第25話 別々なら安全だ
セルカの冒険者ギルド、物流課の裏手にある作業机。
カイ・レーヴェンは、うず高く積まれた周辺集落からの被害報告書と睨み合いながら、新しい支援物資の輸送ルートを白地図の上に書き込んでいた。
ヴェラとの専属契約を自ら解除し、物流課へ戻ってから、十日が経っていた。
治癒士が傷と骨をつなぐのに三日。そこから寝台を離れて歩き、短い稽古を許されるまで七日。ヴェラの任務票には、近距離の巡回に限ると治療院の印が押されている。治癒でも、失った血と体力はすぐに戻らなかった。
カイも報告書を提出した。危険を隠した経緯、古い記録を使った地点、救援隊に負わせた追加の負担。ミナは契約解除と責任の清算は別だと言い、調査が済むまで現場配置を止めた。
「東の旧道は泥甲虫の死骸で塞がってる。迂回するなら北の尾根沿いだが、あそこは足場が脆いな……」
独り言を呟きながら、カイはペンを走らせる。前世のラリー・コドライバーとして培ったレッキ(下見)の癖と空間把握能力は、安全なルートを構築する上でこの上なく役立った。
カイは地図の余白に、危険箇所と通過のための条件を書き出していく。
『岩場、右キープ。左は地盤緩み』
『倒木あり。ヴェラの跳躍なら越えられる』
『隘路。ヴェラの槍の間合いなら三頭まで対処可能』
――ピタリと、カイのペンの手が止まった。
カイは自分が無意識に書き込んだ文字を見つめ、大きく息を吐き出すと、その行を二重線でぐしゃぐしゃと乱暴に塗り潰した。
「……何やってんだ、俺は」
自分が作っているのは、普通の冒険者や御者が通るための安全な荷車のルートだ。それなのに、脳が勝手に弾き出すラインの基準が、すべて『ヴェラの身体能力』を前提としたものにズレてしまっている。
彼女のあの異常な即応性と、規格外の身体能力があれば抜けられるライン。それはつまり、普通の人間が足を踏み入れれば確実に死ぬラインだ。
専属契約は解除した。彼女が自分の隣を走ることはもうない。
カイがギルドの裏方に戻っても、物流の仕事は問題なく回っている。彼女がいなくても、カイは生きていける。
だが、カイの思考の根本には、自分でも認めたくないほど深く、彼女の存在が根付いてしまっていた。
昼時になり、カイはギルドに併設された酒場で短い食事を取ることにした。
固いパンと薄いスープの乗ったトレイを運んで席につこうとした時、「おう、事務屋」と野太い声で呼び止められた。
振り返ると、歴戦の冒険者であるダリオが、土埃にまみれた姿でエールの大杯を煽っていた。
「ダリオ。討伐から戻ったのか」
「ああ。西の街道沿いに湧いた岩砕牙の残党を片付けてきたところだ。……お前、今日はあの灰色の姉ちゃんとは一緒じゃないのか?」
ダリオはカイの向かいの席を顎でしゃくった。
「あいつとは契約を解除した。今は単独で依頼を受けてるはずだ」
カイが淡々と答えると、ダリオは「やっぱりな」というように鼻を鳴らした。
「どうりでな。西の街道で、単独で動いてるあいつを見かけたんだよ」
ダリオは声を潜め、周囲を気にするように身を乗り出した。
「あいつ、妙に荒れてたぞ」
「荒れてた? あいつが負傷でもしたってのか」
カイは思わず聞き返した。ヴェラの純戦闘力は単独でもA級相当だ。旧軍の定型教範に従って動いている限り、そう簡単に後れを取ることはないはずだった。
「新しい怪我はない。だが、左腕をかばってた。追いかけなくていい一頭を、追いかけかけたんで止めた」
ダリオは杯を置いた。
「言ったら戻ったよ。怖いのは、あいつが平気な顔をしてることだ。急いで前と同じに戻そうとしてる」
ダリオの言葉に、カイはスープの匙を止めた。
カイは匙を置いた。左腕。自分の報告書には、負傷部位という欄に収まった二文字だった。
「……さらにだ。ちょっと耳の痛い話になるかもしれねえが」
ダリオはエールを飲み干し、口元を拭って言った。
「昨日、荷下ろし場で若い連中に道を教えてただろ。右の荷車から十歩、その先は狭いって。あいつが見てたぞ」
カイは頷いた。あれはヴェラへの高速コールではない。普通に歩く相手が分かるよう、見せてから説明した誘導だ。
それでも声にする間は、二人で使ってきたものだった。
「俺に、あれもお前の仕事かと聞いた」
ダリオはカイの目をじっと見た。
「何が嫌なのかまでは、俺には分からん。だが、お前が離れりゃ全部片づくって顔はするなよ。話すかどうかは二人で決めろ」
ダリオはトレイを手に立ち上がり、酒場を出ていった。
残されたカイは、冷めたスープを見つめながら沈黙した。
ヴェラが何を思ったのかは、本人に聞いていない。ダリオの話から、都合のいい答えを作るわけにはいかなかった。
「……俺たちには関係ない」
誰の進路も決めたくない。誰の命も背負いたくない。だから離れたのだ。今さら彼女の感情に寄り添う権利は、自分にはない。
その日の夜。薄暗い下宿の自室で、カイはランプの灯りの下、手帳を広げていた。
ページの端には、ヴェラが落盤に巻き込まれた際についた、赤黒い血の跡が染み付いている。
あの時、自分が意思確認を省き、無理やり死のルートへ彼女を押し込んでいなければ、彼女が瀕死の重傷を負うことはなかった。
カイが指示を出さなければ、ヴェラは旧軍の教範に従って、適切な安全マージンを取った戦い方をする。最適解から外れるかもしれないが、死地に自ら踏み込むことはない。
カイもまた、相棒の命の責任という恐ろしい重圧から解放され、安全な事務机の後ろで平和に生きていける。
互いに、相手がいなくても生きていける。
俺とあいつは、別々の方が安全なのだ。
そう結論を出したのは、自分一人だった。
「安全なら……それでいいのか?」
カイは血の跡を指で避け、白い余白を開いた。彼女は一人でも生きていける。自分がいなければ何も選べないと思うこと自体が、あの崖と同じ思い上がりだ。
それでも、隣にいたい。
間違いを指摘され、字が小さいと文句を言われ、一緒にノートを直したかった。
朝になると、療養中のヴェラへ面会を申し込みたいとミナに伝えた。返事を急がせないでくれ、とも。
その日の昼下がり。
カイが物流課で書類の整理をしていると、床が微かに振動した。
地震ではない。一定のリズムを持った、重く巨大な何かが地響きを立てている。
次の瞬間、セルカの街のいたる所に設置された監視塔から、耳をつんざくようなけたたましい警鐘が鳴り響いた。
カンッ! カンッ! カンッ!
定刻の鐘ではない。それは、最高レベルの非常事態を告げる乱打。
「何事だ!」
ギルドの職員たちが一斉に窓へ駆け寄る。カイも書類を放り出し、窓を開け放った。
セルカの街を囲む強固な石造りの防壁。その西側の門が、凄まじい轟音とともに内側へ向かってひしゃげ、吹き飛んだ。
粉塵の中から姿を現したのは、これまで辺境で倒してきたような散発的な群れではない。
視界を埋め尽くすほどの、黒くうねる魔獣の波。大小様々な魔獣が、統率された軍隊のように市街地へと雪崩れ込んでくる。
「西の前哨線を抜けた群れか! 内門を閉めろ!」
ミナが青ざめた顔で叫んだ。
大規模な魔物襲撃。セルカの街そのものが標的になっていた。
冒険者たちが慌てて武器を取り、外へと飛び出していく。悲鳴と怒号が交錯し、平和だった街が一瞬にして地獄の戦場へと変わった。
カイは窓際で立ち尽くし、腰の手帳を強く握りしめた。
ヴェラは今、短時間の巡回で別地区にいる。この場にはいない。呼ばなければ、彼女は来ないかもしれない。
自分は戦えない。ここで事務机の下に隠れていれば、あるいは生き延びられるかもしれない。
だが、カイの足はすでに、血と瓦礫の匂いが立ち込める外の死線へと向かって動き始めていた。




