第23話 読めるようになった
セルカの冒険者ギルド、物流課の裏手にある作業机。
中継基地から二日かけて帰った翌朝、カイの机には不在の間の訂正票が積まれていた。
カイは山積みになった配送手配書の束を片付けながら、新しいルート用の業務ノートにペンを走らせていた。
黒潮の前倒しによって、安全な街道は日々刻々と変化している。最新の討伐記録や行商人からの聞き取りをもとに、危険箇所をアップデートしていくのが彼の日常業務だった。
『東街道、左3、落石注意、キープ』
『橋手前、クレスト(見えざる頂上)、ブレーキ』
前世の記号を、こちらの道に合わせて直した文字列。曲がり角の数字と、移動する歩数は、囲み線で区別してある。その短い記録を、背後から熱心に覗き込んでいる影があった。
「……ヴェラ。お前、いつまでそこで見てるつもりだ?」
カイが振り返らずに言うと、灰色の外套を着たヴェラが、真面目くさった顔でノートを指差した。
「私は今、お前の言語を習得中だ。戦場において、お前のコールの意図を事前に予測できれば、私の即応速度はさらに上がる」
先日の毒煙が充満する採石場での夜戦。声が出せない極限状態の中で、彼女はカイが手帳に書き殴った記号を読み取り、さらにはその先の指示まで先読みしてみせた。
それ以来、彼女は暇さえあればカイの業務ノートを覗き込み、彼の使う独特の圧縮言語を自らの手帳に書き写しては学習を続けていた。
「覚えようとしてくれるのはありがたいが、そいつはただの荷車用のルートだ。戦場とは勝手が違うぞ」
「記号の構造は同じだ。地形、距離、そして行動。……だが、カイ」
ヴェラはカイのノートの、とある一行をトントンと指で叩いた。
「ここだ。西の谷間の道、『右4、全開』とあるが」
「ああ、そこは見通しが良い直線だからな。速度を上げて抜けろって意味だ」
「それは三日前のデータだ」
ヴェラはカイの横に並び立ち、彼を見下ろした。
「昨夜、西の山間部ではかなりの雨が降った。あの谷間は水はけが悪く、特に右側の地盤が緩みやすい。荷車でフルスピードを出せば、車輪を取られて横転する確率が高い」
「……」
「私なら、『右4、雨後は未確認、下見をやり直す』と書き加える」
カイはペンを止め、ヴェラの顔とノートを交互に見比べた。
驚きだった。彼女はカイの書いたノートを絶対の『答え』として、ただ盲目的に受け取っているわけではない。彼女自身のこれまでの経験や、昨夜の雨という『現場の事実』と照らし合わせ、情報にズレがないかを自ら検証しているのだ。
「……なるほどな。確かにお前の言う通りだ。助かるよ」
カイは素直に頷き、ヴェラの指摘通りにノートを一箇所修正した。
「ところで、字をもう少し小さくできないか」
「お前の字が小さすぎる。夜は読めん」
カイは言い返そうとして、採石場の暗さを思い出した。次の行は少し大きく書いた。
その日の午後。
二人は物流の安全確保のため、セルカ近郊の森へ小規模な魔獣の討伐任務に出ていた。
ターゲットは、群れからはぐれて街道に迷い込んだ低級の魔獣、数頭。危険度は低く、日常業務の延長のような任務だ。
「右二、突き! 次、そのまま左へ回れ!」
カイの軽快なコールに合わせ、ヴェラが流れるような動きで魔獣を処理していく。彼女の理解度が上がっているおかげで、コールの意図が以前よりもスムーズに伝わっているのが分かった。
あっという間に目標の魔獣を仕留め、カイが手帳を閉じようとした、その時だった。
ガサガサッ!
倒した魔獣の血の匂いに釣られたのか、二人の頭上の樹冠が激しく揺れた。
「チッ、伏兵か!」
樹上から音もなく降ってきたのは、鎌のように湾曲した鋭い爪を持つ猿型の魔獣だった。木々の間を立体的に動き回る、ひどく素早い奇襲型の魔物。
カイは瞬時に周囲の木々の配置と、猿型魔獣の落下軌道をレッキした。
猿型魔獣の爪が、ヴェラの頭上へと振り下ろされようとしている。
爪の影が落ちた。
上から、と言いかけた口が、行き先だけを選んだ。
「後で説明する、左!」
極限まで切り詰められた、ただ行動だけを強要する命令。
ヴェラは上からの奇襲に気づいていなかったが、カイのその叫びを聞いた瞬間、一切の疑問を持たずに左へ全速力で跳躍した。
ザシュッ!
直後、彼女が元いた地面を、猿型魔獣の凶悪な鎌爪が深くえぐり取った。
ヴェラは左の岩に着地すると同時、跳躍の反動を活かして壁を蹴り、無防備に地面へ着地した猿型魔獣の首根っこへ、上段から槍を突き刺した。
ギャアッ、と短い悲鳴を上げ、魔獣は即死した。
「……ふぅ。驚かせやがって」
カイは警戒を解き、息を吐いた。
ヴェラが槍を引き抜き、カイの元へ戻ってくる。
「悪い、ヴェラ。上から来てたんだが、急だったから説明を省いた」
カイは一応、意思確認を飛ばしたことへの謝罪を口にした。
だが、ヴェラは気にする素振りも見せず、淡々と首を振った。
「謝罪は不要だ。結果として、最速で致命傷を回避できた。あのタイミングで理由を説明されていれば、反応が遅れていた可能性が高い」
「危ない時は、それでいい」とヴェラは続けた。「その後で、何を避けたか教えてくれ」
カイは頷いた。だが報告書には、奇襲を無傷で回避、とだけ書いた。晶甲蟹の時も、今日も、短く言った方が間に合った。
手帳に理由を書き足すつもりだった。次の報告を渡され、その頁は閉じたままになった。
セルカのギルドへ帰還すると、物流課のフロアは異様な熱気に包まれていた。
「カイ! 戻ったか、早くこっちへ来い!」
ミナが血相を変えて、カイの腕を掴んで机へと引っ張った。
「何があったんです、ミナさん」
「黒潮の先遣隊が、西の防衛線を一つ抜いた。魔物の群れが、セルカの手前にある集落へ向かっている!」
ミナが机に広げた地図には、赤い×印がいくつも書き込まれていた。
「まだ百人以上の民間人が逃げ遅れている。ギルドの討伐隊が向かっているが、それだけでは足りない。お前のその手帳と頭で、民間人を安全に逃がすための避難ルートを今すぐ構築してくれ!」
カイは表情を引き締め、地図と自身の最新のレッキデータを照合し始めた。
迫り来る魔獣の群れの進行速度と、足の遅い老人や子供を含む避難民の移動速度。それを、複雑な山林の地形データに当てはめていく。
「……マズいな」
カイの額から、じっとりと冷たい汗が滲み出した。
魔獣の群れを完全に躱し、全員を安全な場所へ逃がすためのルート。計算上、それは確かに存在した。
だが、そのルートはあまりにも薄く、脆かった。
ほんの数秒の遅れ、一歩の踏み外しすら許されない。魔獣の感知範囲のギリギリの隙間を、針の穴を通すように駆け抜けなければならない。
余裕区間が、一つもない。
前世のラリーなら、いくらタイムが縮むとしても、絶対に読み上げない。即座に捨てて、もっと安全な別の道を探していた種類の、死と隣り合わせのラインだ。
カイのペンの先が、地図の上で震えて止まった。
――やめろ。こんな余裕のないラインを走らせれば、少しのイレギュラーで死人が出る。
前世のコドライバーとしての本能が、そう警告している。
だが、カイは隣で静かに指示を待つヴェラの横顔を見た。
(今のヴェラなら……俺が意思確認を省いて、最速でコールを叩き込めば、このラインを通し切れるんじゃないか?)
ここ最近の「省略の成功体験」と、アルディスの言葉が、カイの背中を強く、そして危険な方向へと押し出していた。




