
黒く煤けた巨大な城壁。厳重に封鎖された鉄の門が、重々しい音を立てて開かれる。
カイとヴェラが、旧軍の息吹が残るその都市に足を踏み入れた、その瞬間だった。
ゴォォォォォン……ッ!
腹の底から内臓を揺さぶるような、巨大な『同期鐘』の音が、旧都の地下から空気を震わせて鳴り響いた。




