第10章 最後の質問
彼が再び目を開けたとき、黒い棚に置かれた壁一面の瓶が見えた。棚はどこまでも続いており、天井は高すぎて見えない。瓶の中には光っているものもあれば、どんよりと灰色の煙のようなものが漂っているものもあれば、ほとんど何もみえないものもあった。部屋全体は薄暗く、静かだった。彼は身体を起こそうとするが起き上がれない。そもそも自分の手や足や体が見えない。心臓の鼓動や肺の呼吸も感じられず、自分が生きているのかどうかは分からなかった。
その部屋の向こうから、男の声が聞こえた。
「お帰りなさいませ」
しかし、その声の持ち主がどこにいるのか分からなかった。
「私は」
声は出せるようだった。けれど、自分の名前は思い出せない。
「私は、誰だ。ここは、どこだ」
「あなたは何者でもありません。ここは人生の最後にかなり近い場所、とでも言っておきましょうか」
「最後に近い?」
「ええ」
「まだ最後ではないんだな」
「肉体の終わりと、魂の終わりは、必ずしも同じではありません」
彼には意味が分からなかった。だが、彼にとってはそんなことはもうどうでもよかった。分からないことに怒るだけの輪郭が、彼には残っていなかった。
「お客様」
店主が言った。
「本日は、かねてからのお約束通り、最後の質問をさせていただきます」
「なんだそれは」
「あなたが初めて当店にお越しくださったときのことをお忘れでしょうか。私はお客様に人生の最後に二つだけ質問させていただきますとお伝えしました」
彼はそんな約束はずいぶんと前に忘れてしまっていた。
「その人生の最後の日が、本日となっております」
「その質問に答えることができたらどうなるんだ?」
男の声が穏やかに返ってきた。
「望まれるのであれば、すぐにまた新たな人生を始められます。新たな人生が嫌だとおっしゃるのであれば、永い眠りに就くことになります」
彼は黙った。
「答えることができなければ?」
「お約束通り、あなたの記憶を私が全ていただくことになり、あなたは輪廻というものから外れることになります。魂だけで存在している状態を、あなたたち人間は『眠る』もしくは『死ぬ』と表現します。それに対して、魂が肉体に宿ることで、自分には意識があり、自分だけの体を保有していると感じられる状態を『目覚める』もしくは『生きる』と表現しているようです」
彼はその説明を聞いてもすぐには理解できなかった。
「つまり、私が質問に答えられない場合は『死ぬ』ことも『生きる』こともできなくなるということか」
「簡単に申し上げると、そういうことになります」
彼はしばらく黙った。何を聞かれるのかは知らないし、知りたいとも思わなかった。
「他に聞いておきたいことはございますか?」
この空間に響く男の声は、ひどく静かなものだった。
「いや、ない。最後の質問とやらを頼む」
「それでは、お聞きします。佐伯悠一様」
名前を呼ばれたとき、今までの記憶が瞬時に甦った。
悠一は顔を上げた。その名前に返事をしたかった。だが、声が出なかった。
「あなたは、人生を楽しみましたか?」
店主の声は、静かだった。怒ってもいないし、責めてもいない。ただ、約束していた言葉を読み上げるように、淡々としていた。
悠一は答えられなかった。今までの記憶をさかのぼってみても、楽しむどころか退屈だ、くだらないと常に思っていた。自分は価値のある人間だという気になっても、穏やかな時間を過ごせていたとしても、都合の悪いことが起きたときには、こんな人生ではないどこかへ行きたいと願った。
悠一が記憶を探す間、店主は返事を促さなかった。ただその答えを待っていた。やがて悠一は口を開いた。
「私は」
声が震えた。
「私は、楽しもうとしませんでした」
店内の瓶が、寂しそうに、かすかにからんと鳴った。
「どの人生でも、不満を探しました」
悠一は続けた。
「成功しても、重いと言った。穏やかでも、空っぽだと言った。自由でも、寂しいと言った。愛されても、怖いと言った。正しくても、苦しいと言った。何も感じなくても、まだ足りないと言った」
言葉が、自分の胸を切り裂いていくようだった。
「私は、楽しめるものを見つけようとしなかった。いつも、違う人生ならと思っていました」
店主は黙っていた。
「だから」
悠一は喉を鳴らした。
「答えは、いいえです」
「承知しました」
店主の返事はそれだけだった。責めることや慰めることはなく、次の質問に進むだけだった。悠一はその無慈悲な静けさに、体が震えた。
「では、二つ目です」
店主はやはり淡々と続けた。
「あなたは、人に親切にしましたか?」
また、簡単な、あまりにも簡単な言葉だった。しかし、悠一の中には人に親切にした記憶は見当たらなかった。
航太を起こしたときも、子ども部屋にいる陸の泣き声を聞いたときも、図書館の男の子が助けを求めているときも、営業先見ず知らずの女が困っているときも、莉子の熱も、藤野の涙も、全て自分から関わることを断ち切った。そして、八歳の幼いときの自分さえ見捨てた。
親切にしたことが一つもなかったわけではないのかもしれない。どこかで、小さなことをしたかもしれない。しかし、今この場で思い出せるのは、しなかったことばかりだった。しようと思えばできた簡単なことが、すべて閉じられたまま悠一の記憶に残っていた。
「私は」
悠一は言った。声がかすれていた。
「親切に、したかったことはあります。そうすればよかったと、今なら思うことがたくさんあります」
店主は黙っている。
「でも、実際には人に親切にできたことはありませんでした。」
悠一は今までの記憶に別れを告げるように言った。
「だから、答えは、いいえです」
店内が、完全に静かになった。瓶の音もない。店主がゆっくりと何かに書き込む音だけが聞こえる。それから店主の声が聞こえた。
「承知しました」
悠一は笑った。
「それだけか」
「はい」
「もっと何か言わないのか」
「何をでしょう」
「お前は駄目だったとか、もう終わりだとか」
「それは、こちらが申し上げることではありません」
店主の声は穏やかだった。
「お約束通り、あなたの記憶を全ていただきます」
「待ってくれ」
悠一は言った。店主の手が止まる。
「何でしょうか」
「もう一度だけ、戻してくれ」
「どちらへ?」
「朝へ」
悠一は必死に言った。
「最初の朝でいい。いや、どの朝でもいい。御堂でも、森下でも、長谷川でも、花澤でも、白石でもいい。今度は扉を開ける、声をかける。だから」
言葉が止まらない。
「だから、もう一度だけ」
店主は黙って聞いていた。
「頼む」
悠一はこれまで、記憶をくれと言った。違う人生をくれと言い続けた。だが今は、戻してくれと言っている。それがどれほど遅いか、悠一自身も分かっていた。それでも言うしかなかった。
店主は、しばらく何も言わなかった。やがて、静かにこう言った。
「お客様」
「はい」
「戻りたいと思われるのが、遅すぎました」
その言葉は、優しくなかった。しかし、残酷な響きがあるわけでもなかった。ただ、事実を説明するようだった。
「なぜ」
悠一は聞いた。
「私は、まだ」
「お客様が戻りたい場所には、時間が流れております」
店主は言った。
「行かなかった朝も、助けなかった昼も、扉を開けなかった夜も、その場で終わったわけではありません。お客様が次の記憶へ移られたあとも、その人たちの時間は進みました」
悠一は息を止めた。
「陸は?」
「泣いた夜を越えました」
「図書館の子は?」
「帰りました」
「莉子は?」
「眠りました」
「航太は?」
店主は少し黙った。その沈黙が、一番怖かった。
「航太様は、待つことに慣れました」
悠一の感覚に痛みが走った。最後に残った罰のようであった。
「そんな」
「お客様が望まれた通りです」
「私は望んでいない」
「いえ、お客様は確かに別の記憶を望まれました。それに、一度だけではなく、何度もです」
悠一は言葉を失った。その通りだった。自分は別の記憶を望み、そのたびに誰かを置いていった。置いていかれた人たちは、そこで止まって待っていてくれるわけではなかったのだ。助けを求めた人たちは、別の誰かに助けられるか、助けられないまま沈むことになる。自分が戻りたいと思ったとき、そこにまだ同じ形で残っているとは限らない。
「それでも」
悠一は言った。
「記憶だけでも」
「記憶は、いただく約束です」
「全部か」
「はい」
「私が存在したことも?」
「そうです」
「紗季も、航太も、私を忘れるのか」
店主は静かに言った。
「記憶の中のあなたは、いずれほどけていきます」
「そんなことができるのか?」
「そういう契約です」
そこで悠一は笑った。最初に聞かされていたじゃないか。自分で分かっていたはずだ。最後の質問に答えられなければ、自分の記憶はすべてなくなると。そうなることも自分で望んだことじゃないか。そのときの自分は、今の人生など大したものではないと思っていたから、それでもいいと思った。失って困るようなことなどないと思っていた。
だが、違った。失って困ることはあった。たくさんあった。気づくのが遅すぎただけだ。
悠一が今更ながらそんなことを考えていると、店主が瓶の蓋を開ける音がした。その瞬間、店内の空気が吸い込まれ始めた。
「やめろ」
悠一は言った。声が震えていた。
「やめてくれ」
店主の声は聞こえない。
「私は」
悠一は叫んだ。
「私は、佐伯悠一だ」
店内に声が響いた。悠一は必死に続けた。
「佐伯悠一だ。航太の父親で、紗季の夫で、八歳の誕生日に父親を待っていた子どもで、仕事ができなくて、逃げて、何度も逃げて」
言葉が涙に混じる。
「でも、私はいた。いたんだ」
店主は黙っていた。
「いなかったことにはしないでくれ」
悠一は言った。
「頼む。覚えていなくていい。嫌われてもいい。情けないままでいい。だから、いたことだけは」
言葉が途切れた。やがて、店の入口で鈴が鳴った。
からん。
店の入り口に黄色い傘を両手で抱えた子どもが立っていた。ずぶ濡れだった。
「いたよ」
子どもが言った。
「お父さんは、いたよ」
その声は、小さかった。
「ただ」
子どもは続けた。
「来なかっただけじゃん」
そうして、佐伯悠一の記憶は、店の棚に収められた。




