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記憶ばいばい  作者: 紙とペン


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第4章 責任のない朝

 次の朝は、音がしなかった。鳥の声や車の音がない。人の気配もない。ただ、あるのは白い天井だけだった。悠一は目を開けたまま、しばらく動かなかった。天井は見覚えのない白さだった。病院のようでもあり、ホテルのようでもある。染みや木目はなく、無機質で、清潔で、誰の生活も感じられない天井だった。身体の下には、柔らかいベッドがある。だが、御堂圭吾のときのような高級な寝具とは違う。もっと軽く、もっと安っぽい。泊まり慣れていないビジネスホテルのベッドのようだった。

悠一はゆっくり身を起こした。部屋は狭かった。部屋に置いてある家具としてはシングルベッド、小さな机、一脚の椅子、壁掛けテレビくらいだ。窓際に空のペットボトルが一本あり、床には黒いキャリーケースが置かれている。

 窓を開けると、外は見知らぬ町だった。空は曇っていた。駅前のロータリーや背の低いビル、コンビニ、立体駐車場が見える。悠一は今、ビジネスホテルに泊まっているようだ。

 自分は誰だ。そう思った瞬間、いつものように記憶が流れ込んできた。名前は、長谷川通。四十五歳の独身で、フリーの営業代行が職業である。特定の会社には属しておらず、各地を回り、中小企業向けにシステムや保険や求人広告を売る。契約が取れればそれが自分の収入になる。取れなければ何もない。家もない。いや、正確にはある。

 住民票上の住所は、埼玉の古いアパートだ。だがほとんど帰らない。出張先のホテルを転々とし、そのホテル周辺の居酒屋で夕食を済ませ、翌朝にはまた別の町へ行く。

 妻はいない。子どももいない。部下も上司もいない。親しい友人すら、ほとんどいない。誰にも責められない人生を過ごしていた。悠一はベッドの端に座り、両手を見た。大きな手だった。爪は短く切られている。指先には少しささくれがある。手の甲には薄い傷が一本あった。

この身体には、誰かに期待されている重さがなかった。妻のために帰る必要もない。子どもの面談に行く必要もない。会社の社員を守る必要もない。図書館に来る子どもを助ける必要もない。誰かが泣いていても、自分とは関係ない。誰かが失望しても、自分には向けられない。

「これでいい」

 悠一は言った。声は少しかすれていた。

「こういうのでいいんだ」

 洗面所で顔を洗う。鏡に映った長谷川通は、どこにでもいそうな男だった。御堂圭吾のような華やかさはない。森下誠二のような穏やかさもない。佐伯悠一ほど家庭に疲れている顔でもない。中肉中背で短い髪に少しだけ笑い慣れた口元がある。しかし、目は笑っていない。営業相手に合わせるための顔だった。机の上のスマートフォンが震えた。画面には、取引先の名前が表示されている。身体が勝手に電話を取った。

「お世話になっております。長谷川です」

 声が変わった。さっきまでのかすれた声ではない。明るく、軽く、相手に警戒させない声。

「はい、本日十時ですね。もちろん伺います。ええ、資料も最新版に差し替えておりますので」

 電話を切ると、頭の中に予定が浮かんだ。十時に地元の印刷会社で営業支援システムの提案がある。十三時には駅前の喫茶店で別会社の担当者と商談の予定だ。十五時には新規開拓で三件訪問しよう。十八時には次の町へ移動しておき、夜は別のホテルで過ごす。そして明日もまた商談だ。そう、それだけだ。それ以上のものはない。

 悠一はスーツに着替えた。ネクタイを締め、革靴を履き、キャリーケースから資料を取り出す。動きに無駄がない。この生活に慣れ切っているのだ。ホテルを出ると、駅前の空気は湿っていた。誰も自分を見ていない。それが今の悠一には心地よかった。

御堂圭吾のときは、どこへ行っても人の視線があった。期待や緊張や評価や計算があった。森下誠二のときは、町の人が名前を呼んだ。穏やかではあったが、そこには小さな関係があった。

 今は違う。誰も長谷川透を知らない。どこへ行っても通り過ぎるだけの男だ。間違えても、嫌われても、その町を出れば終わる。責任のない朝だ。悠一は初めて、少しだけ息がしやすいと思った。

 商談はうまくいった。印刷会社の社長は六十代の男で、最初は渋い顔をしていたが、悠一が資料を広げて話し始めると、次第に身を乗り出して聞いていた。

「つまり、今まで手書きでやっていた顧客管理が全部見える化できます」

「うちみたいな小さい会社でも?」

「むしろ小さい会社ほど効果があります。社長が全部覚えておられる状態は、強みでもありますが、同時にリスクです」

「なるほどね」

 言葉が自然にぽんぽんと出てくる。相手の表情を読み、声の調子を変え、少し笑わせ、少し不安にさせ、最後に希望を見せる。御堂圭吾のように人を支配する力ではない。森下誠二のように静かに寄り添う力でもない。長谷川通の力は、人の隙間に入り込むことだった。

「検討するよ」

 社長は言った。営業における「検討する」は、たいてい断り文句だ。そんなことは長谷川通にとっては当然ながらお見通しだったようだ。悠一の口は勝手に動いた。

「ありがとうございます。では、検討しやすいように二パターンだけお見積もりを出します。社長が決めやすい形にして、明日の午前中にお送りしますね」

「早いね」

「迷う時間がもったいないですから」

 社長は笑った。

「長谷川さん、営業うまいね」

「よく言われます」

 悠一は笑った。その笑顔が、自分のものではないようで、少し気味が悪かった。

商談の帰り、駅前の喫茶店に入った。次の約束まで一時間の余裕がある。悠一は窓際の席に座り、コーヒーを注文した。隣の席では、若い母親が小さな女の子にパンケーキを食べさせていた。女の子はフォークをうまく使えず、クリームを頬につけている。

「ほら、口の横」

 母親が笑う。女の子も笑う。悠一は思わず視線をそらした。家族を見ると、胸がざわつく。佐伯悠一の記憶が残っているのか。それとも、どの人生にも家族というものはついて回るのか。スマートフォンを見ると通知は仕事関係ばかりだった。未読のメッセージがいくつかある。その中に、一件だけ妙なものがあった。

 件名:おとうさんへ

 差出人は空欄だった。悠一は眉をひそめた。迷惑メールかと思いながらも開く。本文は一行だけだった。

 今日は来る?

 悠一は画面を見つめた。誰からだ。長谷川通に子どもはいないはずだ。妻もいない。それなのに、なぜだ。その瞬間、スマートフォンの画面が一瞬だけ暗くなった。黒い画面に、自分の顔が映る。だがそこに映っていたのは、長谷川通ではなかった。疲れた中年の男、佐伯悠一の顔だった。悠一は思わずスマートフォンを伏せた。心臓が速くなっていた。

「お客様」

 店員の声に顔を上げる。

「コーヒーをお持ちしました」

「あ、はい」

 カップが悠一の前に置かれる。長谷川通は疲れているんだ。そう思った。それかこれは前の記憶の残りなのか。あの店の影響か。いずれにしても長谷川通の人生には何の問題もない。

 誰にも責められない。

 誰にも期待されない。

 自由そのものだ。

 午後の商談相手は、求人広告会社の若い担当者だった。名前は相馬という二十八歳の男性だった。少し頼りなさそうな様子のその男は、喫茶店の奥の席で悠一に何度も頭を下げた。

「すみません、長谷川さん。本当は上司も来る予定だったんですが、急な会議で」

「大丈夫ですよ」

「僕だけだと、決められることが少ないんですよ」

「決める必要はありませんよ。今日は情報交換だけにしておきましょう」

 悠一は自然に笑った。相馬はほっとした顔を見せた。この男は断れないタイプだ、押せばいけると、長谷川通の頭がそう判断した。悠一はその判断に従い、柔らかい言葉で相手の不安をほどきながら、少しずつ契約の方向へ誘導した。

「相馬さん、上司に説明するときに一番困るのは、今の広告では一目で効果が見えにくいことですよね」

「そうなんです」

「なら、上司の方が気にされる数字を先にこちらで作ります」

「え、そこまでしていただけるんですか」

「もちろんです。相馬さんが社内で通しやすい形にします」

「助かります」

 相馬は本当に嬉しそうだった。その顔を見て、悠一は少しだけ気分がよくなったが、その直後に長谷川通の記憶が冷たく囁いた。通しやすい形にしてやれば、相手は断りにくくなる。親切に見えるものほど、よく効くんだ。悠一の笑顔がほんの少し固まったが、相馬は気づかなかった。

「長谷川さんって、いい人ですね」

 その言葉は、なぜかひどく薄っぺらく聞こえた。

 夕方、予定していた三件の新規訪問のうち、二件は不在だった。最後の一件は、町外れの小さな工務店だった。入口のガラス戸に「営業お断り」と貼られている。悠一は一度通り過ぎようとした。だが長谷川通の記憶が言った。

 こういう店ほど、入ってみる価値がある。断られても失うものはない。

 悠一はガラス戸を開けた。

「すみません」

 奥から、年配の女性が顔を出した。

「はい?」

「突然失礼します。長谷川と申します。今日は地域の工務店様向けに――」

「営業なら結構です」

「一分だけで構いません」

「本当に結構です」

 女性は困った顔をした。その顔を見た瞬間、悠一は引くべきだと思った。迷惑がられているのは明らかだから、ここで帰るのが普通だ。だが長谷川通の口は止まらなかった。

「承知しました。ただ、最近は職人さんの採用でお困りの会社様が多くてですね。もし今は必要なくても、情報だけでも…」

「困ります」

 女性の声が少し強くなった。

「今、主人が入院していて、店もほとんど閉めているんです。すみませんけどお引き取り願えますか」

 長谷川通はようやく黙った。店の奥を見ると、机の上に薬袋が置かれていた。壁には家族写真が飾られている。作業着姿の男、女性、そして小さな男の子が映っている。その男の子の顔に、見覚えがあった。

黄色い傘の子だ。いや、違う。写真の子はもっと幼い。だが、目が似ていた。助けて、と図鑑に書いた子どもに。

「それはどうもすみませんでした」

 悠一は頭を下げ、店を出た。外へ出ると、雨が降り始めていた。駅へ向かう道の途中、悠一は何度も後ろを振り返った。あの女性に、もう少し何か言うべきだったのではないか。大丈夫ですか、何か手伝えることはありますか、と。いや、そんなことをしてどうする。自分は通りすがりの営業だ。この町からは明日にはいなくなる。親切のふりをして関わる方が無責任だ。だからこれでいい。そう言い聞かせた。

 夜、次の町へ向かう電車に乗った。車内は空いていた。悠一は窓際に座り、暗い外を眺めた。雨粒が窓を流れていく。車内アナウンスが、知らない駅名を告げる。この人生は移動する人生だった。どこにも留まらず、誰にも深く関わらない。関係が面倒になる前に、次の町へ行く。嫌なことがあっても、翌日には別の景色になる。なんて楽なんだろう。

 そう思った。思ったはずなのに、胸の奥は少しも楽ではなかった。スマートフォンが震え、またメールが届いた。

 件名:おとうさんへ

 本文は、今度は少し長かった。

 今日も来なかったね。でも、ぼくはたぶん大丈夫。強いやつは泣かないから。

 悠一はスマートフォンを握りしめた。喉が乾いた。窓の外を見ると雨の向こうに、黒い商店街が一瞬だけ見えた。古いアーケードに閉まったシャッターが立ち並び、その中にひとつだけ明かりのついた店がある。黒い看板に白い文字が書かれていた。

 ゆうらん堂。

 しかし、対向の電車が通り過ぎると、もう何もなかった。ただ暗い田んぼと、遠くの街灯だけが流れていく。

「やめろ」

 悠一は小さく呟いた。

「もう、やめろ」

 隣の席の老女が不審な顔で、ちらりと悠一を見た。悠一は黙った。次の駅で、老女が降りた。車内には、悠一のほかに数人しかいなかった。そのとき、向かいの席に男が座っていることに気づいた。一体いつからいたのか分からない。黒いスーツを着た、痩せた男だった。顔は伏せていて見えない。膝の上に古い紙袋を置いている。紙袋には、白い文字でこう書かれていた。

 きおく、かえます、うれます

 悠一は息を止めた。男がゆっくり顔を上げる。その顔は、佐伯悠一だった。いや、違う。御堂圭吾でもあった。森下誠二でもあった。長谷川通でもあった。どの顔にも見え、どの顔でもなかった。男は、口元だけで笑った。

「次は、どんな人生にしますか」

 声は店主のものだった。悠一は立ち上がった。

「なんなんだ、これは」

 車内の数人が驚いて悠一を見る。だが向かいの席には、もう誰もいなかった。紙袋もなくなっていた。悠一は荒い息を吐きながら、座席に座り直した。頭がおかしくなっているんだ。記憶が混ざっている。自分が誰なのか、分からなくなってきている。

 いや、まだ分かる。今は長谷川通だ。佐伯悠一ではない。御堂圭吾でも、森下誠二でもない。長谷川通なんだ。誰にも責められず、自由な男だ。

 電車が次の駅に着いた。長谷川通は降りる予定ではなかった。だが、ホームに立つ看板を見て、身体が勝手に動いた。駅名標に、こう書かれていた。

 佐伯

 そんな駅名があるはずはない。少なくとも、この路線にそんな駅はなかった。そしてここで降りてはいけないと思った。ドアが閉まり、電車が動き出す。その瞬間、ホームのベンチに小さな男の子が座っているのが見えた。顔は分からないが、黄色い傘を抱えていた。航太だ。いや、陸かもしれない。図書館の男の子かもしれない。助けを求めるすべての子どもが、同じ顔でそこにいた。電車がホームを離れていく。男の子は動かず、雨の中にひとりで座っている。

 悠一は窓に手をついた。胸の奥で何かが叫んだ。降りるべきだった。戻れ。今なら間に合う。だが電車は走り続けた。悠一は窓に映る自分の顔を見た。長谷川通の顔が、少しずつぼやけている。その奥に、佐伯悠一の顔が重なっていた。

 ホテルに着いたのは、夜十時を過ぎてからだった。駅前の小さなビジネスホテルのフロントで名前を書こうとした。

 長谷川通。

 そう書こうとして、手が止まった。ペン先が紙の上で震える。自分の名前は何だったか。長谷川通でよかったか。そうだ。長谷川通だ。そう書いたつもりだった。だが、宿泊カードには別の文字が並んでいた。

佐伯悠一。

 悠一は慌てて書き直そうとしたが、フロントの男性は特に気にする様子はなかった。

「お部屋は七〇六号室です」

「……ありがとうございます」

 鍵を受け取り、エレベーターに乗る。七階で降りると廊下は長く、誰もいなかった。七〇六号室に鍵を差し込もうとして、悠一は気づいた。隣の部屋の扉に、小さな黒い札がかかっている。

 ゆうらん堂

 悠一は目を閉じた。

来た。また来た。この人生も、もう終わりなのか。いや、違う。終わらせるのは自分だ。自分が選ぶのだ。この人生は悪くなかった。悪くなかったが、自分には違った。誰にも責められない人生は、誰にも覚えられない人生だった。人と関わらなければ傷つかない。けれど、人と関わらなければ、自分がここにいた証も残らない。

それが怖かった。悠一は黒い札のかかった扉を見つめた。中から、店主の声がした。

「お入りになりますか」

「……次は」

 悠一は言った。

「次は、ちゃんと誰かに愛される人生がいい」

 扉の向こうで、瓶が鳴った。からん。からん。

「誰かに愛される人生ですか」

 店主が繰り返した。

「はい。ございます」

「家族がいて、友人がいて、誰かが自分を必要としていて、でも重すぎない人生だ」

「承知しました」

「今度こそ、普通でいい」

「普通、ですか?」

 店主の声が、少しだけ笑ったように聞こえた。

「普通ほど、扱いの難しいものはありませんよ」

「いいから開けろ」

 悠一は乱暴に言った。扉が、内側から開いた。暖かい光が漏れ、その光の奥で、店主が立っていた。黒い服に丸い眼鏡に穏やかな笑顔だ。

「お帰りなさいませ」

 悠一は部屋に入ろうとした。そのとき、廊下の向こうから声がした。

「お父さん」

 悠一は振り返った。しかし、誰もいなかった。ただ、ホテルの長い廊下が続いているだけである。それでも声はもう一度聞こえた。

「今日は、来てくれる?」

 悠一の手が震えた。扉の奥の店主が言った。

「どうされますか?」

 悠一は目を閉じた。この声に応えれば、また責任が始まる。期待が始まる。失望が始まる。自分が間違えたことを認めなければならなくなる。それは嫌だった。悠一は店の中へ足を踏み入れた。からん、と鈴が鳴った。扉が閉まる直前、廊下の突き当たりに、小さな影が立っているのが見えた。黄色い傘を持った子どもだった。その顔は暗くて見えなかったが、ただ、手だけがこちらへ伸びていた。

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