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記憶ばいばい  作者: 紙とペン


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第4章 愛される朝

 次の朝、悠一は誰かの笑い声で目を覚ました。明るい子どもの声だった。廊下を走る音がして、続いて女の声がした。

「こら、走らないの。下の階に響くでしょ」

「だってパパ起こすの!」

「パパ、昨日遅かったんだから」

「でも朝ごはん、一緒に食べるって約束した!」

 誰のことだ。いや、自分のことか。そう理解するより早く、寝室のドアが勢いよく開いた。小さな女の子が悠一のところへ飛び込んでくる。年は五歳くらいだろうか。髪をふたつに結び、ピンク色のパジャマを着ている。頬は丸く、目は大きい。手にはぬいぐるみのウサギを抱えていた。

「パパ!」

 女の子はベッドに飛び乗り、悠一の腹の上に落ちてきた。

「ぐっ」

 情けない声が出た。女の子はけらけら笑った。

「ほら、パパ起きたよ!」

 悠一は混乱したまま、女の子を見た。名前が浮かぶ。莉子だ。この人生での自分の娘である。そのあとから、妻が部屋に入ってきた。

「ごめん、起こしちゃったね」

 その顔を見て、悠一は息を止めた。紗季だった。いや、紗季ではない。髪型が違う。表情も違う。もっと柔らかく、目元に笑い皺がある。けれど顔立ちは、悠一が最初の人生で妻と呼んでいた女にあまりにも似ていた。名前が流れ込んでくる。花澤真帆、三十九歳、結婚して八年になる。明るく、よく笑う女性で、少し心配性で、家計管理が得意で、夫を信頼しているという情報が頭の中を流れる。

 その夫である自分の名前は、花澤直人である。四十二歳で住宅設備メーカーの営業主任をしており、年収は高くないが、安定している。職場ではそこそこ頼られ、家ではよく笑う父親だ。休日になると娘を近所の公園や遊園地へ連れて行き、月に一度は家族で外食する時間をとる。大きな成功はないが、大きな不幸もない。誰かに強烈に尊敬されるわけではないが、誰かに深く嫌われてもいない。そして、誰か特定の人からはしっかりと愛されているという存在が花沢直人であった。

 悠一は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。これだ。今度こそ、これだと思った。

「パパ、朝ごはん!」

 莉子が悠一の手を引っ張った。

「あ、ああ」

「今日、パンケーキ作ってくれるんでしょ!」

「そうか」

「パパが焼くって言ったよ!」

 悠一は動きを止めた。

「僕が?」

 真帆が笑った。

「昨日、約束してたよ。莉子が寝る前に」

「ああ……そうだったな」

 記憶が追いついてくる。昨夜、直人は莉子に言った。明日の朝はパパがパンケーキを焼くと。焦がさないでね、と莉子が笑った。任せろ、と直人も笑っていた。その記憶は胸が痛くなるほどに温かかった。キッチンに立つと、真帆がホットケーキミックス、卵、牛乳、ボウル、泡立て器などの材料や調理器具を出してくれていた。莉子は椅子の上に立ち、食卓からこちらを見ている。

「パパ、まあるくしてね」

「分かった」

「ミッキーさんでもいいよ」

「それは難しいな」

「パパならできる!」

 無条件の信頼だった。悠一は、その言葉に少しだけ怯えた。パパならできるなんて、今までの人生で言われたことがあっただろうか。少なくとも航太はそんな目で自分を見なくなっていた。陸もそうだった。図書館の男の子も、駅のホームの子ども。しかし、その子たちは少なからず自分に何かを求めてはいた。でも、自分はいつも逃げていた。今度は逃げなくて済む。そう思いながら、フライパンに生地を流し込んだ。

 丸く広がる。じゅう、と小さな音がし、甘い匂いが立ち上る。真帆が隣でコーヒーを淹れてくれ、莉子が椅子の上で足をばたつかせている。窓から眩しい朝日も入ってくる。

 あまりにも幸せな朝だった。だからこそ、悠一は怖かった。これは本当に自分に与えられていいものなのか。裏に何かあるのではないか。この人生にも、きっと落とし穴がある。悠一である自分がそう思ってしまるのである。

 一枚目のパンケーキは、少し焦げた。

「焦げたね」

 莉子が真剣な顔で言った。

「すまん」

「でも食べる。パパが作ったやつだから」

 莉子は皿に乗せられたパンケーキに、はちみつをかけて食べた。

「おいしい!」

 その声は本物だった。悠一は笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。胸の奥に、変な苦しさがあった。愛されているというのは、思っていたよりも楽ではなかった。悠一にとって愛されるということは、期待されるということだった。期待されるということは、裏切る可能性があるということだったからだ。

 朝食のあと、悠一は仕事に向かうためにスーツに着替えた。玄関で靴を履いていると、莉子が走ってきた。

「パパ、今日早く帰ってくる?」

 その言葉に、悠一は一瞬だけ固まった。今日早く帰ってくる?以前にも、どこかで聞いた気がした。今日は来る?面談、始まるけど。お父さんは起こすだけじゃん。似た声が重なる。

「できるだけ早く帰るよ」

 悠一の言葉に莉子は顔を輝かせた。

「ほんと?」

「ああ」

「約束だよ?」

 その言葉が、嫌に重かった。悠一は真帆の方を見た。真帆は何も言わず、ただ微笑んでいる。悠一を信じている顔だった。少しも疑っていないのが、つらかった。

「約束する」

 悠一は言った。莉子は小指を差し出した。

「ゆびきり」

 悠一は膝を折り、莉子の小さな小指に自分の指を絡めた。

「ゆびきりげんまん」

 莉子が歌う。

「うそついたら、はりせんぼんのーます」

 悠一の背筋が冷たくなった。子どもの歌が、急に呪いのように聞こえた。

「ゆびきった」

 莉子は笑った。悠一はその笑顔から目をそらした。

 会社は郊外のビルにあった。大企業ではない。そして社員たちの表情は悪くなかった。

「花澤さん、おはようございます」

「おはようございます」

「昨日の見積もり、通りましたよ」

「本当ですか」

「先方、花澤さんの説明が分かりやすかったって」

 同僚が笑って言った。悠一は曖昧に笑い返した。職場でも、直人はそこそこ信頼されていた。若手から相談され、上司からも無理な仕事を押しつけられすぎない。成績は中の上。人当たりがよく、社内の飲み会では場を和ませる。

 いい人。便利な人。悪くない人。

 それが花澤直人だった。佐伯悠一が欲しかったものに、とても近かった。午前中、悠一は客先を二件回った。仕事は難しくはなかった。住宅設備の不具合対応、リフォームの見積もり、納期の調整。御堂圭吾のように巨大な数字を動かすわけではない。長谷川通のように相手の弱みに入り込むわけでもない。相手の話を聞き、できることとできないことを伝え、困っているところを少し助ける。

 それだけだった。昼前、会社に戻る途中で電話が鳴った。相手は真帆だった。

「もしもし」

「あ、直人? 今、大丈夫?」

「どうした?」

「莉子がね、幼稚園でちょっと熱出したみたい」

 悠一の胸がきゅっと縮んだ。

「熱?」

「三十七度八分。今すぐに迎えに行くほどじゃないかもしれないけど、先生から連絡があって」

「莉子は迎えに行くのか?」

「私、今日どうしても抜けられない打ち合わせがあって。お母さんにも連絡したんだけど、病院の予約があるみたいで」

 真帆は申し訳なさそうに言った。

「直人、午後少しだけ抜けられないかな」

 悠一は黙った。午後には大事な商談があった。直人の記憶では、今日の商談はそこそこ重要だった。取れれば今月の成績が安定する。上司も期待している。だが、娘が熱を出している。普通の父親なら、どうするんだろう。愛されている父親なら、どうする。

「分かった」

 そう言えばよかった。言えるはずだった。しかし悠一の口から出たのは、別の言葉だった。

「午後はちょっと難しいかもしれない」

 電話の向こうが、少し静かになった。

「そっか」

「大事な商談があって」

「うん。分かった。私、何とかする」

「ごめん」

「大丈夫」

 真帆はそう言った。大丈夫と言ったその言い方には聞き覚えがあった。紗季もよくそう言った。本当は大丈夫ではないけれど、大丈夫と人は言う。電話を切ったあと、悠一はしばらく画面を見つめた。迎えに行けた。行こうと思えば、行けた。商談は別の日にできたかもしれない。上司に頭を下げれば済んだかもしれない。だが、それをしなかった。

 なぜだ。

 仕事を失うのが怖いからか。評価を落とすのが怖いからか。それとも、娘の熱という現実に触れるのが怖いからか。愛される人生を選んだのに、愛している人のもとへ行けない。悠一は自分が嫌になった。

そして、午後の商談はうまくいかなかった。相手の担当者は終始不機嫌で、見積もりの金額に難色を示した。

「他社さんの方が安いですね」

「価格だけで比べますと、そう見えるかもしれません」

「いや、実際安いんですよ」

「ただ、アフター対応まで含めると…」

「そこなんですよね。御社、対応が遅いって聞くんです」

 悠一は言葉に詰まった。頭のどこかで、莉子の熱のことを考えていた。真帆は迎えに行けただろうか。莉子は泣いていないだろうか。朝の約束を覚えているだろうか。

「花澤さん?」

 担当者に呼ばれ、悠一は顔を上げた。

「あ、すみません」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

 気づけば自分も大丈夫という言葉を使っているではないか。商談は保留になり、会社に戻ると、上司から軽く注意された。

「花澤、今日ちょっと集中してなかったな」

「すみません」

「何かあったのか?」

「娘が少し熱を出して」

「だったら帰ればよかったのに」

 悠一は顔を上げた。上司は本気でそう言っていた。

「商談は別日にできたよ。家庭のことはちゃんとやれ。後から取り返せないこともあるから」

 その言葉は優しかった。だから、余計に後ろめたかった。責められた方が、まだ楽だった。お前は仕事ができない。父親失格だ。そう言われた方が、反発できた。

 だが、優しさは逃げ道を塞いだ。悠一は小さく頭を下げた。

「すみません。今日は先に上がります」

「おう。お大事に」

 会社を出たときには、夕方五時を過ぎ、空は薄暗くなり始めていた。悠一は駅へ急いだ。今から帰れば、莉子が起きている時間には間に合う。約束はまだ完全には破っていない。電車に乗り、スマートフォンを見る。真帆からメッセージが来ていた。

 莉子、熱は少し下がったよ。

 でもパパは?って何回も聞いてる。

 早く帰れそう?

 悠一はすぐに返信した。

 今向かってる。

 送信してから、胸が少し軽くなった。間に合う。今度は逃げない。今度こそ、帰る。そのとき、電車が急に止まった。車内アナウンスが流れる。

「ただいま前方の駅で発生した人身事故の影響により、この電車はしばらく停車いたします」

 車内にため息が広がった。悠一の時計は五時二十三分を指していた。胸の奥がざわつく。隣の会社員がスマートフォンを見ながら舌打ちした。

「最悪だな」

 悠一もスマートフォンで乗り換えを調べた。別路線を使えば帰れるかもしれない。だが、この駅で降りてもバス停まで歩く必要がある。タクシーは捕まらないかもしれない。

 落ち着け。まだ間に合う。

 そう思った瞬間、車内の照明が一度だけちらついた。窓に映った自分の顔が、別の顔になった。

佐伯悠一。

 御堂圭吾。

 森下誠二。

 長谷川通。

 そして、花澤直人。

 いくつもの顔が重なり、どれも自分ではないように見えた。悠一は目を閉じた。

 やめろ。

 今は帰るんだ。

 この人生では、帰るんだ。

 スマートフォンが震えた。真帆からの着信だった。

「もしもし」

「直人、今どこ?」

「電車が止まってる。でも何とか帰る」

「無理しなくていいよ」

「いや、帰る」

「本当に?」

 真帆の声が少し震えていた。

「莉子、寝ちゃった」

 悠一は言葉を失った。

「でもね、寝る前に言ってた」

 真帆は続けた。

「パパ、また来なかったねって」

 その言葉が、悠一の胸を貫いた。また来なかったと、この人生でも言われてしまうのか。愛されている人でも、その言葉は付きまとうものなのか。そして、莉子はそんなことを言う子だったのかとさえ思った。いや、花澤直人は過去にも何度か約束を破っているじゃないか。

 今日は仕事で遅くなる。

 今は疲れている。

 今度行こう。

 また遊ぼう。

 次は読むよ。

 その記憶が、後から流れ込んできた。

 この人生も、初めから完璧ではなく、すでに何度も小さな失望を積み重ねていた。

「ごめん」

 悠一は言った。

「明日、ちゃんと…」

 そこで言葉が止まった。また言い訳を吐いてしまいそうになったが、代わりの言葉が出てこなかった。真帆はしばらく電話の向こうで黙っていたが、やがて、静かに言った。

「直人ってさ」

「うん」

「優しいんだけど、肝心なときにいないよね」

 電話が切れた。悠一はスマートフォンを握ったまま、動けなかった。それは、佐伯悠一のことだった。御堂圭吾でも、森下誠二でも、長谷川通でもあった。そして、花澤直人のことでもあった。結局、どこへ行っても同じだった。人に必要とされると逃げ、責任が来ると言い訳を探し、誰かが泣いていると、扉の前で立ち止まる。

 そして、別の人生を欲しがる。

 電車はまだ動かない。悠一は待ちきれず立ち上がった。だが、ドアは開かず、車内に閉じ込められている。そのとき、連結部分の向こうに、黒い引き戸が見えた。

 ありえない。電車の中に、木枠の古い引き戸がある。黒い看板に白い文字がある。

 ゆうらん堂

 悠一は息を荒くした。

「今じゃない」

 小さく言った。

「今は帰るんだ」

 引き戸の向こうから、店主の声がした。

「本当ですか?」

 悠一は周囲を見た。乗客たちは誰も気づいていない。彼らは顔色ひとつ変えず、スマートフォンを見ている。この引き戸は、自分にしか見えていない。

「今度は帰る」

 悠一は言った。

「帰って、謝る」

「素晴らしいですね」

 店主の声は穏やかだった。

「では、どうぞ。お帰りください」

 しかし、電車のドアは閉まっており、今は帰る方法がない。悠一は歯を食いしばった。

「開けろ」

「どちらを?」

「電車のドアだ」

「それは私の店ではございません」

「ふざけるな」

「ふざけてなどおりません。私が開けられる扉は、自分の店の扉だけですよ」

 悠一は黒い引き戸を睨んだ。

違う。今度は入らない。今度は逃げない。

 そう思った。思ったはずだった。スマートフォンがまた震え、画面に通知が表示された。

 莉子:パパ、ばいばい

 悠一の手からスマートフォンが滑り落ちた。五歳の子どもが、こんなメッセージを送るはずがない。だが、その言葉が、莉子の声で車内に響いた気がした。悠一は耳をふさいだ。

 違う。これは莉子じゃない。これはあの店のせいだ。あの店が、自分を追い込んでいる。自分は悪くない、電車が動かないのが悪い、事故が悪い、仕事が悪い、タイミングが悪い。自分は帰ろうとしたんだ。今回は帰ろうとした。だから、自分は悪くない。

 その瞬間、悠一は気づいた。自分はまた、理由を探している。帰れなかった理由や約束を守れなかった理由を。悠一にはいつも理由だけはあった。理由があるから仕方ない。仕方ないから自分は悪くない。そうやって、何度も同じ場所に戻ってきた。

 からん。

 鈴の音がした。引き戸が、少しだけ開いた。暖かい光が漏れる。悠一は動かなかった。動かなかったが、足は震えていた。店主の声がした。

「お入りになりますか」

「……入らない」

「そうですか」

「帰る」

「よろしいですね」

「帰って、謝る」

「人として正しいと思います」

「だから、そこをどけ」

「私はあなたの邪魔などしておりません」

 引き戸の向こうで、店主が微笑んでいる気配がした。

「選ぶのは、いつもお客様です」

 悠一はスマートフォンを拾った。画面には、もう莉子からのメッセージはなかった。代わりに、真帆からのメッセージが表示されていた。

 今日はもう大丈夫。

 無理しないで。

 悠一は涙が出そうになった。いや、泣いてなどいない。泣く資格など、悠一にはなかった。

「運転再開には、なお時間を要する見込みです」

 電車のアナウンスが流れ、客たちが一斉にため息をついた。悠一は黒い引き戸を見た。

 この人生は、まだ終わっていない。帰れなくても、電話はできる。謝ることはできる。明日の朝、ちゃんと帰って、莉子の隣に座ることもできる。真帆に、自分が怖かったと話すこともできる。直人として、この人生を続けることはできる。

 できるはずだった。

 だが、悠一の中に別の声がした。

 もう遅い。もう失敗した。この人生も傷がついたぞ。きれいなままの人生ではなくなったんだ。だったら、次へ行けばいいじゃないか。次なら、最初からやり直せる。次なら、失敗する前に選べる。

悠一はゆっくりと立ち上がった。

「次は」

 声がかすれた。

「次は、最初から間違えない人生がいい」

 引き戸の向こうで、店主が答えた。

「最初から間違えない人生ですか」

「ああ」

「それは、なかなか人気がございます」

「あるんだろ」

「ございます。ただし」

「ただし?」

「間違えない人生ほど、少しの間違いが目立ちますよ」

 悠一は笑った。乾いた笑いだった。

「何でもいい」

「よろしいのですか?もう少しお考えになられたほうが…」

「何でもいいから、今よりましなやつをくれ」

 店主は少し黙った。その沈黙は、これまでより長かった。やがて、穏やかな声がした。

「承知しました」

 引き戸が開く。悠一は一歩踏み出した。そのとき、背後で電車のドアが開く音がした。プシュー、と空気の抜ける音。先ほどまでは線路内で停車していたはずの電車が、振り返ると駅に着いていた。乗客たちが立ち上がり、ホームへ降りていく。

 帰れる。今なら、まだ帰れる。

 悠一はホームを見た。この先に、莉子と真帆のいる家がある。

 たぶん、まだ間に合う。

 少なくとも、戻ろうとすることはできる。

「パパ」

 ホームの向こうで声がした。なぜか家で寝ているはずの莉子が立っていた。パジャマ姿で、ウサギのぬいぐるみを抱えている。そんなはずはないのだ。しかし、確かにそこにいた。莉子は泣いてはいなかった。ただ、静かに手を振っていた。

「ばいばい」

 悠一は足を止めた。胸の奥で、何かが壊れそうになった。

 戻れ。今すぐ戻れ。

 そう思ったが、身体は前へ進んだ。ホームではなく、黒い引き戸の中へ。

 からん、と鈴が鳴った。

 扉が閉まる直前、莉子の声が聞こえた。

「パパ、また間に合わなかったね」

 悠一は振り返らなかった。振り返れば、もう二度と次の人生へ行けない気がしたからだ。

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