第17話 迷わない軍
セルカから西へ半日の距離にある辺境の村。
大黒潮の先触れとして押し寄せてきた泥甲虫の群れを前に、旧グラディア軍の残兵たちは見事な防衛線を敷いていた。
『前列・今・盾!』
『後列・二拍・突け!』
部隊を率いるラゲルの、短く鋭い定型命令が空気を震わせる。
数十人の兵士たちが、まるで一つの強靭な筋肉のように収縮し、膨張する。巨大な甲虫の顎が盾に弾かれ、生じた一瞬の隙を後列からの長槍が正確に貫く。
誰も恐怖で足をすくませない。誰も仲間を庇おうとして陣形を崩さない。
彼らはただ、中央からの命令という『拍』に合わせて動く血肉の歯車だった。
少し離れた村の入り口で、遊撃として待機していたカイは、その光景を苦々しい思いで見つめていた。
アルディスが数日前に語った、「兵から迷いを消し去る」という非人間的な軍制。だが、現実に彼らは、冒険者の寄せ集めでは到底不可能な処理速度で魔物の群れをすり潰し、村への被害を完全にゼロに抑え込んでいる。
「……悔しいが、文句のつけようがない戦果だ」
カイが手帳を握りしめたまま呟くと、隣に立っていたヴェラが静かに口を開いた。
「カイ。私は今、あの陣形の中に戻りたいと感じている」
その言葉に、カイはハッとして彼女を見た。
ヴェラは愛用の槍を握りしめ、かつての同胞たちが戦う姿を、瞬きもせずに見つめていた。
「自分で進路を選べと言われてから、私は常に思考を強いられている。それはひどく疲労を伴う作業だ。だが、あの陣形の中にいれば、何も考えなくていい。隊長の命令に従い、自分の役割を果たすだけで、すべてが最適に機能する」
彼女の灰色の瞳に浮かんでいたのは、かつての軍への郷愁ではなく、純粋な『安心感への渇望』だった。
「指示に従うだけでいいという安心は、とても心地が良い。それを否定することは、今の私にはできない」
兵士から考える自由を奪うことは残酷だ。だが、圧倒的な暴力と恐怖が支配する戦場において、「自分で選ぶ」という責任を放棄できるシステムが、兵士にとってどれほどの救済になるか。
アルディスの言葉が、カイの胸に重くのしかかる。
最適解が提示されているのに、あえて個人の迷いを許容することは、本当に正しいことなのか。
その時、村の地面が微かに揺れた。
カイの足の裏が、泥甲虫の重い足音とは違う、不規則で細かい振動を捉える。
「……下か!」
カイが声を上げたのとほぼ同時、旧軍の防衛線と村の防壁の間にある土が内側から弾け飛んだ。
地中を潜行してきた別種の魔物――土竜鬼の幼体群が、十数匹固まって姿を現したのだ。主力群に気を取られていた隙を突いた、完全な奇襲だった。
幼体群は防壁の木柵に向かって突進し、鋭い爪でそれを食い破ろうとする。柵の向こうでは、避難し遅れた村の子供たちが悲鳴を上げていた。
「後ろだ! 土竜鬼の幼体が抜けたぞ!」
カイが叫ぶ。
旧兵たちも背後の異常に気づいていた。しかし、彼らはすぐには動けなかった。
彼らのシステムは、事前に想定された正面からの敵に対しては無類の速度を誇る。だが、「背後に予測外の敵が出現した」という事態に対し、個人の判断で陣形を崩して救援に向かう権限を持っていなかった。
事態を視認し、状況を指揮官であるラゲルに報告し、新たな定型命令を受領する。
そのプロセスを踏むための、ほんの二、三秒の遅延。
システムの中央集約が生み出す、唯一にして致命的な隙だった。
「ヴェラ、村の南柵へ回れ!」
旧軍の命令更新を待つまでもない。カイは現場判断で即座に動いた。
ヴェラが弾かれたように走り出す。カイも十五メートル圏内を厳密に維持しながら、自ら幼体群の先回りをするように柵の前へと全力で駆け込んだ。
村の子供たちまで、あと数メートル。
カイは柵から離れた排水溝へ薪の束を崩し、カンテラの油をかけて火を移した。
「子供を家の裏へ! 桶を頼む!」
村人に叫び、自分は火と木柵の間の枯れ草を靴で払いのけた。
ボワッ、と一気に燃え上がる炎。
土竜鬼の幼体たちは炎を恐れ、侵入経路を火の手が及んでいない右側の狭い隙間へと無理やり変更する。
カイが自らの身体を使って、魔物のルートを一本に限定したのだ。
「前三! 炎の影から薙げ!」
限定された極小のルートへ、ヴェラが到着する。
カイの非定型で具体的なコール。ヴェラは一切のラグなく即応し、炎の揺らめきで生じた死角から、槍を一閃させた。
甲高い悲鳴とともに、先頭の三匹が両断される。
「次、右へ半歩! 二秒で残りを突け!」
ヴェラはカイの引いたラインを完璧になぞり、狭い隙間に密集した幼体群を次々と串刺しにしていく。
旧軍が新たな命令を受領し、一部隊を振り向かせる頃には、村に侵入しようとした幼体群はすべてヴェラの槍の錆となっていた。
村の子供たちに怪我はない。
同時に、正面の泥甲虫の主力群も、旧軍の完璧な統率によって完全に殲滅された。
被害ゼロ。
完全な勝利だった。
戦闘終了後、旧兵たちは歓声を上げることもなく、ただ淡々と陣形を解き、武器の血振るいを行っている。
カイは村人とともに桶の水をかけ、薪の芯まで火が消えたのを確かめた。濡れた袖で顔を拭い、旧兵たちの撤収を見た。
彼らのやり方は間違っていない。多くの命を救うための、一つの完成された正解だ。
だが、カイとヴェラの独立した高速判断もまた、彼らのシステムの隙を埋め、村を守るというもう一つの正解を叩き出した。
相反する二つの思想が、同じ戦場で並立してしまった。
「……カイ。お前のコールは、隊長の命令より速かった」
血糊を拭ったヴェラが、カイの隣に立ってぽつりと言った。
「私は、お前の声に従う。その方が、生き残る確率が高いからだ」
彼女はそう言って、再び旧兵たちの方へ視線を戻した。自分で選んだと言いながらも、それはまだ「より生存確率の高い指示を選ぶ」という、効率計算の延長でしかない。
アルディスの言葉が、再びカイの脳裏をよぎる。
『迷いは、人を殺す』
その通りだ。戦場において、数秒の迷いは致命傷になる。だからこそ、アルディスは兵から迷いを奪い、カイは事前にレッキを行って判断をコールに圧縮している。
ふと。
カイの耳の奥で、不気味な音が鳴り始めた。
ザァァァ、という、激しい雨の音。
ここは乾いた荒野だというのに、前世のあの日、フロントガラスを打ち据えていた雨音が、異様なほど鮮明に鼓膜を震わせる。
そして、その雨音に混じって、自分が発した言葉のリズムが蘇ってくる。
『右5。全開。――行け』
最適解を信じ、相棒から迷いを奪い、死へと突き進ませた呪いのテンポ。
カイはこめかみを押さえ、冷や汗を流しながら荒く息をついた。
自分は、アルディスと同じことをしているのではないか。ヴェラから迷いを奪い、自分の最適解という名の鎖で縛り付けているだけではないのか。
問いに対する答えは、まだ見つからなかった。




