第18話 右5、全開――行け
辺境村の防衛を無事に終えた討伐隊は、それ以前の戦闘で負傷し、村で療養していた冒険者たちや残った物資を大型の荷馬車に乗せ、セルカへの帰路についていた。
空は厚い雲に覆われ、前日の夜に降った雨のせいで、切り立った崖沿いの峠道は酷くぬかるんでいた。
「慎重に進め。車輪が泥に取られやすい」
荷馬車の後部を歩いていたダリオが声をかける。カイは荷台の隅に座り、疲労で眠る負傷者たちの様子を見守りながら、手帳に周辺の地盤の緩みを記録していた。
その時だった。
バァンッ! という、乾いた破裂音が響いた。
続いて、馬のいななきと、木材がへし折れる不吉な音。
荷台が大きく跳ね上がり、カイは危うく放り出されそうになった。荷台を揺すったのは、後輪の制動棒が折れる音だった。驚いた馬が跳ね、御者が片手を離す。手綱が引っかかっていた木金具が裂け、二本とも前へ落ちた。
「うわあっ!」
バランスを崩した御者が、御者台から泥だらけの地面へと転げ落ちる。
制御を失った二頭の牽き馬がパニックを起こし、猛烈な勢いで急な下り坂を駆け下り始めた。
「馬車が暴走したぞ! 止めろ!」
ダリオの叫び声が遠ざかる。
荷馬車はコントロールを失い、右へ左へと激しく蛇行しながら、切り立った崖へと向かって加速していく。
ガタガタと激しく揺れる車体。制御不能な速度。泥の跳ねる音。
その状況が、カイの脳の奥底に封じ込めていた記憶の蓋を、強引にこじ開けた。
視界が歪む。
荷台の木の壁が、見慣れたラリーカーのロールケージに変わる。土の匂いが、アスファルトとオイルの匂いに塗り替えられる。
土砂降りの雨。ワイパーが狂ったように視界を切り裂いている。
カイの――いや、コドライバーである真壁航平の手には、びっしりと記号が書き込まれたペースノートが握られていた。
隣には、誰よりも信頼できるドライバー。
コーナーが迫る。事前のレッキで何度も確認した、勝負を賭けるべき高速区間。航平の脳が、地形と速度と車の状態を完璧に計算し、一つの絶対的なラインを導き出した。
『右5。全開。――行け』
航平のコール。
ドライバーは一切の迷いなく、航平の言葉を信じ切ってアクセルペダルを床まで踏み込んだ。エンジンが咆哮を上げる。
その直後だった。
金属が弾ける音がした。ドライバーが切ったハンドルに、車の鼻先がついてこない。
コントロールを失った車体が、雨に濡れた路面を滑る。
「え……?」
隣のドライバーが、虚しく回るステアリングを握りしめたまま、航平を見た。その目に非難の色はなかった。ただ、どうして、という驚きだけがあった。
木々が迫る。金属がひしゃげる轟音。そして、永遠のような暗闇。
「……ッ!」
カイは自身の太ももに爪を立て、激しい痛みで強引に意識を現在へと引き戻した。
息が詰まる。心臓が早鐘のように打っている。
今、目の前で暴走しているのはラリーカーではなく、負傷者を乗せた荷馬車だ。このまま崖に激突すれば、荷台にいる数人の冒険者は確実に死ぬ。
「カイ! 飛び降りろ!」
馬車の横を、ヴェラが尋常ではない速度で並走しながら叫んだ。彼女の脚力なら追いつけるが、数トンの質量を持って下り坂を加速する馬車を、単なる筋力で止めることは不可能だ。
「飛び降りるわけには、いかないんだよ……!」
カイは揺れる荷台から這い上がり、自らの命を危険に晒して、無人となった御者台へと飛び移った。
手綱を留めていた金具は壊れている。カイは御者台に腹を伏せ、牽引棒へ引っかかっていた手綱の端を拾った。もう一本も足でたぐり寄せ、両手で握り直す。
「止まれ、この野郎ッ!」
手綱を引いて声をかけるが、馬のパニックは収まらない。馬車は崖の縁まであと数十メートルに迫っていた。
カイは涙でにじむ目を拭い、道の轍を見た。
馬の筋力、荷馬車の重量、下り坂の傾斜角。これらを相殺して停止させるには、強烈な物理的ブレーキが必要だ。
視線の先、崖の手前十五メートル付近に、雨水でえぐられた深い泥の轍があった。
「ヴェラ! 荷台の予備の制動棒を!」
ヴェラが荷台脇の固定紐を切り、積んであった太い木の棒を抜き取る。
「馬車の右前輪に並走しろ! 棒を車輪の前に差し込むんだ、タイミングは俺が言う!」
「了解した!」
ヴェラが馬車の右側面にぴたりと張り付く。
カイは手綱で馬を左の山側へ向け、馬車の右前輪を崖の手前の深い『轍』のラインへと無理やり誘導した。
車輪が轍に噛み、一瞬だけ速度が落ちる。
「今だ! 入れろ!」
カイの絶叫。
ヴェラが一切のラグなしで、抱えていた制動棒を右前輪と轍の間に深く突き立てた。
バキィッ! という凄まじい衝撃音。木の棒が強烈な摩擦を生み出し、車輪の回転を強制的にロックする。
馬車が後部を跳ね上げ、横転する寸前まで傾く。カイは御者台に必死にしがみついた。
ギギギギギ……ッ!
車輪が泥を深く抉りながら、崖の縁からわずか二メートルの手前で、馬車は完全に停止した。
馬がいななき、その場にへたり込む。
「……はぁっ……はぁっ……」
カイは革紐から手を放し、御者台から転げ落ちるようにして泥の上にへたり込んだ。
全身の震えが止まらない。恐怖で歯の根が合わなかった。過負荷による鼻血が、ポタポタと泥に落ちる。
遅れて駆けつけてきたダリオたちが、荷台の負傷者たちの無事を確認して歓声を上げている。
「見事な連携だ、カイ」
棒を差し込んだヴェラが、息一つ乱さずに歩み寄ってきた。
「完璧なタイミングだった。お前が車輪を轍に誘導していなければ、棒ごと弾かれていた。お前の判断を、私は一度も疑ったことはない」
彼女は純粋な称賛と、絶対的な信頼を口にした。
だが、カイはその言葉を聞いた瞬間、ひどく顔を歪め、両手で頭を抱え込んだ。
「……それが、怖いんだよ」
「何?」
「疑えよ。俺の言葉を、俺の判断を」
カイの声は、恐怖に満ちて震えていた。
「俺のコールは、あの時も正しいと思っていた。天候と路面を見て、踏めると判断した。ドライバーも、最期まで俺の言葉を信じ切ってアクセルを踏み抜いたんだ」
「ドライバー……お前と組んでいた者か」
「こことは違う場所だ。俺は、走る車で道を読んでた。一度、それで死んだ」
ヴェラは問い返しかけて、口を閉じた。カイも今は、転生した事情まで整えて話す余裕がなかった。
「ハンドルを切っても、車が曲がらなかった。操舵系が壊れたんだと思う。けど、確かめる間もなく終わった。俺の読みは正しかったはずだって、何度考えても……あいつは戻らない」
壊れた音と、曲がらない車体。覚えているのは助手席で見聞きしたことだけだ。事故の後に何が調べられたかは、カイには分からない。
カイは泥だらけの両手で、自分の顔を覆った。
「俺の正しいはずの言葉を信じて、他人が命を賭けてくれること。そして、その『絶対の信頼』を裏切って死なせてしまうこと。……それが、どれだけ恐ろしいか、お前に分かるか」
贖罪ではない。自分を責めているわけでもない。
純粋な、信頼されることへの絶望的な恐怖。
指示が間違っていたから怖いのではない。指示が正しくても、人は死ぬ。その理不尽な死の進路を、自らの声で確定させてしまうことへの恐怖が、カイを事務机の後ろへ縛り付けていた根源だった。
ヴェラは腰を落とし、カイの手から切れた木片を外した。
「全部は、分からない。だが今、お前も怖かったことは分かった」
彼女はそれ以上、完璧だったとは言わなかった。
*
数時間後。セルカの冒険者ギルドへ帰還した二人は、泥を落とす間もなく応接室へと通された。
そこに座っていたのは、物流課長のミナと、そして先日この街を訪れたばかりの旧軍参謀総長、アルディスだった。
「無事の帰還、何よりだ。暴走する馬車を見事に停止させたそうだな。君の空間把握能力には、改めて舌を巻くよ」
アルディスはカイの怪我を一瞥し、穏やかな口調で言った。
「あの、参謀総長殿。今日は一体何の用で……」
カイが疲労困憊の声で尋ねると、アルディスは机の上に新たな地図を広げた。
それは、大黒潮が迫る国境付近の詳細な軍事地図だった。
「前線中継基地の奪還作戦について、相談がある」
アルディスはヴェラと、そしてカイを真っ直ぐに見据えた。
「大黒潮を防ぐための第一歩として、数日後、国境付近にある旧軍の前線中継基地を奪還する。王国の防衛隊とも調整がついた。この『合同作戦』に、君たちも参加してくれないか」
アルディスは地図の外壁に指を置いた。
「君たちには、陣形の外で動く遊撃を頼みたい。崩れた足場を通れる者が要る」
カイは地図を引き寄せた。帰りに使う道が、一本しか記されていなかった。




