第26話 私が来た
セルカの西門が、凄まじい轟音とともに吹き飛んだ。
木っ端微塵になった巨大な門扉の残骸を乗り越え、大小様々な魔獣が濁流のように市街地へと雪崩れ込んでくる。西の前哨線を抜いた先遣群の一部。辺境の交易都市に過ぎないセルカの防壁では、その波を長くは止められなかったのだ。
「逃げろ! 大通りに出るな、射線が通るぞ!」
カイは武器を持たず、瓦礫が散乱する街路で必死に声を張り上げていた。
悲鳴と怒号が交錯する中、パニックに陥った避難民たちを安全な区画へと誘導し続ける。
カイの脳内には、普段の業務で書き溜めていたこの街の裏路地から下水道に至るまでの詳細な地図が入っている。
「お婆さん、その荷物は捨てろ! 右の三番路地に入れ、そこなら屋根が崩れて魔獣は通れない!」
カイは逃げ遅れた人々の背を押し、路地へ送り込んだ。
カイは、ヴェラを呼ばなかった。
彼女は今、巡回依頼でセルカの東側の区画にいる。物理的な距離が離れすぎているし、そもそも専属契約を解除したのだ。
俺はもう、彼女の命に責任を持たない。そう決めた。
だからカイは、一人で目の前の命を救うため、泥と血にまみれながら崩れゆく街を走り回っていた。
*
セルカ東区画。
東区画の巡回中に入り込んだ小型の魔獣を退け、槍の血糊を拭っていたヴェラは、街の西側から響き渡るけたたましい警鐘と、黒い噴煙を見つめていた。
西門が突破された。状況から見て、大規模な魔物の侵攻だ。
まだ左腕は重い。治癒士に許されたのは巡回だけだった。
一昨日、荷下ろし場でカイの声を聞いた。同じ間で、別の相手へ道を渡していた。助かった者を見て嬉しいはずなのに、帰ってから何度もその声を思い出した。
誰にも使うな、と言いたいのではない。自分と話すことまで、終わりにしないでほしかった。
西の空に煙が上がる。
ヴェラは近くの衛兵に東区画の避難者を引き継いだ。
「私は西へ行く。長くは戦えない。交代を送ってくれ」
カイに呼ばれてはいない。だから行けないという理由も、もうなかった。
*
「チッ……!」
避難誘導の殿を務めていたカイは、舌打ちをして足を止めた。
民家を突き破り、カイの目の前に躍り出たのは、三メートルを超える剛腕猿だった。太い丸太のような両腕を持ち、建物を容易に粉砕する魔獣。
避難民はすでに裏路地へ逃がした。だが、武器を持たないカイには、この魔獣の突進を凌ぐ術はない。
魔獣が巨大な腕を振り上げる。
死を覚悟し、カイが身を固くしたその瞬間。
頭上の屋根を蹴り砕き、空から灰色の外套が真っ直ぐに舞い降りた。
ガァンッ!
凄まじい衝突音。魔獣の振り下ろした剛腕を、ヴェラが上空からの急降下を利用した槍の柄で強引に弾き飛ばした。
着地と同時に姿勢を低くし、ヴェラは魔獣とカイの間に立ち塞がった。
「ヴェラ……! お前、なんでここに……」
「呼ばれていない」
ヴェラは振り返らず、魔獣から目を離さないまま、はっきりと告げた。
「だが、来ると決めた」
カイは言葉を失った。命令でも契約でもなく、彼女が自ら状況を判断し、この場所を選んで来たのだ。
ヴェラが猿の拳を槍の柄でそらした。カイは落ちた戸板を蹴り起こし、二人でその裏へ回る。
「左腕は、まだ長く使えない」
「分かった。倒すより、交代までここを塞ぐ」
「お前のコールを使う。危ない所は、今度は隠すな」
カイは頷いた。
「崖では、話す時間があった。俺が省いた。すまなかった」
「土が柔らかいと言いかけた。お前の次の声で、足が出た」
カイは唇を噛んだ。あの報告を、聞き終えなかった。
「あとで全部聞く。今は、ここだ」
猿が戸板を砕いた。
「右は狭い。左なら二人で抜けられる」
「左を使う」
ヴェラが答えた。
カイは露店の荷台を押し、路地の右側へ横倒しにした。空いた左の隙間にヴェラが立つ。猿が荷台を乗り越えようと、拳を床についた。
「左三、顎が上がる!」
短いコールが、荷台の軋む音を抜けた。
ヴェラは迷わず左へ三歩踏み込んだ。倒れた荷台の端を蹴り、魔獣がカイへ向き直ろうとした隙を突いて、上段からの強烈な刺突をその顎の下へ深々と叩き込む。
脳髄を貫かれた剛腕猿が、地鳴りを立てて崩れ落ちた。
「次が来るぞ! 一歩下がって左、薙ぎ払え!」
ヴェラが一歩下がり、槍を返す。カイも荷台の陰へ寄り、次に来る獣の位置を伝えた。二人で裏路地の入口を守る。大通りではダリオたちが荷車の柵を組み直し、衛兵が内門へ避難民を通していた。
数時間後。
王国の正規軍が到着し、市街地の魔物は完全に掃討された。
血と泥にまみれた西門の残骸の横で、カイとヴェラは崩れた石垣に背を預けて荒い息を吐いていた。
カイは目を閉じた。頭痛はまだ引かない。ヴェラも左腕を膝に置き、指を開いたり閉じたりしている。
交代の兵が来たところで戦いを切り上げた。それだけは、今回は守れた。
「一昨日、お前がほかの人に道を教えているのを見た」
ヴェラが言った。
「私たちの言葉が、私抜きでも続いていた。腹が立った。……お前の仕事だと、分かっているのに」
「お前をほかの誰かに替えたつもりはない」
「なら、私と話せ。契約を切れば終わると、一人で決めるな」
カイは、今度は彼女の顔を見た。
「もう一度、組んでほしい。俺が隠したことも、報告書ごと渡す。断ってもいい」
「組む。今ここへ来たのは、私だ」
ヴェラはカイの手帳を開き、余白へ大きく書いた。
『負傷、余力、見えていない場所。先に伝える』
「違和感も言う。言いかけたら、最後まで聞け」
「分かった。俺も、知らない所を黙って埋めない」
その下にカイが書き足した。
『中止はどちらからでも。急場のコールは、後で確かめる』
消えない血の跡の隣に、二人の字が並んだ。
そこへ、複数の足音が近づいてきた。
顔を上げると、王国の紋章を掲げた鎧を着た、黒潮対策本部の使者たちが数名、二人の前に立っていた。
「カイ・レーヴェン。及び、ヴェラ・カルドだな」
使者のリーダーが、手にした書状を開いて冷徹な声で告げた。
「王国軍本部より、特例召集だ。先ほどの市街地防衛の手腕、しかと拝見した。君たちには直ちに、王国軍の作戦会議に同行してもらう」
それは、冒険者ギルドへの依頼ではない。国家からの強制的な召集。
押し寄せる大黒潮の波は、ついに二人を、避けては通れない大規模な戦争の席へと引きずり出そうとしていた。




