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記憶ばいばい  作者: 紙とペン


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第11章 いない朝

 店主は帳簿の上に筆を置いた。店主の後ろで、赤い服を着た女が棚にもたれていた。

「終わったな」

 店主は頷いた。

「終わってもうたなぁ」

 店主は両腕を頭の上に精一杯伸ばし、背伸びをした。

「最後の質問、二つとも答えられへんかったな」

 女は少し残念そうに店主に言った。

「そうやな。もうちょっと挽回できるかと思ってたんやけど、あかんかったな」

「まあ、そらそうやろな」

 女は棚から体を離した。

「楽しむ前に逃げてたし、親切にする前に心の扉閉めてもうてたし」

「最後の最後でちょっと反省してたけどな」

「遅かったな」

「そうや」

「人間っていつもちょっとだけやけど、遅いんよなぁ」

 女はそう言って、少し笑ったが、その目は笑っていなかった。

「遅くなってからしか気づかれへんねやろな。人間は過去のことしかはっきり見られへんからな。未来のことは想像でしか見られへんようにできてるから。ほんまに俺らの社長は人間に残酷な能力を与えてもうたで」

「ほんまにな」

 店主には一仕事終えた後の疲れが見えていた。

「ところで、店主としての仕事っぷり、こっそり見さしてもろたけど、怪しい雰囲気出すのうまいなぁ。標準語もばっちりやったやん」

「これも仕事のうちや」

 店主は、薄い灰色の煙が漂う瓶のラベルに何を書こうかと悩みながら返事した。

 女はそれを覗き込んだ。

「名前、書かへんの?佐伯悠一やろ?」

「あほ、名前書いたら次に買いにくるお客さんにバレてまうやろ。この悠一さんの人生を一言で表現する言葉を紡ぎ出さなあかんのや」

 女は笑いながら言った。

「嫌な仕事やね」

「うるさいわ。ほなお前がやってくれよ。俺も好きでこんな仕事やってるんちゃうねん。社長から命令されたからやってるだけや」

 そう言いながらも店主は何を書こうか悩んでいた。その間、女は店内にある瓶の数々を眺めた。

「人間ってこんなにも自分の記憶を売るんやな」

「みんな簡単に手放すで。自分にとって都合の悪いことはいつの間にか忘れてて、都合の良い楽しいことはいつまでも覚えてるの何で?ってこの店に来た人間が言うてたけど、そりゃ簡単な話や。あんたが自分で記憶売って、楽しい記憶を買ってるからやんけって、ここまで言葉が出てきそうになったけど、人生のネタバレしそうやったから必死に我慢したわ」

 と言い、店主は自分の額を指さしていた。すると女はすかさず、

「そこもう喉通り超してもうてるで」

 と調子を合わせ、ふたりとも笑った。だがすぐに店主は真面目な顔に戻り、

「つらい記憶、恥ずかしい記憶、退屈な記憶、自分が平凡だった記憶、誰かを傷つけた記憶、誰かを助けられなかった記憶、そいつらを売れば、楽になると思ってるんやな」

 店主は独り言のようにつぶやいた。瓶の中で、いくつもの光が揺れる。

「実際、楽になるやん」

「せやけど、その記憶がないと、自分が何を大事にしてたかも分からんようになんのにな」

「確かにやな」

「ほんで、また今の人生が嫌になって、新しい記憶を買いに来るんや」

「そやな」

「でも、買った記憶は自分のものやないで」

 店主は少し悲しそうな顔をした。女も溜息をついた。

「記憶を売って、記憶を買って、最後は自分も売るんやもんな。ほんで最後に自分の人生、思ったより高かったって嘆くんやな」

 女の言葉に店主は小さく頷いた。

「平凡なことを平凡のまま貫いてる人を見るのって落ち着くから、私は結構好きなんやけどね」

「ほんまにそうやな」

「朝起きて、飯食って、子ども起こして、仕事行って、帰ってきて、皿洗って、たまに怒って、たまに謝って、寝る。そういうの」

「そうやそうや」

「でも見てる側にとったら、逆境に立ち向かって成功してるの見るのも面白い」

「それも事実やな」

「けどさぁ」

 女は少し声を低くした。

「自分の人生を文句言わずに、とは言わんけど、文句言いながらでも最後まで生きてる様を見るのが、一番楽しいよね」

 店主は大きく頷いた。

「文句を言うだけで終わる方が圧倒的に多いからな」

「ほんまそれな」

 女は腕を組んだ。

「せっかく準備してあげた記憶なり、人生なりがあるのに、これは違う、もっとこうしてほしい、別のやつならうまくいくって言われると、こっちもどんどんやる気なくなっていくしな」

「それはあかん。俺らは簡単にやる気なくすような立場やないで。それにお前は俺の後ろでただ見てるだけの傍観者やないか。何勝手にやる気なくしてんねん」

「細かいなあ」

 やや不機嫌になる店主に構わず、女は続けた。

「文句言うんやったら、一回でも人生って呼んでるものを最後まで過ごしてから言うてほしいわ」

「まあな。最後まで人生を全うした人は、あんまり文句言わへんしな」

「せやねん」

 女は棚の瓶を見た。

「色々あったけど、楽しんで生きて、ちょっとは周りの人のためにもなってよかったわって言うよな」

「そうや。ただ俺が、もう一回やりますか?って聞いたら、ほぼ全員もう嫌やって言うけどな」

 そしてふたりはまた笑った。その笑いは、軽かった。しかし、店内に並ぶ瓶の前では、どこか冷たくもあった。そして女が言った。

「自分の人生を歩んでいるという記憶があるとしたら」

 女が続けた。

「それは、さっきの二つの質問に、まだ答える途中ってことやな」

「そうやで」

「今はろくでもない人生を生きていると感じててもやんな」

「記憶があれば、その人はまだ、自分の人生を歩めてるで」

 店主は手に持っている瓶を優しく撫でた。

「望んだ人生かどうかなんて、最後まで生きてみな分からんで」

「あんたにしてはポジティブなこと言うやん」

「褒め言葉として受け取っとくわ」

 そういう店主の筆はまだ一文字も進んでいなかった。


 朝、食卓に茶碗が一つ多かった。紗季は、それに気づいて手を止めた。白い茶碗で、縁が少し欠けている。ずいぶん前から家にある茶碗だった。誰のものだったのかは分からない。けれど、なぜか捨てられずに食器棚の奥に残っているものだ。その茶碗が、今朝は食卓に置かれていた。箸もあるし、湯呑みもある。味噌汁の椀まで準備されている。

 紗季は食卓を見下ろした。自分と、航太。この家には二人しかいないはずなのに、なぜか三人分の食器がある。

「……何してるんだろ」

 紗季は小さく呟いた。寝ぼけていたのだろうか。それにしては自然に三人分を用意していた。そんなことを考えていると、航太が眠そうな顔でリビングに入ってきた。中学生になった航太は、以前より背が伸びていた。声も少し低くなっている。寝癖は相変わらずひどかった。

「おはよう」

「おはよう」

 航太は椅子に座りかけて、食卓を見た。

「何これ?茶碗、多くない?」

 紗季は茶碗を見た。

「うん。間違えたみたい」

「誰の?」

「それが分からないの」

「母さん、しっかりしてよ」

 朝から些細なことでふたりは笑い合った。

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