第24話 八パーセント
「急げ! 年寄りや子供は馬車に乗せろ! 荷物は捨てていけ!」
セルカ近郊の集落は、怒声と悲鳴が入り混じる修羅場と化していた。
黒潮の先遣隊である魔獣「岩砕牙」の群れが、想定を上回る速度で防衛線を突破し、この集落へ向かっている。百人以上の民間人が逃げ遅れており、ギルドの救援部隊が到着するまでにはまだ時間がかかる。
カイは広場の片隅で、広げた周辺地図と自身のレッキ手帳を睨みつけ、凄まじい速度でペンを走らせていた。
民間人の移動速度。岩砕牙の突進力と索敵範囲。地形の起伏。
それらを計算式に放り込み、安全な避難ルートを構築する。
「……クソッ、届かない」
カイの額から、じっとりと冷や汗が滲んだ。
どう計算しても、民間人の最後尾が森を抜ける前に、魔獣の群れが追いついてしまう。
森へ逃がす案を成立させるには、殿が崖沿いの獣道へ魔獣を引きつけなければならない。敵の突進と足場の崩れを、ぎりぎりまで利用する道だ。
地図に線を引いた。途中で足を止められる場所が、一つもない。
少しでも足場が崩れるタイミングがずれれば、あるいは敵の速度が予測を上回れば、殿は確実に死ぬ。前世のラリーであれば、タイムがどれほど縮もうと絶対に読まない、即座に捨てていた種類のライン。
これを捨てれば間に合わない。その考えばかりが、頭の中で大きくなった。
カイはペンを握りしめ、隣で静かに待機しているヴェラを見た。
地図の左には、集落の石造りの倉庫がある。そこへ避難民を入れ、二人で入口を守る案も残っていた。救援が遅れれば囲まれる。だが少なくとも、足場の分からない崖へ一人を通す道ではない。
「ここで守るか、外へ引くか」とヴェラが聞いた。
「外だ」
カイは答えた。二つの案を並べる時間は、その時、あった。
(今のヴェラの即応速度なら……このラインでも、通し切れるんじゃないか?)
民間人の最後尾が森の奥へと消えた直後。
地響きとともに、集落の入り口を突き破って岩砕牙の群れが雪崩れ込んできた。岩のような硬い頭角を持ち、あらゆるものを粉砕しながら進む凶暴な魔獣。
カイとヴェラは、集落から続く崖沿いの獣道に立っていた。
手帳には、確かめた日が残っている。雨が降る前の記録だ。カイは、その頁を彼女へ向けなかった。
しかし、群れの接近速度は凄まじい。
(説明している暇はない。迷わせるより、一気に引っ張った方が安全だ!)
直近の二回の戦闘で、意思確認を省いて最速の勝利を得た成功体験。そして、アルディスの『迷いは、人を殺す』という言葉が、カイの背中を強引に押し出した。
ヴェラが短く頷いた。カイは、それを危険まで引き受けた返事として使った。どれほど危うい道か、まだ言っていなかったのに。
ヴェラが靴底で泥を擦った。沈んだ踵を抜き、崖を指す。
「この土、見た目より――」
カイには聞こえていた。それでも、群れが角を曲がる前に動かそうと、次の声を重ねた。
「ヴェラ! 右の崖沿い、前進!」
ヴェラは理由も意図も問わなかった。カイのコールを受領した瞬間、彼女の肉体は反射的に旧軍の即応システムを起動し、極限の速度で獣道へと駆け出した。
「次、左の岩を蹴れ! 一拍待ってから跳躍!」
カイもヴェラから十五メートル圏内を維持するため、自らも足場の悪い斜面を滑り降りながら、絶え間なく圧縮言語を叩き込む。
ヴェラは完璧だった。
カイの引いた余裕ゼロのラインを、寸分違わぬ精度でなぞっていく。群れの先頭が牙を剥くコンマ数秒前に岩を蹴り、空中で体を捻って突進を躱し、着地の反動を利用して次の足場へと飛ぶ。
群れの意識は完全にヴェラに釘付けになり、民間人への追撃は見事に逸らされていた。
(いける。このまま崖を越えれば……!)
カイが勝利を確信した、その瞬間だった。
ヴェラが次の着地点として選んだ崖の中腹。古いノートには強固な岩盤とある。だがヴェラの靴が触れる前に、岩の割れ目から泥水が噴いた。昨夜の雨の後、ここは確かめていない。
ノートの観測日は晴天だった。雨の後も同じだと埋めた空欄が、目の前で崩れた。
ゴッ……! という鈍い音が響いた。
ヴェラが着地しようとしたその地点の真上から、数トンはある巨大な岩塊が、泥水とともに一気に崩れ落ちてきた。
カイの脳内で、凄まじいエラー音が鳴り響く。
余裕区間がゼロのライン。つまり、軌道を修正するためのコールを挟む余白(時間)が、一秒たりとも残されていない。
「ヴェ……ッ!」
叫ぶより早く、ヴェラは自らの本能で頭上からの脅威に反応した。空中で無理やり身を捩り、槍の柄を盾にして岩塊を受け流そうとする。
だが、回避には至らない。
メチャッ、という生々しい破壊音。
岩塊の端がヴェラの左半身を容赦なく打ち据え、彼女の身体は血しぶきを上げながら崖下の斜面へと叩きつけられた。
「ヴェラァァァァッ!」
カイは絶叫し、思考を放り投げて斜面を滑り落ちた。
岩砕牙の群れが、血の匂いを嗅ぎつけて倒れたヴェラへと殺到する。
崩れた岩は、斜面の立ち木に引っかかっていた。カイはその下へ横から滑り込み、ヴェラの外套をつかんだ。持ち上げる力はない。上衣を敷いて、斜面の下へ引く。
岩からこぼれた破片が背中を打った。カイは息を潰しながら、幹の陰まで彼女を引きずった。
直後。カイの視界が、急速に真っ黒に塗り潰された。
過負荷。
余裕ゼロのラインを高速処理し続けた反動が、一気に脳を焼き切る。激しい吐き気が胃を突き上げ、両方の鼻孔からどろりと熱い血が流れ落ちた。
思考が泥沼に沈む。距離感が消失し、群れの足音がひどく遠くに聞こえる判断遅延。
カイは助けを呼んだ。声がうまく出ない。笛を噛み、何度も吹いた。
林を出た民間人が救援隊に居場所を伝えていた。斜面の下から盾兵が二人、駆け上がってくる。カイは彼らの肩を借り、ヴェラを外套ごと運んだ。
*
「救護班! 早く治癒士を呼べ!」
王国の防衛隊が展開する陣地に辿り着いた瞬間、カイはヴェラを抱えたまま地面に崩れ落ちた。
駆けつけてきた兵士たちが岩砕牙の群れを迎撃し、治癒士たちが血だまりの中に横たわるヴェラを取り囲む。
左腕はあらぬ方向へ曲がり、肋骨が折れて肺を傷つけているのか、彼女の口からは泡立った血が溢れていた。
「……ヴェラ……おい、ヴェラ……」
カイは泥と血にまみれた手で、彼女の震える指先を握った。
俺が殺した。俺が、説明を省いて、俺の引いた死のルートを強要したから。
謝罪の言葉すら喉に詰まるカイに対し、ヴェラはわずかに目を開き、焦点の定まらない灰色の瞳でカイを見上げた。
「……命令……通り、だ」
ごぼり、と血を吐き出しながら、彼女は言った。
「お前の……指示通り、走ったぞ。指揮官……」
それは、カイを責める言葉ではなかった。ただ純粋に、与えられた命令を完遂した兵士としての報告。
その言葉は、どんな罵倒よりも鋭く、深く、カイの心をえぐり取った。
彼女は同意したわけではない。ただ条件付けによって、カイの言葉を絶対の命令として受領し、死地へと盲目的に踏み込んだだけなのだ。俺はそれを分かっていながら、自分の成功体験に酔って、彼女の意思を無視した。
ヴェラの目が閉じ、意識が完全に途切れる。治癒士たちが必死に魔力を注ぎ込んでいるが、失われた血液と損傷した組織はすぐには戻らない。
カイは血に染まった自分の両手を見下ろした。
自身の能力が、確率を計算して提示する魔法などではないことは分かっている。ただの情報整理だ。
あの道を勧めた時、確かめてあったことは何割あった。地面も、雨の後の変化も、彼女の返事の意味さえ、都合よく埋めた。
「……八パーセントってところか」
自嘲するように、カイの口からその数字が零れ落ちた。
計算などしていない。口に出してから、また数字の形へ逃げたと分かった。カイは血のついた指を丸めた。
「分かってなかった。それだけだ」
己の傲慢さ。命を預かる責任からの逃避が生んだ、最悪の破綻。
カイはふらつく足で立ち上がると、民間人の誘導を終えて駆けつけてきたミナの前に立った。
「ミナさん」
カイの声は、死人のように感情が抜け落ちていた。
「俺は、戦術観測員を降りる。……ヴェラとの専属契約を、解除してくれ」




