第20話 偽物のコール
旧グラディア軍の前線中継基地、その地下区画。
ダリオの報告を受けたカイとヴェラは、カンテラの明かりだけを頼りに、湿った冷気が漂う薄暗い石造りの通路を慎重に進んでいた。
『……助け、て……っ』
『右へ避けろ!』
通路の奥から、くぐもった声が反響して聞こえてきた。
悲鳴や、戦いを指示する怒声。それは先ほどまで地上で戦っていた冒険者たちの声に酷似していたが、奇妙なことに、その声には人間特有の「感情の揺れ」や「息遣いの乱れ」が欠けていた。
まるで、壊れた蓄音機が同じ音声をただ繰り返しているかのように。
『行くぞ、ヴェラ!』
『右下、二秒で崩れる!』
さらに奥から聞こえてきたその声に、カイは背筋が凍りつくのを感じた。
間違いない。それはカイ自身の声だった。先ほど、地上で変異個体と交戦した際に発したコールと、寸分違わぬ音色とトーン。
「俺の声だ……生存者の声じゃない」
カイが手帳を構え直した瞬間、通路の天井付近の闇が蠢いた。
バサバサと羽音を立てて姿を現したのは、人間の顔ほどの大きさを持つ、漆黒の鳥の魔物だった。鋭い嘴と、不気味に発達した喉仏。
音喰い鳥。
獲物の断末魔や、戦場で飛び交う指示を記憶し、それを完璧に模倣して獲物を混乱させ、罠へと誘い込む悪辣な習性を持つ魔獣。本来はもっと深い森林地帯の奥にしか生息していないはずの魔物だ。
「数が……多いぞ」
カンテラの光が届く範囲だけでも、数十羽の音喰い鳥が天井や壁にびっしりと張り付いていた。
魔物たちが一斉に木霊のような声を上げ、狭い通路の中で滑空攻撃を仕掛けてくる。
カイは通路の幅と壁の凹凸を確かめ、迎撃のラインを引いた。
「右三、壁を背にしろ!」
カイの鋭いコール。
しかし、ヴェラの身体が動くのと同時、天井を飛び交う群れの中から、無数の声が降り注いだ。
『前へ十! 酸を避けろ!』
『左下から薙げ!』
『止まれ!』
それらはすべて、カイと全く同じ声色、同じトーンで発せられた偽のコールだった。
「なっ……!?」
ヴェラの身体が、ピタリと硬直した。
右の声に足が出かけ、左の声で止まる。聞こえた瞬間に動ける速さが、今は彼女を引き裂いていた。
どれが本物で、どれに従えばいいのか。
その一瞬のラグを突き、一羽の音喰い鳥がヴェラの死角から急降下した。
鋭い鉤爪がヴェラの頬を掠め、一筋の赤い血が滲む。
「ヴェラ! 俺の今の声だけに集中しろ!」
カイが叫ぶが、音喰い鳥たちはそのカイの叫びすらも即座にサンプリングし、『俺の今の声だけに集中しろ!』とあちこちからエコーのように響かせてくる。
音色や声質では、絶対に区別がつかない。カイはどうやって偽物を排除し、本物のルートを伝えるべきか、焦燥の中で思考をフル回転させた。
ヴェラが石突きで鳥を弾いた。
「今の前十は、壁の中だ」
彼女が言った。カイも壁を見た。声は先ほどのままでも、使う場所は違う。
「……分かったぞ」
ヴェラは槍を構え直し、無数に飛び交うカイの偽声の中から、背後に立つ本物のカイへ向けて告げた。
「地形、距離、動き。お前の間合いで続けろ! 今見えるものと合う声を拾う!」
その言葉に、カイの目が大きく見開かれた。
ヴェラの目が、声の示した足場を確かめている。読み方が似ていても、今見える場所と合わない声は捨てていた。
「上等だ……! なら、ペースを上げるぞ!」
カイは自身のルーツであるラリー・コドライバーのテンポを強く意識し、録音だけでは先回りできない、今の動きに合わせた間隔でコールを再開した。
「前二、一拍待って、上段突き!」
偽のコールが『右へ避けろ!』と叫ぶ中、ヴェラはカイの刻む「前二」という地形情報の後の『一拍の間』を正確に拾い上げ、それに合わせて踏み込んだ。
空中で飛びかかってきた鳥が、ヴェラの『一拍待った』槍の切先に自ら飛び込むようにして貫かれる。
「左壁沿い、三歩、そのまま薙げ!」
タ・タ・タン、という三拍子のリズム。ヴェラはそのリズムの通りに壁沿いを三歩駆け抜け、横一文字に槍を薙ぎ払って三羽を同時に切り捨てた。
偽声が重なるたび、ヴェラは足場へ目を走らせた。その一拍までは、なくせない。
だが、偽コールが鳴り止まない限り、完全な処理速度は出せない。
カイは事前のレッキで把握していた、通路の中ほどにある『木蓋の腐り落ちた換気用の縦穴』へと視線を向けた。
指示役である自分が安全圏にいるから、敵は戦うヴェラばかりを狙う。ならば。
「右……跳べッ、前、止まれッ!」
カイは突然、自分に染み付いたペースノートの一定のリズムを意図的に『崩し』、ひどく不規則でデタラメなコールを大声で叫び出した。
音喰い鳥たちの習性。新しい、聞いたことのない不規則な声を記憶しようとする本能。
群れの半数以上が、ヴェラから標的を変え、不規則な声を上げるカイの元へと一斉に殺到した。
「カイ!」
ヴェラが叫ぶ。
カイは頭上から迫る黒い群れを前に、一歩も退かず、自らあの『木蓋が腐り落ちている縦穴』のギリギリの縁へと駆け込んだ。
鳥たちがカイの頭上、つまり縦穴の真上の空間へと密集した、その瞬間。
カイはデタラメな声をピタリと止め、本来の、極めて冷徹なコドライバーのリズムを取り戻して絶叫した。
「縦穴の縁! 左二! 一掃しろ!」
地形。距離。行動。
完璧な三拍子。
ヴェラはカイの意図を完全に理解し、一切のラグなしで縦穴の縁へと跳躍した。
カイを襲おうと空中に密集していた音喰い鳥たちは、上昇気流に押されて狭い壁際へ寄ったところで、ヴェラの遠心力を乗せた凄まじい大薙ぎ払いの直撃を受けた。
ギャアアアッ! という無数の断末魔が重なり合い、切断された黒い羽と肉片が、深い縦穴の底へと次々に吸い込まれていく。
残った数羽も、ヴェラの正確な刺突によって瞬く間に処理された。
「……終わったか」
カイは縦穴の縁から一歩下がり、壁に背を預けて大きく息を吐いた。
過負荷による軽い頭痛はあったが、倒れるほどではない。お互いのリズムが同期したことで、無駄な処理負荷が大幅に軽減されたのだ。
ヴェラが槍の血を振り払い、カイの前に立った。
「的確なリズムだった。私はもう、お前の声色ではなく、読み方を覚えた」
「場所まで合う声が混じったら、また止まる」とヴェラは付け加えた。カイは頷いた。
「頼もしいことだ。……だが、こいつら、なんでこんな最前線基地の地下なんかに群れてたんだ?」
カイは足元に落ちていた音喰い鳥の死骸の一つを足先で裏返した。
ふと、その嘴の隙間から、サラサラと黒い粉末がこぼれ落ちた。
「これは……」
ヴェラが屈み込み、その粉末を指ですくい上げる。
「黒晶の粉末だ。断層の奥深く、大黒潮の発生源でしか削れないはずのものが、こいつらの口内に付着している」
本来は森にいるはずの音喰い鳥が、なぜ黒晶の粉を口に含み、この基地まで移動してきたのか。
一羽の喉が、最後に低く鳴った。二つ短く、一つ長く。鐘の音だった。
「門の鐘と似てる」
「だが、最後の一打が違う。旧都の設備を試す時の音だ」
ヴェラが言った。カイは鳴った間隔をノートへ写した。
黒晶の粉だけで移動経路は決められない。だが、試験の音をどこかで聞いた鳥がここへ来た。リオに記録を照会する理由にはなる。
カイは黒い粉を紙で包み、採れた場所を書き添えた。




