第9章 終わりの朝
気が付くと彼は雨の中を歩いていた。どこへ向かっているのかは分からない。靴の中に水が染みている。ズボンの裾が濡れて重い。髪から雨粒が落ち、額を伝い、まぶたに触れる。それでも彼は寒いとは思わなかった。不快でもなかった。ただ、濡れている。それだけだった。周りにはたくさんの人がいた。傘を差していないのは彼ひとりだけであるが、そんな彼の姿を誰も見てない。不審がることもなく、誰もが気にも留めていない様子だった。
彼は何も考えなくてよかった。信号が青になり、人々が歩き出すと彼も歩き出す。そして信号が赤になり、人々が立ち止まると、彼も立ち止まる。
彼は自分の名前を思い出そうとしてみた。だが何も思い浮かばなかった。以前は、自分にもいくつかの名前があった気がするが、どれも手元に上がってこない。
名前がないということは彼にとっては楽だった。誰かに名乗らなくていいし、誰かから呼ばれなくていい。誰かの期待に応えなくていいし、誰かからがっかりされなくていい。
ただ、歩いていればいいのだ。ぱらぱらという雨音だけが彼に声をかけている。しばらく歩いていると古い商店街が見えた。多くの店がシャッターを閉めている。そのアーケードの入り口に自分と同じく、傘を差さずに立ち、じっとこちらを見る男がいた。
彼は足を止めた。黒い服に、丸い眼鏡に、穏やかな顔だった。彼はその顔を見ても、何も思わなかった。
「お帰りなさいませ」
その男が言った。彼は返事をしなかった。
「ずいぶんと記憶が薄くなられましたね」
そう言われても、彼は何のことかよく分からなかった。男は片手に小さな木箱を持っていた。古い菓子箱のような、薄茶色の箱だった。角は擦り切れ、蓋にはシミがある。
「お忘れ物がございましたので、お届けに参りました」
この男はいったい何を言っているんだ。初めて会ったのに、自分に忘れ物を届けるなどと言っている。人違いではないのだろうか。
「これは、ずいぶん前から残っていたようです。お返しするのが遅くなって申し訳ございませんでした」
男は彼が少し困惑していることにも構わず、箱を差し出してきた。彼はその箱に見覚えはないし、何も感じない。
はずだった。
「開けますか?」
男が聞くと、彼の指先が少し震えた。彼は答えなかった。
「この箱の中身は、あなたが自分を忘れる前の、あなたです」
男は静かに言った。
「箱の中身が私だと?意味がわからない」
「無理もないですね。あなたは自分が誰なのか、何をしてきたのか、もうほとんどわかっておいででない」
男は穏やかに彼に話した。
「私は」
名前が出てこない。
「私は誰だ」
「お確かめください」
そういうと男は木箱の蓋を開けた。すると男の顔は揺れていき、いつしか目の前から箱は消え、畳の部屋が現われた。
そこは六畳の和室で真ん中に低い、小さいちゃぶ台が置かれている。部屋の隅には古いテレビがあり、壁際には本棚、台所からはカレーの匂いが漂っている。
窓の外は雨だった。ちゃぶ台の前に、小さな男の子が座っている。膝を抱え、玄関の方をじっと見ている。手に小さなスプーンを持っており、ちゃぶ台の上には、プリンが一つある。その上に、ろうそくが一本立っているが、火はまだついていない。男の子は、彼を見た。
「遅い」
彼は動けなかった。
「ずっと待ってた」
男の子の声は、黄色い傘の子どもと同じだった。胸の奥に直接触れてくる声だった。
「今日は僕の誕生日だよ」
男の子が言った。
「お父さん、ケーキ買って帰るって言ってた」
雨音が強くなる。彼は思い出したくなかった。それでも、記憶が勝手に滲み出してくる。
玄関の方を何度も見る自分がいて、彼の母親が時計をちらちらと心配そうに見る。父親に電話をかけてくれるが出ない。父の帰りを待つ間に夕食のカレーが冷め、母親が何度も温め直した。そして二十一時が過ぎ、二十二時を過ぎる。彼は眠くなるのを我慢して父の帰宅と誕生日ケーキを待っていた。
目の前の男の子はプリンを見ながら言った。
「僕のお母さん、もし今日ケーキがなかったから、このプリンで我慢してくれる?って言った」
彼は耳を塞ごうとした。だが、手が動かなかった。
「僕はいいよって言った」
男の子は続けた。
「でも、ほんとは嫌だった」
その言葉が、胸の底に重く沈んだ。自分が誰か分からないはずなのに、その痛みだけは分かった。そうだ、待っていた。自分は待っていたんだ。ずっと。帰って来ない父を。自分を忘れた人を。そして大人になって、自分も誰かを待たせたんだ。誰かのことを忘れていったんだ。
男の子が顔を上げた。
「なんで、同じことしたの?」
彼は答えられなかった。声が出なかった。
「僕が待ってたの、知ってたでしょ?」
男の子は言った。
「待つのが、どんなに嫌か知ってたくせに」
彼は首を横に振った。
「知らない」
やっと声が出た。
「私は知らない」
「知ってるよ」
「知らない」
「忘れてたんでしょ」
「覚えてないなら、知らないのと同じだ」
男の子の顔が歪んだ。その顔は悲しみでも、怒りでもなかった。彼が人生を繰り返す中で何度も見た失望を表した顔だった。
「覚えてないなら、何してもいいの?」
男の子が聞いた。彼は何も言えなかった。
「忘れたら、なかったことになるの?」
雨音が強くなる。ちゃぶ台の上に置かれたプリンに火のついたろうそくが一本差されている。男の子はそれを見つめながら言った。
「お父さん、帰ってこなかったね」
彼は目を閉じた。
「やめろ」
「お父さん、ケーキ忘れてた」
「やめろ」
「お父さん、酔ってた」
「やめろ」
「お父さんとお母さん、けんかした」
「やめろ!」
彼が叫んだ瞬間、今までいた部屋が消えた。
気がつくと帳場に火の消えたろうそくが一本立っており、目の前に眼鏡をかけた、黒い服の男が座っていた。店の棚には空の瓶が何個も置かれている。
彼は荒く息をしていた。胸がひどく痛む。名前を消してもまだ、こんな痛みが残っていたか。
「これを」
彼は言った。
「これは売れるのか」
目の前の男は静かに彼を見た。
「この記憶を、ですか」
「ああ」
「これは、良くも悪くも、お客様を形作っていた記憶です」
「構わない」
「この記憶があるから、お客様は誰かを待たせたときに痛みを感じることができました」
「だからいらない」
彼は言った。
「心の痛みなんていらない」
男はしばらく黙っていた。その沈黙は、これまでで一番長かった。
やがて男が口を開いた。
「お客様は、痛みを罰だと思っておられますね」
「違うのか」
「確かにそういう場合もあります」
男は、言葉を選ぶようにして続けた。
「けれど、目印でもあります」
「目印?」
「そこに、まだ大切なものがあるという印です」
彼は笑った。乾ききった笑いだった。
「大切なものがあるから痛むというのなら、その大切なものごと捨ててやる。自分が誰だかすら分からないのに、何かを大切に思うことは無駄だ」
店主は彼を見た。
「そう仰ると思いました」
「なら、早くしろ」
男は今度は黒い箱を取り出した。その黒い箱の中へ、帳場に立っていたろうそくを入れた。そして、箱の蓋を閉じると、その瞬間に店内の空気が少し冷たくなった。彼の胸の痛みが、すっと引き、驚くほど息が楽になった。
「お預かりしました」
男が言った。彼は息を吐いた。
「これで」
そこからは何と言えばよいのか分からなかった。
これで楽になるなのか、これで自由になるなのか、これで誰も待たせていないことになるなのか。それとも、これでよかったのか、なのか。
そのとき、店の入口で鈴が鳴った。
からん。
彼が振り返ると男の子が立っていた。髪も、服も、雨で濡れている。しかし、傘を差していなかった。彼の目をじっと見つめている。彼は思わず目をそらした。
子どもは店の中へ入ってきた。床についた水の跡はすぐに消える。その子どもが彼の前に来て言った。
「ぼく、誰?」
彼には分からなかった。今日初めて会ったのだから、答えられなくて当然である。
「分からない」
彼は返事した。
「そっか」
子どもはうなずき、背を向けた。再びその子は店の出口へと向かう。彼は何も言わず、それをただ見送った。
子どもは戸口で振り返った。
「ばいばい」
その言葉を残して、出て行った。
からん。
鈴が鳴った。
何か大切なものが出て行った気がしたが、それが何なのか、彼には分からなかった。分からないなら、ないのと同じだ。そう思った。
やがて店主らしき男が何やら帳簿のようなものを見ながら言った。
「これで、もうあなたがお売りできるものは何も残っていらっしゃらない」
「そうか」
「ええ、その代わり新しい記憶を買っていただきます」
「もう次はいらない」
彼は言った。その言葉を聞いた店主の顔は穏やかだったが、目だけが少し暗かった。
「本当によろしいのですか?お客様が気に入られた記憶であればどれでもお好きなものを差し上げますよ」
「いらない」
店主は帳簿を閉じた。
「それではお売りになった記憶を戻されますか?」
「それもおまえに預ける」
店主はすぐには答えなかった。やがて、静かに言った。
「承知しました」
その瞬間、店の外で大きな音がした。雨の中でタイヤが滑り、車が急ブレーキをかけた音だった。人々の悲鳴が聞こえる。彼は振り返り、店の引き戸の向こうの道路を見た。商店街ではなく、車道だった。信号は赤で、雨が激しく降っている。道路の向こう側に、黄色い傘が落ちているが、その傘の周りには人がいない。彼はその光景を見たとき、誰の傘かは分からないが、なぜか拾いに行かなければならない気がした。
彼は戸へ向かった。店主の声が背後から聞こえた。
「お気をつけて」
彼は振り返らずに戸を開けた。ざあざあという激しい雨音が飛び込んでくる。彼は赤信号の前に立った。黄色い傘は道路の向こうに転がっている。その黄色だけが、暗い雨の中で光っていた。
彼は歩き出した。車のライトが近づいてくる。クラクションとブレーキ音と誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、そのすべてが遠かった。
彼は黄色い傘へ手を伸ばした。あと少しで届くところで、傘の向こうに男の子が立っているのに気づいた。男の子は傘を差しておらず、雨に濡れている。
そして、口を動かした。
「おとうさん」
白い光が視界を満たした。衝撃は、なかった。痛みも、なかった。
ただ、鈴の音だけが聞こえた。
からん。
からん。
からん。




