第22話 夜戦、声がない
旧軍基地の最深部へ続く階段を半ばまで降りると、そこには巨大なすり鉢状の採石場跡が広がっていた。
天井の岩盤には外界へ通じる亀裂がいくつも走っているが、そこから差し込むはずの光はない。外界はすでに深い夜の闇に沈んでいるのだ。
光源は、カイが手に持つカンテラ一つ。
だが、視界を奪っているのは暗闇だけではなかった。
「……ゲホッ、ゴホッ!」
空間を満たす、黄色く濁った空気。カイは口元を布で覆うのが一瞬遅れ、そのガスを吸い込んで激しく咳き込んだ。
喉の奥が焼けるように熱い。声帯が炎症を起こし、空気を吸い込むだけで鉄の味がした。
「カイ、喋るな。毒煙だ」
隣で同じく布を巻いたヴェラが、小声で鋭く警告する。
彼女はカンテラの覆いを横へ回し、二人の間を照らした。届く光は三メートルほど。カイは、すぐ隣の腰と肩まで見えることを確かめた。
「囲まれている」
ヴェラの言葉に、カイは目を凝らした。
黄色い毒煙の奥、岩陰や採石場のすり鉢の底から、ズルズルと何かを引きずるような不気味な音が近づいてくる。
暗闇から現れたのは、巨大な芋虫のような胴体に、節足動物の硬い脚を無数に生やした魔獣だった。盲目の泥這い(ブラインド・クローラー)。
その頭部には目がなく、代わりに耳介のように発達した巨大な器官がヒクヒクと蠢いていた。
(視覚がない……音で獲物を探すタイプか)
カイは掠れた喉をさすりながら、舌打ちを我慢した。
視界が最悪な夜の毒煙の中、敵は音だけに反応して襲い掛かってくる。こんな環境で大声でコールを飛ばせば、群れ全体に自分の位置を知らせ、一瞬で圧死させられる。
発声自体が致命的な罠となる、最悪の戦場だった。
ズル、ズルズル……。
魔獣たちが、二人の微かな衣擦れの音や足音を拾い、包囲の輪を縮めてくる。
声が出せない。
階段から見えた高い縁なら覚えている。煙の中の穴や障害物までは分からない。カイは長い木片を足元へ差し、沈まない場所だけを進路に選んだ。
カイは布越しに荒い息を吐きながら、腰から手帳と太い黒鉛のペンを引き抜いた。
声が駄目なら、見せればいい。
カイは手帳のページに、前世のペースノートで使っていた極限まで圧縮された省略記号を書き殴った。
『右2/止/二秒』
右へ二歩、止まって二秒待て。灯りの中にある足場だけを記した。
カイは書き終えると同時、ヴェラの肩をトントンと二回叩き、カンテラの光を一瞬だけ手帳のページに当てて提示した。
手帳は声の代わりになる。だが、姿勢が見えなければ同期は続かない。カイは彼女の一歩後ろへ灯りを運んだ。
ヴェラは手帳へ目を落とし、右へ二歩移って止まった。カイも一歩寄る。新しく照らされた岩の縁に、煙を押し分ける影があった。
一、二。
二秒後。盲目の魔獣がヴェラの靴音を追って岩陰から顔を出した瞬間、彼女の槍が音もなく突き出され、その急所を正確に貫いた。
声帯の振動も、大気の震えもない。ただ記号という視覚情報だけを媒介にして、カイの脳とヴェラの肉体が短い動作ごとにつながっている。姿勢が煙に隠れた時には、次の指示を出さずに待った。
(いける)
カイは確信し、次々と記号を書き連ねた。さらに、手帳に書ききれない微細なタイミングは、指先の手信号で補う。
『左2/岩/跳』
カイの提示と手信号に合わせ、ヴェラが左の岩を蹴って跳躍し、魔獣の死角から上段突きを放つ。
槍が戻る間に、カイも灯りを持って岩の横へ移った。
しかし、血の匂いが広がるにつれ、泥這いの群れは完全に狂乱状態に陥った。
無数の脚が岩を削る音が響き渡り、四方八方から巨大な顎が迫ってくる。
カイのペンの動きが追いつかなくなる。コンマ数秒、手帳に記号を書くその時間すらもが惜しい。
(くそっ、間に合わない……!)
カイがペンを握りしめ、強引に『左』の記号を書こうとした、その時だった。
ヴェラはカイの手帳を見るのを待たなかった。
ヴェラの目が、カイの視線を追って左の岩棚へ動いた。カイが頷く前に、彼女は岩の縁を足先で確かめた。
カイが手帳をカンテラで照らすよりも早く、ヴェラは自ら左側の岩棚へと身を翻し、退路を確保した。
直後、彼女が元いた空間を三匹の泥這いが通過し、互いに衝突して隙を晒す。
ヴェラは岩棚の上から、絡み合った三匹の魔獣を流れるような連続突きで一網打尽に切り捨てた。
カイは目を見張った。
まだ白紙のページを、カイは閉じた。今の左は、彼女が見つけた道だった。
岩棚の端で、作業服の男が工具を叩いていた。脚が折れた足場に挟まっている。カイが留め金を外し、ヴェラが梁を持ち上げた。男を高い縁へ引き出すと、階段から応援の灯りが見えた。
男を引き渡す間、カイは壁に走る黒い筋に気づいた。
そこには、採石場の壁面を利用して作られた、巨大な換気システムのような旧軍の遺構が存在していた。
巨大な歯車、太い鉄のパイプ、そして這い回るように伸びる太い動力ケーブル。
「……これは」
カイがカンテラを高く掲げ、その遺構を照らし出した瞬間、二人は絶句した。
大黒潮の中心にしかないはずの黒晶。それが、ただ無作為に増殖しているわけではなかった。
黒晶の結晶体は、天然の岩肌や壁面ではなく、旧軍の設備である『動力ケーブルの導線』に沿って、まるで生き物の血管に寄生するようにびっしりと侵食し、脈打つように淡い光を放っていたのだ。
「黒晶が……旧軍の動力線に食い込んでいる」
ヴェラが布越しに、信じられないというような声を漏らした。
導線の継ぎ目ほど、黒晶が厚い。設備が黒晶を集めたのか、増えた黒晶が線へ沿って育ったのか。順序までは分からない。
「ここの電源は、いつから?」
カイの問いに、救助された男が答えた。
「八日前だ。旧都から試験をすると……こんな煙、昨日はなかった」
カイは日付を記した。大黒潮そのものを人が起こしたとは言えない。だが、設備の再稼働と、この場所の異常は調べ直す必要がある。
「……上に戻るぞ。これ以上は、俺たちの手に負える情報じゃない」
戻り道でヴェラが足を止め、白紙を一枚求めた。カイは渡した。彼女が写したのは敵の位置より先に、救助した男のいる安全な棚だった。
カイは掠れた喉から音を絞り出し、ヴェラを促した。
毒煙の立ち込める地下区画を抜け、比較的空気の澄んだ中層の通路まで撤退した。
カイは水袋の水を喉に流し込み、咳き込みながらもなんとか声帯の痛みをごまかしていた。
「少し休んでから、地上へ……」
カイが振り返ると、少し離れた岩に腰掛けたヴェラが、自らの腰のポーチから小さな手帳を取り出しているのが見えた。
彼女は、カイが照らすカンテラの明かりの端で、何かを熱心に書き込んでいた。
「何してるんだ?」
カイが覗き込むと、ヴェラは隠すような素振りも見せず、その手帳を開いたまま顔を上げた。
そこには、無骨で角張った文字で、先ほどカイが使っていた記号が書き写されていた。
『右2/止/二秒』
その下へ、ヴェラはもう一組、同じ筆圧で書き足した。
『左2/岩/跳』
二冊を並べ、数字と区切りを一つずつ確かめている。
「……お前の記号は、合理的だ。口頭での命令よりも、はるかに情報密度が高い」
ヴェラは真剣な眼差しで、カイの手帳を指差した。
「お前の指示の意図を、私も理解する必要がある。だから、覚えようと思ってな」
「次に使う時は、私も書く」
ヴェラはそう言って、紙を丁寧に畳んだ。
カイは自分の手帳をしっかりと握り直し、毒煙で痛む喉の奥で、小さく笑った。




