第7章 白い部屋
雨が降り始めた。部屋の中にいるのに、雨が降っている。天井はあるのか、ないのか、分からなかった。壁も、床も、境目がなかった。すべてが同じ白で、どこまでも続いているように見える。
だが、閉じ込められていることだけは分かった。雨は細く、音がしなかった。床に落ちても水たまりはできないし、服が濡れる感覚もない。けれど、確かに雨は降っている。
その雨の中に、小さな男の子が立っていた。黄色い傘を差している。白い部屋の中で、その傘だけが色を持っていた。
男の子は、悠一を見ていた。悠一という名前が自分の名前だったかどうかすら、すぐには分からなくなっている。しかし分からなくても、不思議と怖くはなかった。怖いという感情が、どこか遠くにある感触だった。
「お父さん」
男の子が言ったが悠一は答えなかった。その言葉が誰を指しているのか分からなかったからだ。
「お父さん」
男の子はもう一度言った。今度は、少しだけ声が強かった。悠一は男の子を見た。小学生低学年くらいの背丈であり、細い腕をしており、傘の柄をぎゅっと握っている。頬には、絆創膏の跡のようなものがある。どこかで見たことがあると思った。
図書館で恐竜の本を読んでいた子どもか?
いや、駅のホームで黄色い傘を抱えていた子どもだろうか。
それとも高層マンションの子ども部屋で泣いていた男の子だったか。
そうか、家でソファに丸くなっていた、あの子か。
だが、名前が出てこなかった。
「ぼくのこと、覚えてない?」
男の子が聞いた。悠一は考えた。覚えている、と言えばいいのかもしれない。その方が、この子は喜ぶだろう。だが、覚えていなかった。いや、覚えている気もするが、それが誰の記憶なのかはっきりとは見当がつかない。
「分からない」
悠一は言った。その声には抑揚がなく、自分でも驚くほど平坦だった。
「そっか」
男の子はうなずいた。雨が降っている中、男の子の目元にも水があった。
「ここ、どこか分かる?」
「分からない」
「そう、ぼくも分からないんだ」
男の子は、白い部屋を見回した。
「でも、たぶんだけど、ここはお父さんが作った場所だよね」
「私が?」
「うん」
「なぜ」
「何も見たくないから」
男の子は言った。
「何も聞きたくないから。誰にも呼ばれたくないから。だから、こんなに白くしたんでしょ」
悠一は周囲を見た。どこまでも白であり、見たくないものは何もない。妻のため息や子どもの泣き声や職場の冷たい視線もない。
失望もない。
約束もない。
失敗もない。
自分が何者であるかを問うものもいない。
そこは、苦しみのない楽な場所だった。そのはずだった。
「ここにいると楽?」
男の子が聞いた。悠一は少し考えてから答えた。
「分からない」
「またそれだね」
男の子は少し笑った。その笑い方に、胸の奥がほんの少しだけ揺れた。何かを思い出しそうになった。
お父さんは起こすだけじゃん。
白い部屋のどこからか声がした。悠一は振り返ってみたが誰もいない。男の子が目の前にいるだけである。
「今の、聞こえた?」
男の子が聞いた。
「何が」
「ぼくの声」
「君が言ったのか」
「ううん」
男の子は首を横に振った。
「でも、ぼくだよ」
意味が分からなかった。
「ぼくは、いろんなところにいるんだ」
「いろんなところ?」
「お父さんが逃げた先ってことだよ」
男の子は黄色い傘を少し傾けた。
「家にもいたし、高いマンションにもいたし、図書館にもいたね。駅にもいたよ。ホテルの廊下にもいたし、電車にもいたんだ。そして今はこの白い部屋にいる」
悠一は、男の子の顔を見た。その顔が、見るたびに少しずつ変わる。遠い記憶の中で目にしてきた子どもたちの顔へと順番に変わっていくようだった。そして、一瞬だけ、幼い頃の自分のようにも見えた。
悠一は後ずさった。
「やめろ」
「何を?」
「顔を変えるな」
「変えてないよ」
男の子は言った。
「お父さんが、ちゃんと見てないだけだよ」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。そして痛みというものがまだ残っていたのかとも思った。悠一は自分の胸に手を当てた。何も感じない人生を選んだはずなのに。喜びも、苦しみも、期待も、後悔も、全部なくなる場所を選んだはずだった。それなのに、心が痛む。
「お父さん」
男の子が一歩近づいた。
「帰ろう」
「どこへ」
「僕たちの家だよ」
「家が分からない」
「思い出して」
「思い出せない」
「思い出してよ」
男の子の声が震えた。その震えが、白い部屋にひびを入れたように見えた。壁の白さに、薄い線が走る。その向こうに、いくつもの景色が見えた。
高層マンションの廊下や泣いている子どもの部屋、図書館の机に開かれた恐竜図鑑、ページの隅に書かれた、たすけて、という文字。
電車の窓に映る疲れた顔にビジネスホテルの廊下、パジャマ姿の女の子、法律事務所のデスク、涙をこらえる事務員、そして、天井の隅の雨漏りの染み。
悠一は目を閉じた。見たくなかった。見れば、自分が何をしてきたか思い出してしまう。どの人生でも、同じだった。人に必要とされると逃げ、誰かが泣いていると扉を開けず、責任を求められると、別の朝を探した。そして今、ついに何も感じない場所にいる。
「お父さん」
男の子が袖をつかんだ。小さな手だった。しかし温かかった。その温度に、悠一はびくりとした。白い部屋の中で、初めてはっきり感じる温度だった。
「帰ろう」
男の子は言った。
「まだ、帰れるかもしれない」
その言葉はどこか遠くで鳴っているように聞こえた。帰るとはどこへだろうか。帰るべき場所があったようにも思えるけれど、その道を思い浮かべた瞬間、悠一の中に強い嫌悪が湧いた。戻ったところで、何になる。また情けない夫に、また頼りない父親に戻るだけだ。また、自分が嫌になるだけだ。それなら、なぜ戻る。
男の子の手が震えている。その手を握り返せば、何かが変わるのかもしれないが、悠一にはできなかった。
白い部屋の奥に、黒い引き戸が現れた。古い木枠の扉に黒い看板があり、白い文字が書かれている。男の子の手が、さらに強く悠一の袖をつかんだ。
「だめ!」
悠一は扉を見た。引き戸の向こうから、店主の声がした。
「お目覚めですか」
その声は、いつものように穏やかだった。男の子が叫んだ。
「来ないで!」
店主は姿を見せなかった。声だけが白い部屋に響く。
「調子はいかがですか」
悠一は答えた。
「分からない」
「そうでしょうね」
「ここは何だ」
「お客様のご希望に近い場所です」
「何も感じない人生か」
「ええ。かなり近いところまで来ています」
「人生なのか、ここは」
店主は少し黙った。
「厳密には、人生を始める前の待合室のようなものです」
「何を待っている?」
「ですので、次の人生です」
男の子が首を振った。
「違う。最後を待ってるんだよ」
悠一は男の子を見た。店主は否定しなかった。
「お客様」
店主の声が、引き戸の向こうから続いた。
「お戻りになりますか」
悠一は息を止めた。
「戻る?」
「はい。最初の記憶へ」
男の子の顔が明るくなった。
「戻ろう」
悠一は動けなかった。それは救いの言葉のように聞こえた。けれど同時に、悠一には罰のようにも聞こえた。元の人生を引き受けるということは嫌だった自分に戻るということである。捨てたいと思ったあの朝へ、また戻るというのか。それを、今の自分は選択できるのか。
「戻れば、全部元通りになるのか」
悠一は聞いた。店主が答える。
「完全には戻りません」
「どういう意味だ」
「一度手放した記憶は、元の形では戻りません。ひびの入った器のようなものです。今までの記憶を多少なりとも引き継ぐことになります」
「その記憶はどんな記憶だ」
「お客様が嫌だと思われたものは、ほとんどそのまま残っております」
店主は淡々と言った。
「妻のため息や息子との距離、職場での評価、家の修理、未記入のプリント、そういったものは、消えておりません」
男の子が袖を引いた。
「それでも帰ろう」
悠一は男の子を見た。
「なぜ」
「お父さんだから」
「私は、誰の父親なんだ」
男の子は答えられなかった。その沈黙が、悠一の中で何かを壊した。この子ですら、答えられない。自分も分からない。
誰の父親か。
誰の夫か。
誰の上司か。
誰の部下か。
誰なのか。
分からない。
分からないまま、戻ることなどできない。
「戻してくれ」
悠一は言った。男の子の顔が上がった。しかし悠一は続けた。
「自分が誰だかわかるようになるのなら。この自分で間違いないと思えるようになるなら」
悠一は男の子の手を、そっと外した。男の子の顔が凍りついた。
「お父さん」
「私は」
悠一は言った。
「まだ戻れない」
男の子は首を横に振った。
「だめ」
「戻っても、また失敗する」
「それでも」
「また待たせる」
「それでも」
「また逃げる」
「それでも帰ってきてよ!」
男の子の声が、白い部屋に響いた。雨が強くなった。音のなかった雨に、音が戻る。
ざあざあ。
ばらばらばらばら。
商店街のアーケードを叩くような雨音だった。悠一は耳を塞ぎたくなった。
「別の記憶をくれ」
悠一は言った。男の子が黙った。白い部屋の雨が、さらに強くなる。店主の声は、少しだけ低くなった。
「まだ、手放されますか」
「この痛みもいらない」
悠一は胸を押さえた。
「この子が誰か分からないまま心だけが痛むなら、この痛みもいらない」
男の子の黄色い傘が、小さく揺れた。
「お父さん」
「呼ぶな」
悠一は言った。自分でも驚くほど冷たい声だった。
「私は、もう誰かの父親でいるのに疲れた」
男の子は何も言わなかった。
「誰かの夫でいるのも、誰かの部下でいるのも、誰かに期待されるのも、全部疲れた」
白い部屋の奥で、黒い引き戸が少し開いた。暖かい光が漏れる。その光は、優しかった。逃げ道の光だった。店主が言った。
「次の記憶をお望みですか」
「ああ」
「どのような記憶を」
悠一は答えようとした。だが、言葉が出てこない。今まで自分の逃げたい記憶を売り、様々な都合のよい人生を買ってきた。そして最後に、何も感じないことを選んだのに、その人生ですら、こうして痛みを生むのだ。
なら、何が欲しいのか。悠一は分からなかった。
「分からない」
店主は少し黙った。
「では、お選びすることができません」
「何でもいい」
「何でもいい記憶はございませんよ」
「なら」
悠一は白い部屋を見回した。この部屋の中で痛みを生み出しているものはなんだと考えた。雨の音か、黄色い傘か、雨の中の男の子か、自分を呼ぶ声か。しばらく考えたあと、悠一は口を開いた。
「私が私だと分からなくなる記憶をくれ」
男の子が息を飲んだ。店主は、すぐには答えなかった。白い部屋の雨音だけが響いている。長い沈黙のあと、店主が言った。
「店主である私が言うのも心苦しいですが、それはかなり危険です」
「構わない」
「ご自身が戻る場所を失います」
「戻る場所なんて、もう分からない」
「本当に?」
男の子が聞いたが、悠一は男の子を見ないようにした。
「本当だ」
店主の声は、今までよりも少し遠く聞こえた。
「承知しました」
黒い引き戸がゆっくりと開いた。店内の光が白い部屋に流れ込み、棚の瓶が見えた。
その奥に、店主が立っている。いつも通りの黒い服を着ており、穏やかな顔に丸い眼鏡をかけている。だが、その背後の棚は、いつもより暗かった。店主は瓶を一つ持っていた。その瓶にはラベルは貼られておらず、中には灰色とも透明ともつかないものが入っている。煙のようでもあり、水のようでもあり、空気のようでもある。
「これは何だ」
悠一は聞いた。
「名前の薄い記憶です」
「名前の薄い?」
「誰でもあって、誰でもない記憶。いくつもの人生を混ぜ、輪郭をなくしたものです」
店主は静かに言った。
「これを飲めば、しばらくは楽になるでしょう」
「しばらく?」
「はい」
「その後は」
「ご自身でお確かめください」
男の子が駆け寄った。
「だめ!」
悠一の前に立つ。小さな身体で、瓶との間に割って入る。
「それ飲んだら、ほんとに帰れなくなる」
「どいてくれ」
「いや」
「どけ」
「いや!」
男の子の声は泣いていた。その声に、悠一の胸が大きく痛んだ。
痛い。
痛い。
痛い。
だから嫌なのだ。この痛みを持って帰れば、自分はきっと壊れてしまう。なら、最初からこんな気持ちは忘れた方がいい。悠一は男の子の肩に手を置いた。一瞬だけ、その小さな肩が温かかった。そして、横へ退かした。強くは押していないつもりだったが、男の子は簡単によろめいた。黄色い傘が床に落ち、ぱたん、と乾いた音がした。
その音が、白い部屋の雨音よりも大きく響いた。男の子は床に座り込み、悠一を見上げた。
「お父さん」
悠一は瓶を受け取った。瓶は冷たかった。また、手のひらから温度が奪われていく。店主が言った。
「最後に確認します」
「何だ」
「この記憶を飲まれた場合、お客様がご自身を佐伯悠一として認識できる保証はございません」
「それでもいい」
「ご家族の顔も、混ざる可能性があります」
「構わない」
「大切だった痛みも、そうでなかった痛みも、区別がつかなくなります」
「ああ」
「それでもよろしいですか?」
悠一は答えた。
「いい。それでいい」
男の子が、床に落ちた黄色い傘を拾った。傘を差さずに、胸に抱えた。その顔は、もう泣いていなかった。泣くことを諦めた顔だった。
「じゃあ」
男の子は言った。
「ばいばいだね」
悠一は、その言葉を聞きながら、瓶の蓋を開け、中身を飲み干した。匂いや味はなく、喉を通る感覚も、ほとんどなかった。そして白い部屋の境目が溶け始めた。男の子の顔がにじみ、黄色い傘が遠ざかり、店主の姿が伸びていく。自分の手が、誰の手なのか分からなくなる。
悠一、圭吾、せいじ、トオル、直と、コー平。
名前が順番に浮かび、混ざり、崩れていく。どれかが自分であったのだろうか。それとも全部が自分だったのだろうか。あるいは、どれも自分ではなかったのか。最後に、男の子の声が聞こえた。
「僕の名前も、忘れるんだね」
男は答えようとした。男の子の名前を思い出そうとした。だが、名前はもう指の間から水のようにこぼれていった後だった。視界が暗くなり、鈴が鳴った。
からん。
からん。
次に目を開けたときは、朝だった。
今まで見たことのない天井が広がっている。ここは知らない部屋だ。窓の外で、車の音がする。隣には、誰かが眠っているが、それが女か、男か、妻か、他人か、分からない。枕元のスマートフォンが震えた。画面には、見知らぬ名前からの通知が出ている。
今日、来る?
その言葉を見ても、それが誰からの言葉なのか、分からなかった。そして、自分が誰なのかも、分からなかった。ただ、喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
また朝が来た。別の朝が。けれど、その朝が誰のものなのか、もう誰にも分からなかった。




