第15話 選ぶのはお前だ
合同討伐を終えた夜。セルカへの帰路につく討伐隊は、峡谷から少し離れた岩場で野営を行っていた。
燃え盛る焚き火を挟んで、カイはヴェラと向かい合って座っていた。カイの右腕には、昼間の戦闘で負った擦過傷を庇うための白い包帯が巻かれている。
『なら……私は、どう決める?』
数時間前、彼女が絞り出したあの弱々しい問いに対する答えを、カイはまだ出していなかった。
パチッ、と爆ぜる火の粉を見つめながら、ヴェラが静かに口を開いた。
「カイ。私は、欠陥品だ」
その声は、相変わらず抑揚がなかったが、どこか深い諦めが混じっていた。
「旧グラディア軍の猟兵は、定型命令ではなく、あらゆる非定型の指示に即応するように造られた。だが、それゆえに……指示がなければ、自分の進路すら決められない。隊長の『前進』という言葉に、私の身体は抗えなかった。私が私自身の意思で動いているという証明は、どこにもない」
「欠陥品なんかじゃないさ。お前はただ、それ以外の生き方を教わってこなかっただけだ」
カイは右腕を庇いながら、彼女の灰色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「いいか、ヴェラ。俺のコールは、魔法でも予知でもない。地形や状況を俺なりに計算して、勝ち目のあるルートを提示しているだけだ。俺が間違うことも、絶対にある」
前世のあの日、激しい雨の中で引いたライン。それは結果として相棒を死に追いやった。カイの言葉には、拭いきれない恐怖が滲んでいた。
「俺のコールが常に正しい保証なんて、どこにもないんだ。だから、俺の言葉を『命令』として受け取るな。俺がお前に渡すのは、ただの『情報』だ」
「情報……?」
「そうだ。俺がルートを示す。だが、それに乗るか、捨てるかは、お前自身が決めろ。俺が渡す情報の責任は、俺が持つ。お前に選べと言って、間違いまで押しつける気はない。」
ヴェラは火の光に照らされた自分の手のひらを見つめた。
「決める……私が」
その言葉を反芻する彼女の横顔には、長年信じてきた絶対的な基準を失い、広大な荒野に一人放り出されたような、深い戸惑いが刻まれていた。
翌日。
セルカの街へ向けて野営地を出発した一行は、見晴らしの良い街道を避け、少し入り組んだ林道を進んでいた。黒潮の影響で街道沿いに魔物が溢れているため、あえて視界の悪いルートを選んだのだ。
カイは荷馬車を降り、ヴェラから十五メートル以内の距離を保って歩いていた。周囲の木々の配置、地面の起伏、風の音。絶えずレッキ(下見)を行い、不測の事態に備える。
その時、前方の茂みが不自然に揺れた。
「止まれ」
カイが短く告げると同時、木々の間から三頭の魔獣が姿を現した。
棘針鼠。体長は一メートルほどだが、背中に猛毒を持つ鋭い針を無数に生やした厄介な魔獣だ。奴らは筋肉の収縮を利用して、その針を矢のように飛ばしてくる。
三頭が同時に背中を丸め、発射の体勢に入った。
カイの脳内で、地形データと魔獣の挙動が瞬時に結びつく。右には倒木、左には苔生した細い立ち木。
普段のカイなら、ここで「最も生存確率が高く、最速で撃破できる」ただ一つの絶対的なラインをコールしていただろう。
だが、彼は昨夜の自分の言葉を思い出した。『選ぶのはお前だ』。
「ヴェラ!」
カイは、二つの有効なラインを同時に声に出した。
「右三歩、倒木を盾にして突くか! 左前方、木を蹴って上から落とすか!」
その声が届いた瞬間。
ヴェラの身体は、ピタリと硬直した。
ヴェラの視線が右へ、左へと走った。踵が上がったまま、踏み出す足が決まらない。カイは言葉が多すぎたと気づいた。
だが、その遅延は戦場では致命的だった。
三頭の棘針鼠の背中から、鋭い毒針が雨霰と放たれる。
ヴェラの身体が動いていない。カイは息を呑み、思わず自分も前へ飛び出そうとした。
しかし。
針がヴェラの身体を串刺しにする直前、彼女の灰色の外套が翻った。
彼女は、右へ飛んだ。
いつもカイのコールに見せる『異常な即応性』に比べれば、明らかに一瞬だけ速度が落ちていた。迷いが生じた証拠だ。
その速度の低下のせいで、数本の毒針が彼女の外套を掠め、布地を引き裂く。だが、彼女は右へ三歩踏み込み、そこにあった太い倒木を盾にして後続の針をすべて防ぎきった。
そして針の雨が止んだ瞬間、倒木の影から身を翻し、最も近くにいた一頭の喉元へ槍を突き入れた。
「シッ!」
短い呼気とともに、立て続けに二頭目、三頭目を素早い連続突きで串刺しにする。
ものの数秒で、魔獣たちは血を流して絶命した。
静寂が戻った林道で、ヴェラは槍を振り下ろした姿勢のまま、荒い息を吐いていた。
カイは駆け寄り、彼女の身体に毒針が刺さっていないことを確認して、大きく息を吐き出した。
「悪かった。いきなり二つも渡した。選ぶ時間まで作らなきゃ、意味がなかった」
ヴェラは槍を引抜き、自分の外套に開いた穴を見つめた。
「選択肢が二つ提示されたことで、処理に遅延が生じた。結果として被弾のリスクを上げた。非効率だ」
自嘲するような彼女の言葉に、カイは首を振った。
「いや、それでいい。お前は生き残って、勝ったんだ」
カイは手帳を取り出し、先ほどの地形を見比べながら彼女に問うた。
「俺は右と左、二つのルートを提示した。なんでお前は、右を選んだんだ?」
ヴェラは少しだけ考え込み、それから視線を左の立ち木へ向けた。
「……左のルートは、立ち木を蹴って上を取るというものだった。だが、あの木は苔生していて細い。私の踏み込みの力に耐えきれず、折れて足場を失うリスクがあると考えた。対して右の倒木は十分に太く、盾として機能する確率が高い。だから、右を選んだ」
それは、見事なまでの状況分析だった。
カイが引いたラインに乗っただけではない。彼女は自分自身で二つの情報を比較検討し、明確な理由を持って、自分の意志で進路を『決定』したのだ。
「そこまでは見てなかった。俺は上を取れる高さだけで、使えると思った」
カイは笑みを浮かべ、手帳をパタンと閉じた。
「お前自身の判断で勝ったんだ。お前はちゃんと、自分で選べる」
ヴェラは自分の両手を見つめ、それからカイを見た。
彼女の灰色の瞳の奥に、ほんのわずかだが、確かに『自分という存在』の輪郭が灯ったように見えた。
*
その日の夕刻。討伐隊は無事にセルカの街へと帰還した。
怪我人の処置や報告を済ませるため、カイとヴェラはダリオたちと共に冒険者ギルドへと向かった。
だが、ギルドの前の広場には、異様な空気が張り詰めていた。
「おい、なんだあれ……」
ダリオが足を止め、目を丸くした。
普段は荷馬車や泥だらけの冒険者たちが行き交うギルドの入り口に、王国軍のものではない、豪奢な黒塗りの馬車が停まっていた。その周囲を、旧グラディア軍の精鋭と思しき黒服の護衛たちが囲んでいる。
ギルドの職員たちや、物流課長のミナも、緊張した面持ちで入り口に立ち尽くしていた。
馬車の扉が開き、一人の男がゆっくりと降り立つ。
白髪交じりの髪を後ろで撫でつけ、仕立ての良い軍服を着崩さずに纏った、初老の男。その瞳には、戦場を俯瞰するような冷徹な理知が宿っている。
カイはその男を知らない。だが、隣に立つヴェラの身体が、本能的な畏怖で微かに震えたのを感じた。
「……アルディス閣下」
ヴェラが掠れた声で呟いた。
使者ではない。戦後の協定下で復興民代表として合法的に活動し、そして水面下で旧軍の再編を目論む男。
旧グラディア参謀総長、アルディス・ヴァルネ本人が、カイたちのいるセルカの街へ直接姿を現したのだ。




