第16話 参謀総長アルディス
セルカの冒険者ギルド前の広場は、水を打ったような静寂に包まれていた。
黒塗りの豪奢な馬車から降り立った初老の男。白髪交じりの髪を後ろで撫でつけ、黒を基調とした仕立ての良い外套を纏っている。
丸腰でありながら、その男が発する威圧感は、先日討伐した鏡鬼すらも凌駕していた。
「……アルディス閣下」
カイの隣で、ヴェラが掠れた声を漏らした。
旧グラディア参謀総長、アルディス・ヴァルネ。かつて周辺国との戦争を指揮した男だ。戦犯としての指名は受けておらず、敗戦後は復興民の代表として、協定に基づく旧領土の管理に関わっている。
ヴェラの身体に、明らかな異変が起きていた。
彼女の膝が微かに震え、両足の踵が無意識のうちに寄り合わさろうとしている。かつての軍の最高意思決定者を前にして、彼女の肉体に刻まれた服従の条件反射が、強制的に『直立不動の敬礼』を行わせようとしていたのだ。
だが、ヴェラは奥歯を強く噛み締め、右足を踏み留まらせた。
昼の林道で立ち止まった時と同じように、彼女の視線が足元へ落ちた。
踵の間に、小石が一つ残った。彼女は震える手で自身の外套を強く握り込み、強引にその反射を抑え込んだ。踵は、それ以上寄らなかった。
カイは、隣でひっそりと行われた彼女の戦いに気づき、無言のまま一歩だけ前へ出て彼女を庇うように並び立った。
「突然の訪問、非礼を詫びよう」
アルディスは、警戒して武器に手をかけるダリオや冒険者たちへ向けて、穏やかな笑みを浮かべた。
「私は復興民代表のアルディス。リュネール王国の許可を得て、この街のギルドマスターに情報共有に参った。剣を収めていただきたい」
その態度は、高圧的な亡国の軍人というよりは、極めて紳士的な外交官のそれだった。
数十分後。ギルドの奥にある応接室に、重苦しい空気が満ちていた。
長机を挟んで、物流課長のミナ、そしてカイとヴェラ。向かい側にはアルディスが一人で座っている。
アルディスはまず、ヴェラへ向けて深く頭を下げた。
「よく生きていてくれた。第三機動猟兵隊……我が国の優れた矛よ。君たちのような精鋭が黒潮の先遣隊を食い止めてくれていたからこそ、我々の国はあそこまで保ったのだ。心から感謝する」
アルディスは頭を上げるまで待った。ヴェラが返礼しなくても、感謝の言葉を取り消さなかった。
ヴェラはその言葉に微かに動揺し、視線を落とした。彼女にとって、上官からの評価は絶対的な報酬だった時代があるからだ。
「昔話をしに来たわけじゃないだろう、参謀総長殿」
ミナが鋭い声で口を挟んだ。
「ええ。単刀直入に申し上げましょう」
アルディスは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。それは、波形のような複雑なグラフが書き込まれたデータだった。
「旧都の地下にある断層観測設備からの最新データです。先日の鎧角獣や鏡鬼の出現は、単なる散発的な前兆に過ぎない」
アルディスは、冷徹な事実を告げた。
「『大黒潮』の本隊が来ます。それも、過去の周期予測を数年も前倒しして。猶予は、長くて数週間。王国の正規軍の展開は到底間に合いません」
応接室に息を呑む音が響いた。数週間で大黒潮が来る。それは、セルカを含むこの辺境一帯が、魔物の波に飲み込まれて消滅することを意味していた。
「だからこそ、我々旧グラディア軍の残兵を再編し、防衛線を構築する必要がある。猟兵である彼女の召集は、そのためのものです」
アルディスはそう言いながら、ミナの背後にある机に目を向けた。
そこには、カイが作成した『余白の危険予測地図』と、カイの私物であるレッキ用の小さな手帳が置かれていた。
アルディスは立ち上がり、許可も得ずにその手帳を手に取った。
「おい、勝手に触るな」
カイが制止するより早く、アルディスは手帳のページをパラパラと捲り、そしてピタリと手を止めた。
『右3、滑る、下り』
『前20、落石、二秒待て』
カイが前世のラリー・コドライバーの感覚で書き殴った、独特の記号の羅列。
ミナでさえ「細かい地形のメモ」としか認識していなかったそれを、アルディスは穴の空くような目で見つめた。
「……驚いたな」
アルディスの声が、微かに震えていた。
「地形、距離、時間。足場の強度や魔獣の軌道。あらゆる事象が、『次にどのような行動をとるべきか』という純粋な命令情報へと、極限まで圧縮されている。これはただの記録ではない。人を最速で動かすための、完成された言語だ」
アルディスは記号の切れ目ごとに、机を指で叩いた。地形、距離、それから動作。カイが声にする順番だった。
カイは背筋が粟立つのを感じた。
ダリオやミナは、カイの指示によってもたらされた『結果』を評価した。しかし、目の前にいるアルディスという男は、一目見ただけでカイの能力の『システム(ペースノートの構造)』を完全に理解したのだ。
ミナが褒めたのは、帰ってこられる地図だった。この男が見ているのは、人を動かす手順だ。
「カイ・レーヴェン君。君の活躍は耳に入っている。猟兵であるヴェラが、君の指示にのみラグなしで即応していることも」
アルディスは手帳を置き、熱を帯びた瞳でカイを見つめた。
「我が軍が誇る三語の定型命令システムは、兵から判断の遅延を消し去るためのものだ。しかし、君のこの言語をシステムに組み込めば、我が軍は非定型の状況すらも先読みして動く、一つの無敵の身体を手に入れることができる」
それは、悪魔の囁きのような勧誘だった。
「君には、兵から『迷い』を完全に消し去る才能がある。君のその指揮脳があれば、何千、何万の兵士の命を、無駄な死から救うことができる。私の元へ来ないか」
何万の命を救える。その言葉の重みに、普通の人間なら押し潰されていただろう。
だが、カイの答えは決まっていた。
「断る」
カイはアルディスから手帳を奪い返し、ポケットにねじ込んだ。
「俺は指揮官じゃない。何万の命を救うなんて、そんな大層な盤面は見えないし、見る気もない」
カイは、隣に立つヴェラを一瞥した。
「俺が見るのは、俺の目が届く十五メートル圏内。そこにいるこいつ一人だけだ。人間を思考停止のシステムに組み込むようなあんたらのやり方に、手を貸すつもりはない」
明確な拒絶。
怒号が飛ぶかと思ったが、アルディスは怒らなかった。
代わりに彼は、ひどく哀れむような、深い悲しみを湛えた目でカイを見た。
「……そうか。ならば、仕方がない」
アルディスは静かに踵を返し、応接室の扉へ向かった。
扉に手をかけたところで、彼は一度だけ立ち止まり、背を向けたまま言葉を落とした。
「君はまだ、本当の地獄を知らないのだろう。カイ君」
その声には、過去に途方もない絶望を味わった者だけが持つ、重く冷たい響きがあった。
「圧倒的な暴力と恐怖が支配する戦場で、『個人の自由な選択』などという甘い幻想を強要されることが、兵士にとってどれほど残酷なことか」
アルディスは振り返り、ヴェラとカイを交互に見据えた。
「迷いは、人を殺す。……いずれ君たちも、その意味を知ることになる」
静かな足音とともに、旧グラディア参謀総長は去っていった。
応接室に残されたのは、大黒潮という抗いようのない死の宣告と、絶対に相容れない思想の断絶だけだった。




