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記憶ばいばい  作者: 紙とペン


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第8章 名前のない朝

 窓の外が白く明るい。カーテンの隙間から光が細く差し込み、床の上に一本の線を作っている。遠くで車の走る音がする。どこかの部屋で水道を使う音も聞こえる。そこから今が朝であることだけは推測できた。

 ただ、ここは知らない部屋のはずだった。いや、知っているような気もする。天井や壁は白く、ベッドの横には小さな棚があり、スマートフォンと眼鏡と読みかけの本が置かれている。床にはスリッパがそろえて置かれ、カーテンの横には観葉植物がある。

 きちんと整頓されている印象はあるが、誰の部屋なのかは分からない。今までどんな生活をしてきたか、記憶が戻らない。

彼は身体を起こした。自分の身体を見下ろす。腕がある。手がある。指がある。

 手の甲には細かい皺があり、爪は短く切られている。年齢は四十代くらいだろうか。いや、五十代かもしれない。肩は少し重い。腹は少し出ている。だが、極端に老いてはいないようだ。

 自分は誰だ。そう思った瞬間、頭の奥で何かが崩れる音がした。今まで名前をいくつも名乗ってきた気がするし、どれかが自分の名前のはずだったが、どれもが自分の名前のように思えた。しかし、どれを選んでも、どこか違う感触がする。枕元のスマートフォンの画面にはまだ先ほどの通知が表示されている。

 今日、来る?

 差出人の名前はなかった。ただ、その一文だけが画面に浮かんでいる。彼にはどこへ行く約束があったのだろう。誰とそこへ向かうはずだったのか。彼はスマートフォンを手に取った。ロック画面に顔認証が走り、すぐに解除された。つまり、このスマートフォンは自分のものだとわかった。だが、ホーム画面には見覚えのないアプリが並んでいた。仕事用らしく、画面に映るアプリにはチャット、スケジュール管理、共有カレンダー、ニュース、銀行、ゲームといったものが並んでいる。メッセージアプリを開いてみるが、先ほどの「今日、来る?」という文は見当たらない。代わりに、いくつもの名前が並んでいる。

 紗季

 美咲

 真帆

 白石

 宮田

 航太

 陸

 莉子

 彼は息を止めた。その名前たちの中のどれが家族で、どれが職場で、どれが過去で、どれが今なのか分からない。隣で誰かが寝返りを打った。彼は振り向いた。その顔は半分、布団に隠れているが、長い髪に細い肩が見えた。その横顔を見てみたが紗季なのか、美咲なのか、真帆なのか、それともどれとも違う知らない女なのか、判断がつかなかった。ただ、女であることは認識できた。その女が目を開けた。

「……起きてたの?」

 声を聞いた瞬間、知っている声だと感じたが、誰の声か分からない。

「うん」

 彼は答えた。自分の声も知らない声だった。低くもなく、高くもない。寝起きの声だからだろうか、少し掠れている。女は目をこすりながら言った。

「今日、何時に出るんだっけ」

 彼は答えられなかった。

今日、何時に、どこへ?

 仕事か、学校か、面談か、会食か、白い部屋か。

「……何時だったかな」

 彼が言うと、女は不審そうに眉を寄せた。

「大丈夫?昨日も遅かったし、寝ぼけてる?」

 そして彼にとって昨日とは何なのか。

 白い部屋で黄色い傘を差した男の子と会い、店主からもらった瓶の中身を飲んだことを指すのだろうか。その場面は思い出せるが、前後の記憶がない。そもそも、今のこの部屋へどう来たのか分からない。女が布団から出て、カーテンを開けた。朝の光が部屋に入る。

 その光の中で女の顔がはっきり見えたとき、彼は固まった。女の顔が、紗季にも、美咲にも、真帆のようにも見えるのだ。角度によって顔が変わると言えば正しいのだろうか。目元は紗季に、口元は美咲に、笑い方は真帆に似ているということか。

「何?」

 女が聞いた。

「いや」

「顔、なんか変?」

「変じゃない」

「なら、そんなにじろじろ見ないでよ」

 女は少し笑った。その笑いを見ても特段なにも感じなかった。その笑顔で安心を感じることもなければ、かえって不安になることもない。そしてさっきからこの人は誰なのか。自分は、この人に何をしたのか。何をするつもりだったのか、全くわからなかった。

 ドアの向こうから足音が聞こえた。ぱたぱた、という軽い足音だった。おそらく、子どものものだ。ドアが開かれ、入ってきたのは小学生低学年くらいの男の子だった。寝癖がついているのは普通だろう。だが、部屋の中なのに手には黄色い傘を持っていた。男の子は言った。

「今日、来る?」

 彼は息を止めた。さっきの通知と同じ言葉だった。

「どこへ?」

 彼が聞くと、男の子は首を傾げた。

「何言ってんの?」

 顔が変わった。しかし、その顔が誰なのかは知らない。そして、男の子のはずなのに、一瞬だけ女の子の声で笑った。

「今日、来るって言ってたよ」

「どこに?」

「発表に」

「発表?」

「まだ思い出せない?じゃあ、授業参観に」

 どういうことだろう。発表でなければ授業参観にとは。

「何時にある?」

 男の子は呆れたように言った。

「十時だよ」

 女が横から言った。

「昨日から言ってたでしょ。大丈夫? 本当に寝ぼけてるね」

 彼は時計を見た。その時計は午前七時二十二分を指していた。ということは、まだ時間はあるということだ。行ける、と返事しようとしたときに、また彼のスマートフォンが震えた。画面には別の通知があった。

 取締役会は九時開始です。遅れないでください。

 差出人は、白石となっていた。いや、白石は自分の名前なはずでは。いや、それよりもどちらに行くのが本当だ。女がスマートフォンを覗き込んだ。

「取締役会?」

 その声には不審があった。

「あなた、そんな予定あった?」

 彼は答えられなかった。考える間もなく、次の通知が来た。

 十時半から相続の相談です。資料の確認をお願いします。

 すると次の連絡では、

 本日十三時に印刷会社様が訪問されます。

 さらに次の連絡では、

 莉子、熱があるって幼稚園から連絡があったの。迎えに行ける?

 彼はスマートフォンを落とした。画面が床に当たり、鈍い音を立てた。女と男の子がこちらを見る。

「どうしたの?」

「お父さん?」

 お父さんだって?自分が誰の父親なのかさっぱり分からない。

 彼はベッドから降りようとして、足がもつれた。床に膝をつくと、女が駆け寄ってきた。

「ちょっと、本当に大丈夫?」

 彼女の手が肩に触れた。温かい。その温度に、遠くなった記憶が再び迫ってくるような感触があり、彼はその手を振り払った。女の顔が強ばった。

「何?」

「触るな」

 言ってから、彼自身が驚いた。なぜそんなことを言ったのか分からない。女は傷ついた顔をした。男の子は部屋の入口で固まっている。その顔を見た瞬間、彼の中で別の声がした。

 まただ。

 また、泣かせた。

 いや、泣いてはいない。

 でも、泣く前の顔だ。

 その顔を何度も見たような気がする。彼は立ち上がった。

「すまない」

 自然に出た言葉にも、女は眉をひそめている。

「すまない?」

「あ、いや、ごめんだったかな」

「何それ。急にどうしたの?」

「ごめん」

 それ以上、何も言えなかった。朝食の時間になっても彼は落ち着かなかった。食卓にはパンと卵と味噌汁が並んでいたが、誰が作ったのか分からない。

隣の席に座っている女か、自分か、家政婦か、母か。

 男の子は向かいに座って、黙ってパンを食べている。あるはずのない黄色い傘は椅子の横に立てかけられていた。室内なのに、傘の先から水が落ちている。

 ぽたり。

 ぽたり。

 床に水たまりはできない。彼はそれを見つめた。

「傘、濡れてるぞ」

 彼が言うと、男の子は不思議そうに傘を見た。

「濡れてないけど」

「水が」

「ないよ」

 女も言った。

「傘ってなんのこと?傘なんてないじゃない」

 彼にははっきりと見えているものが、他人には見えていない。傘の先から、透明な水が落ちているではないか。その水滴が床に触れるたび、小さな文字が浮かぶ。

 たすけて

 ぽたり。

 今日、来る?

 ぽたり。

 お父さんは起こすだけじゃん

 ぽたり。

 彼は椅子を蹴るように立ち上がった。男の子が驚いてパンを落とした。女が声を荒げた。

「もう!どうしたっていうの!?」

「見えないのか」

「何が!」

「文字が」

「文字?」

「床に書いてあるじゃないか」

 女の顔が、恐怖に変わった。彼はその顔を見て、自分が異常なことを言っているのだということはよく理解できた。だが、見えている。確かに見えているだから仕方ない。黄色い傘の先から、記憶が滴っているのか。彼は思わず食卓から離れた。

「仕事に行く」

 そう言ったが、なぜ仕事に行くのかは分からない。だが、この家にいるのは危険だと判断した。家の中には、彼を誰かにしようとするものが多すぎる。早く逃げなければ。すると女が言った。

「授業参観は?」

 男の子がこちらを見た。その目は、もう期待していないように見えた。いや、まだ少しだけ期待しているようにも見える。だが、彼は答えた。

「無理だ」

 男の子は何も言わなかった。女が低い声で言った。

「昨日、行くって言ったよ」

「仕事がある」

「何の仕事?」

 彼は答えられなかった。

 取締役会なのか、相続相談なのか、営業訪問なのか、何かしらの説明会なのか。

 どれも仕事だが、どれも違うような気がする。女は続けてこう言った。

「あなた、誰?」

 その言葉が、部屋の空気を止めた。女は冗談で言ったのか。いや、本当に分からないといった顔をしているから、恐怖のあまりそう聞いたのかもしれない。

 ただ彼にとってはどちらでもよかった。それよりも自分は誰だ。名前が分からない以上、どう返事してよいか分からないのは当然だ。

そうか、佐伯悠一か。

 それでいい。

 だが、舌の上に出てきたのは別の名前だった。

「御堂」

 女の顔が凍った。彼は慌てて言い直そうとした。

「違う。森下……いや、長谷川か……白石……」

 男の子が泣きそうな顔になった。

「お父さん?」

 彼は耳を塞いだ。

「呼ぶな」

 また、その言葉が出た。男の子の顔から表情が消えた。黄色い傘が、椅子の横で倒れた。

 ぱたん。

 その音だけが異常に大きく響いた。その瞬間、彼は家を飛び出していた。靴を履いたかどうかも覚えていない。マンションのエレベーターに乗った。いや、階段だったかもしれない。外へ出ると、雨は降っていなかった。だが、彼の周りだけ雨音がした。

 ぱらぱら。

 ぱらぱら。

 彼は会社へ向かって走っていた。だが、会社といっても、どの会社か分からない。そもそおも自分はどこかの会社員なのだろうか。そう思っている間にも身体は勝手に駅へ向かっている。そして、駅のホームで電車を待つ。周囲の人々はいつもと変わらない様子である。いや、そういうふりをしているのか。自分だけが、名前を持っていないと思っているが、周囲の人間たちの中にも自分が誰だかわからず、それがばれないようにただ毎日を誰かのふりをして生きている人がいるのではなかろうか。

 電車が来たので、彼はそれに乗ってみた。車内は混んでいたので、吊り革につかまった。電車の窓に映る自分の顔を見てみるが、その顔はもうだれであったかは彼には分からない。隣の学生が、彼から少し距離を取ったとき、初めて自分が無意識に声を出していたことに気づいた。

「佐伯、御堂、森下、長谷川、花澤、白石」

 誰かの名前を何度も何度も口に出していた。スマートフォンが震え、画面を覗いてみると彼には理解できない通知が並んでいた。

 社長、どちらにいらっしゃいますか。

 先生、相談者の方がお見えです。

 長谷川さん、本日の訪問時間が過ぎております。

 直人、幼稚園からまた電話かかってきた。

 お父さん、今日来ないの?

 誰の、誰に向けた連絡なのか考えることすら煩わしくなり、彼はスマートフォンの電源を切った。それでも通知音は鳴り続けた。画面は黒いままなのに、文字だけが浮かぶ。

 今日、来る?

 彼はスマートフォンを床に落とした。周りの乗客がこちらを見る。親切な誰かが拾って彼に渡してくれた。

「落としましたよ」

 だが彼は受け取らなかった。その人の顔には穏やかな微笑みがあり、丸い眼鏡があった。

「落とされましたよ」

 もう一度彼に声がかけられた。彼は後ずさった。電車のドアが開き、駅名を告げるアナウンスが流れた。

 ゆうらん堂。次は、ゆうらん堂でございます。

 乗客たちは何も反応しない。アナウンスは普通の駅名を言っており、彼だけにそう聞こえているのかもしれないくらいだった。行く当てもない彼はその駅で電車を降りた。ホームは広く、見たことのない駅だった。人は多いが、誰の顔もはっきりしなかった。全員の顔がぼやけている。男か女か、若いか老いているかも分からない。

 その人々の中に、一人だけはっきり見える子どもがいた。黄色い傘を両手で握って、ホームの端に立っている。彼はその子を見た。男の子は、こちらを見ていたが、何も言わない。ただ、手を振っていた。そしてしばらくすると、その黄色い傘の男の子は人々の間をすり抜け、駅の階段を降りていく。

 彼は思わず後を追いかけた。彼自身、なぜそうしたかはよくわからなかった。もしかすると、唯一顔がはっきりと見える人物に、いったい自分が誰なのかを聞きたかったのかもしれない。改札を抜け、外へ出ると、そこは商店街だった。古いアーケードがあり、多くのシャッターは閉じられていた。さっきまで晴れていたはずなのに、ぱらぱらと細い雨が降っていた。商店街の奥へ奥へと歩いていく男の子の背中が見えたとき、彼は叫んだ。

「待て!」

 子どもは振り返らない。その子が進む先には、黒い看板を掲げた店が見えた。追いかける彼の足が止まった。店の前で、黄色い傘の子どもが立ち止まる。そして、その店の扉を引き、中へ入っていく。

 からん。

 乾いた鈴の音がした。彼が戸口の前に立ったとき、中から声が聞こえた。

「お帰りなさいませ」

 彼は戸を開けた。店内は暗く、棚には瓶が並んでいる。どの瓶にもラベルが貼られているが、どれも白紙である。

 店主らしき男は帳場に座っていた。

「ずいぶんと早いお戻りですね」

 彼は息を荒くしながら言った。

「子どもは?」

「子どもですか?当店にはあまり子どものお客様はお見えになりませんよ」

「黄色い傘の子だ」

 店主であろう男は首を傾げた。

「お客様がお連れになったのですか?」

「違う。先にその子がこの店に入っていくところを見た」

「それは、お客様の記憶違いではないでしょうか」

「私の?」

「はい。おそらく」

「誰なんだ」

 店主は答えなかった。もう一度彼は言った。

「私は誰なんだ」

 そして店主は静かに答えた。

「それを、こちらに聞かれる段階まで来られましたか」

「知っているのか」

「答えは、お預かりしていたはずですが」

「返せ」

「どれにいたしましょう」

 店主は棚を指さした。ラベルのない瓶が、ずらりと並んでいる。

「お客様は多くの記憶を売り、多くの記憶を買われました。そして、それらの記憶を自分から薄められました」

 店主は穏やかに言った。

「どれを返せばよろしいですか?」

 彼は棚を見た。どれだ。どの瓶が自分だ。分からない。

「全部だ」

 彼は言った。店主は首を横に振った。

「全部はもう持ちきれません」

「なら、ひとつでいい」

「どれを」

「分からない」

「それなら、お返しはできませんね」

 彼は帳場の机を叩いた。

「ふざけるな!」

 瓶がかすかに鳴った。

 からん。

 からん。

 鈴のような音だった。棚の奥で、一本の瓶が淡く光った。彼はそれを見た。その瓶だけ、わずかに黄色い光を帯びている。近づいて見てみるが、やはりラベルはない。しかし、瓶の中に小さな傘が見えた。黄色い傘だ。彼が手を伸ばしたとき、店主が静かに言った。

「それは、まだ開けない方がよろしい」

「なぜ」

「開ければ、また痛みが蘇ります」

「痛みを消したのは、あんただろう」

「何をおっしゃいますか。消したのは、お客様自身です」

 それでも彼は瓶をつかんだ。冷たい。いや、温かいのか。もうどちらか分からない。瓶の中で、黄色い傘がくるりと回り、声が聞こえた。

「お父さん」

 彼は瓶を落としそうになった。店主は言った。

「その記憶を戻せば、お客様はご自身が誰を置いてきたのか、少し思い出されるでしょう」

「それなら、これにする」

「本当ですか?」

「ああ」

「では、ひとつだけ確認を」

 店主の声が少し低くなった。

「戻したところで、楽にはなりませんよ。戻したところで、完全に元通りというわけにはいきませんよ」

「構わない」

「戻したところで、あなたはまた逃げたくなります」

 彼は黙った。店主の話を聞くと、自分はこの瓶の中にこれまでの記憶や痛みというものを置いてきたのだろう。それがどういうものかは今となってはもう分かりようがなかったが、自分から捨てた記憶であることは確かそうだった。

 彼は瓶を見た。黄色い傘の中で、子どもがこちらを見ていた。泣いてもいないし、怒ってもいない。ただ、諦めた顔でこちらを見ている。彼は子どものその顔に耐えられないと思った。そして彼は瓶を棚に戻した。店主は何も言わなかった。

「やっぱり」

 彼は言った。

「いらない」

 店内が静かになった。瓶の光が消え、黄色い傘も子どもも見えなくなった。店主はゆっくり言った。

「承知しました」

 その声は、少しだけ遠かった。

「では、次の記憶をお探ししましょう」

 彼は帳場の椅子に座り込んだ。疲れていた。何から逃げているのかも分からないが、疲れていた。

「今度は」

 店主が聞いた。

「どのような記憶をご希望ですか」

 彼は答えた。

「誰からも呼ばれない記憶だ」

 店主は一瞬、動きを止めた。

「誰からも?」

「ああ」

「名前を呼ばれない人生、ということでしょうか」

「そうだ」

「誰の夫でも、誰の父親でも、誰の部下でも、誰の友人でもないということでしょうか?」

「そうだ」

「それは」

 店主は少し間を置いた。

「かなり静かな記憶になります」

「静かな方がいい」

「寂しくなりますよ」

「構わない」

「誰にも覚えられない可能性があります」

「その方がいい」

 少し困り顔の店主は棚の奥へ行った。しばらく瓶を探す音がした。

 からん。

 からん。

 やがて、店主は一本の黒い瓶を持って戻ってきた。中は見えない。光もない。ラベルには、薄い文字でこう書かれていた。

 誰にも呼ばれなかった朝

 彼は瓶を受け取った。手にした瞬間、耳鳴りがした。今まで聞こえていた声が遠くなる。

 お父さん

 パパ

 社長

 長谷川さん

 白石先生

 佐伯さん

 あなた

 ああ、この全部が遠くなるのか。そう思うと彼は少し楽になった。店主が言った。

「お客様」

「何だ」

「この先へ進まれると、最後の質問が近づきます」

「ということはまだ最後じゃないだろ」

「はい。その通りです」

「なら、聞くな」

「承知しました」

 店主は静かに言った。

「ただ、最後の質問に答えるには、呼ばれた記憶が必要になることがありますが」

 彼は瓶の蓋を開けた。

「いらない」

 そして、飲んだ。苦くも甘くもなかった。味も匂いもなく、水よりも薄い感じがした。

 飲み込んだ瞬間、耳が静かになった。まず雨音が消え、次に店内の瓶の音が消えた。店主の顔もぼやけ、やがて目の前が暗くなった。

 次に目を開けたとき、彼は白い駅のベンチに座っていた。誰もいない駅だった。そこから見える空は灰色。視線を落とすと線路が一本だけ走っており、ホームの端には、黄色い傘が落ちていた。どこからか駅のアナウンスが流れた。

「まもなく、次の朝が参ります」

 彼は立ち上がった。どこへ行くのか分からない。でも、誰にも呼ばれていない。それだけで、少し楽だった。

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