第21話 読まれる最適解
旧軍前線基地の地下区画。音喰い鳥の巣となっていた通路を抜けると、そこは巨大な天然の洞窟へと繋がっていた。
カンテラの光をかざしたカイは、壁面を覆い尽くす不気味な輝きに息を呑んだ。
「……尋常な量じゃないな」
洞窟の岩肌には、黒潮の発生源である断層の最深部にしかないはずの『黒晶』が、まるで寄生植物のように異常増殖していた。
そして、その黒晶が発する微かな瘴気の中に、無数の影が蠢いていた。
巨大な蟹の魔獣、晶甲蟹。彼らは増殖した黒晶を食らい、その成分を外殻に定着させることで、通常の魔物とは比較にならないほどの硬度と、不気味な黒光りを持つ装甲を手に入れていた。
「来るぞ、ヴェラ!」
カイは段差と退路を手帳へ書き、迎撃のラインを構築した。
晶甲蟹の群れが、巨大なハサミを振り上げて押し寄せる。
「右三、鍾乳石の裏へ回れ!」
カイのコールに、ヴェラが即応する。彼女は滑る岩肌を蹴って右へ三歩回り込み、突進してくる晶甲蟹の死角――岩の裏側に身を隠した。
「二秒待って、関節の継ぎ目を突け!」
魔獣がヴェラの残像を追って鍾乳石に激突した瞬間、彼女の槍が装甲の薄い脚の関節を精確に撃ち抜く。
ここまでは、いつもの連携だった。カイが地形と敵の速度から『最も合理的で安全な最短ライン(最適解)』を弾き出し、ヴェラがそれにラグなしで乗る。
しかし、数分間の戦闘を経た頃、カイの引く完璧なラインに、わずかな綻びが生じ始めた。
「次、左へ抜けて壁を蹴れ!」
カイのコール。ヴェラが左へステップを踏み、壁を蹴って宙へ跳ぼうとしたその瞬間。
ガキンッ!
ヴェラがまさに跳躍しようとした『着地点』の空間に、別の晶甲蟹の太いハサミが、あらかじめ待ち構えていたかのように振り下ろされたのだ。
「なっ……!」
間一髪で槍の柄を盾にして防いだヴェラだが、凄まじい衝撃に弾き飛ばされ、地面を転がった。
「ヴェラ! 大丈夫か!」
「問題ない。だが、今のは……」
カイは歯を食いしばり、戦況データを猛烈な勢いで再計算した。
偶然ではない。晶甲蟹たちは、カイが提示する『常に最も合理的で無駄のない回避ルート』のパターンを学習し始めている。
黒晶を過剰摂取した魔獣は、知能すらも異常な進化を遂げていた。彼らはカイの一定のリズムと、ヴェラが選ぶ最適ルートを記憶し、その出口へと意図的に罠を置き始めているのだ。
カイの背筋に冷たい汗が伝う。
さっき抜けた隙間に、今度は鋏が待っていた。
群れがジリジリと距離を詰め、二人を包囲していく。
カイの目には無数のラインが見えていた。しかし、最も安全な右の岩陰へ抜けるラインを提示すれば、すでにそこに先回りしようとしている三匹のハサミの餌食になる。
ならば、どうする。
最適解が罠になるなら、あえて『非合理で、足場の悪い二番目のルート』を選ぶしかない。
左側の急斜面。脆い岩が積み重なり、通常であれば絶対に選ばない危険なライン。
普段のカイであれば、そのリスキーな道を選ぶ理由を短く伝え、ヴェラにその道を行く意思があるかを確認する間を置いただろう。
だが、包囲の網は刻一刻と狭まっている。
説明している時間はない。確認を取れば、その数秒で殺される。勝ちを急いだカイは、そのプロセスを一拍、完全に切り捨てた。
「ヴェラ!」
カイは叫ぶと同時、自ら『読まれている最適ルート』である右の安全な岩壁へと全速力で駆け出した。
「カイ!?」
晶甲蟹たちは、カイが今まで通りの最適ルートへ逃げ込んだと判断し、一斉にカイの方へとその巨体を向け、殺到した。
敵の意識と予測を、自分の身体を囮にして完全に引きつける。
そしてカイは、自分へ迫る巨大なハサミをギリギリで躱しながら、ヴェラに対して一切の説明を省いた、行き先だけを怒鳴りつけた。
「左の斜面へ! 今!」
だが、ヴェラは理由も意図も問わなかった。カイが右へ囮となった瞬間、彼女の身体は完全即応のシステムに従い、カイが示した左の斜面へと迷いなく跳躍していた。
崩れやすい斜面を強引に駆け上がり、高所を取る。
晶甲蟹たちはカイに気を取られ、真上からの死角が完全に無防備になっていた。
「ハァッ!」
ヴェラが斜面の最上段から跳躍し、全体重を乗せた急降下の突きを放つ。
一頭目の関節へ槍を突き、ヴェラはその背を蹴って横へ抜けた。カイは倒れた甲殻を盾に回り込む。追ってくる蟹の背後から、一頭ずつ脚を奪っていった。
数分後。洞窟は静寂を取り戻していた。
討伐した魔獣の体液が、黒晶の輝きに反射して不気味に光っている。
「……助かった」
カイは岩壁に手をつき、荒い息を吐き出した。
ヴェラが槍の汚れを拭いながら、カイの元へ歩み寄ってくる。彼女の表情は平坦だったが、その瞳には小さな疑問が浮かんでいた。
「カイ。なぜあの状況で、足場が最悪な左の斜面が正解だったのだ? お前の引くラインとしては、極めて非合理的だったが」
カイは手帳を取り出し、図を指し示しながら答えた。
「奴らが、俺たちの最短ルートを学習していたからだ。一番安全な右へ行けば、必ず待ち伏せを食らってた。だからあえて、奴らが予測しない二番手のルートを通したんだよ」
「なるほど。だからお前が右へ走り、囮になったのか」
ヴェラは納得したように頷いた。
彼女は、自分が理由も知らされずに危険な足場へ向かわされたことを、まったく怒っていなかった。
カイの心中に、チクリとした痛みが走る。
『俺のコールはただの情報だ。選ぶのはお前だ』と言っておきながら、先ほどの自分は、彼女の意思確認を省き、足場の危険を伏せたまま、自分の思い描いた通りに動かしてしまった。
それは、責任から逃げるために避けてきた『命令』そのものではないのか。
しかし。
(結果として、俺たちは無傷で勝てた)
カイは、自分の内側から湧き上がる言い訳を否定できなかった。
もしあそこで、左へ行く理由を説明し、彼女の判断を待っていたら。その数秒の遅れで、自分はハサミで真っ二つにされていたかもしれない。
迷わせずに従わせたからこそ、生き残れた。
『迷いは、人を殺す』
アルディスが遺したその言葉が、カイの脳内で心地よく反響した。それは、自らの行動を正当化するための、ひどく便利な免罪符だった。
カイは手帳をパタンと閉じ、自分の心の中の小さな警鐘を、見なかったことにして封じ込めた。
「よし。奥へ進むぞ。この黒晶の異常増殖、絶対に大黒潮の前倒しと関係がある」
二人が洞窟のさらに奥深く、旧軍の採石場跡へと続く下層への入り口に辿り着いた時、空気の質が劇的に変わった。
「……カイ、止まれ。臭いが異常だ」
ヴェラが手で鼻を覆う。
下層の暗闇から、うっすらと黄色味がかった有毒なガス――魔物が発生させる毒煙が、じわじわと湧き上がってきていた。
カイは口を覆い、ヴェラの腕を引いた。引き返すべきだ。
その時、奥の壁から三度、金属を叩く音がした。止まり、また三度。
「点検班の救難信号だ」とヴェラが言った。
カイは入口の兵へ戻り、救助の応援と濡れ布を求めた。低い所ほど煙は濃い。上の縁を伝い、生存者を見つけたら連れ出す。それだけに絞って、二人は階段へ戻った。




