第3章 穏やかな朝
次に目を開けたとき、窓の外で鳥が鳴いていた。甲高い声ではない。細く、短く、控えめな鳴き声だった。ちち、ちち、と、ためらうように朝を告げている。
悠一は布団の中で、しばらく動かなかった。天井は低かった。木目の見える古い天井だった。蛍光灯の紐が垂れている。壁には小さな染みがあり、窓際には洗濯物を干すための丸い金具がついていた。畳の匂いがする。どこか懐かしい、湿った家の匂いだった。
高層マンションではない。ガラス張りの寝室でもない。ふかふかのマットレスでもない。身体の下にあるのは、少し薄い敷布団だった。悠一はゆっくり起き上がった。身体が軽い。若いわけではなく、腕には年相応の筋があり、手の甲には細かい皺がある。だが、御堂圭吾の身体にあった張りつめた重さがない。肩に力が入っていない。
枕元には古い目覚まし時計があった。午前六時八分。横には、眼鏡と文庫本が置いてある。表紙は日に焼けて、端が少し丸まっていた。
自分は誰だ。そう思った瞬間、記憶がゆっくりと流れ込んできた。名前は、森下誠二。四十八歳で地方都市の小さな図書館で働いている。妻や子どもはおらず、町外れの古い平屋でひとりで暮らしている。派手な経歴はないが、大きな失敗もない。高校を出て、市の臨時職員になり、そのまま図書館に勤めるようになった。両親はすでに他界しており、友人は数人のみである。酒は弱く、普段は絶対に口にしない。趣味は読書と散歩で月に一度、近所の喫茶店でカレーを食べる。
穏やかな人生だった。あまりにも穏やかで、記憶が流れ込んできても、ほとんど波が立たなかった。
「……これだ」
悠一は小さく呟いた。今度こそ、これでいい。金も地位も名誉もいらない。誰かに頭を下げることもない。誰かを切り捨てることもない。子どもの泣き声から逃げることもない。家庭で軽く見られることも、職場で無能扱いされることもない。
ただ静かに生きる。穏やかに暮らす。
これこそ、自分に合った人生なのかもしれない。台所へ行くと、小さな食卓に急須と湯呑みが置いてあった。冷蔵庫を開けると卵、納豆、豆腐、味噌、昨夜の残りらしい煮物が残っていた。身体が勝手に動き、小鍋に味噌汁を温め、卵を焼き、茶碗にご飯をよそう。手際はよくないが、慣れている。誰かに見せるためではない朝食である。褒められることも責められることもない。ひとりで「いただきます」と言った。味噌汁は少し薄かったが、それでも悪くなかった。食後、歯を磨いて着替えた。洗面台の鏡には、地味な男が映っていた。御堂圭吾のような鋭さはない。佐伯悠一のような疲れも、少しはあるが、もっと柔らかい。目元に深い皺があり、髪はほとんど白い。笑えば人のよさそうな顔になるだろう。
ただ、その顔には、強い印象がなかった。誰かの記憶に残る顔ではない。そのことに、悠一は少し安心したのだ。もう誰かの中心にならなくていい。誰かに期待されなくていい。誰かをがっかりさせなくていい。玄関を出ると、朝の空気は冷たかった。家の前の細い道には、まだ人影が少ない。隣の家の庭に、濡れた紫陽花が咲いている。遠くで犬が吠えた。空は薄く曇っていて、日差しは弱い。駅まで歩く必要はない。図書館までは徒歩十五分の距離だ。商店街を抜け、小さな橋を渡り、市役所の隣にある低い建物へ向かう。その道のりまで、記憶が身体に染みついていた。角を曲がると、八百屋の主人が声をかけてきた。
「森下さん、おはよう」
「おはようございます」
「今日、雨降るらしいよ」
「そうですか。傘、持ってくればよかった」
「帰り、ひどかったら貸すよ」
「ありがとうございます」
たったそれだけの会話だった。けれど、胸の奥が少し温かくなった。自分が町の一部になっている。誰からも特別扱いされないが、いないものとしても扱われていない。名前を呼ばれる。天気の話をする。傘を貸すと言われる。それだけで、人は生きていけるのかもしれない。
図書館は古かった。自動ドアは少し遅れて開き、床にはワックスの匂いが残っている。入り口の横には返却ポストがあり、受付カウンターの奥には事務室がある。壁には児童書コーナーの案内と、今月の展示「雨の日に読みたい本」が貼られている。
「おはようございます、森下さん」
名前は沢井千尋。二十七歳の女性職員であり、去年から図書館で働いている。明るくて、よく気がつく。森下誠二に対しては、先輩として信頼している。ただし、それ以上ではない。その記憶も、自然に分かった。
「おはようございます」
悠一は答えた。
「昨日の返却本、結構多いです」
「分かりました。先にそっちをやります」
「助かります」
沢井は笑った。その笑顔に、悠一は少しだけ救われた気がした。
頼られている。ただし、御堂圭吾のように会社全体の未来を背負う頼られ方ではない。返却本を棚に戻す。利用者に本の場所を教える。子どもが落とした絵本を拾う。そういう、小さな頼られ方だった。それが心地よかった。
午前中、悠一は返却された本を台車に載せ、番号順に棚へ戻していった。文学や歴史、料理、医学、育児、旅行、詩集、資格試験といった本の数々である。人の人生が、棚に並んでいるようだった。本を戻しながら、悠一はふと思った。この人生なら、誰も傷つけずに済む。誰にも迷惑をかけず、静かに日々を送れる。成功者である必要などなかった。家族を持つ必要もなかった。ただ、自分ひとりで穏やかに生きる。それで十分だったのだ。
昼前、小学生の男の子がカウンターにやって来た。黄色い傘を持っている。低学年だろう。頬に絆創膏を貼っていた。
「あの」
男の子は小さな声で言った。
「恐竜の本、どこですか」
「恐竜ですね」
悠一は立ち上がった。
「案内します」
児童書コーナーへ向かう途中、男の子は何度も後ろを振り返った。ひとりで来たのだろうか。平日の昼前に小学生が図書館にいることに、少し違和感があった。
「今日は学校、お休みですか」
悠一が聞くと、男の子は首を横に振った。
「早退」
「体調が悪い?」
「ちょっと」
男の子はそれ以上言わなかった。恐竜の棚に着くと、彼は背表紙をじっと見た。
「強いやつがいい」
「ティラノサウルスがいいね」
「うん。強いやつ」
悠一は図鑑を一冊取って渡した。男の子は受け取ると、床に座り込んでページを開いた。
「ここで読みますか?」
男の子はうなずいた。悠一はその場を離れようとしたとき、男の子が言った。
「強かったら、泣かなくていい?」
悠一は足を止めた。
「え?」
「強かったら、誰にも言わなくていい?」
男の子は図鑑を見たままだった。悠一は返事に迷った。学校で何かあったのかもしれない。家で何かあるのかもしれない。頬の絆創膏と平日の早退と強いやつがいい、という言葉からは何か事情があるのは確かだ。そこで声をかけるべきだった。児童相談所、学校、保護者、図書館の職員としての対応がある。森下誠二の記憶の中に、そういうマニュアルも少しだけあった。けれど悠一は、同時に怖くなった。関われば、面倒になる。穏やかな人生が壊れる。これは自分の問題ではない。自分はただ図書館の職員で、子どもに本の場所を教えただけだ。
「泣いてもいいと思いますよ」
悠一は、無難な声で言った。男の子は何も答えなかった。悠一はカウンターに戻った。戻りながら、自分の足音が妙に大きく聞こえた。
午後、雨が降り出した。図書館の窓を細い雨粒が伝っていく。利用者は少なく、館内は静かだった。沢井が展示コーナーの本を並べ替え、年配の男性が新聞を読んでいる。児童書コーナーでは、さっきの男の子がまだ恐竜図鑑を見ていた。悠一は何度かそちらを見た。声をかけようか。学校に連絡した方がいいのか。いや、すでに早退しているなら、学校は知っているはずだ。保護者が迎えに来るかもしれない。余計なことをして、問題になったらどうする。
穏やかに生きる。それがこの人生の目的だ。そう言い聞かせた。
閉館一時間前、男の子はいなくなっていた。恐竜図鑑だけが、机の上に開いたまま置かれていた。悠一は本を手に取った。開かれていたページには、ティラノサウルスの絵が描かれている。その下に、小さな鉛筆の文字があった。
たすけて
悠一は息を止めた。文字は薄かった。子どもの字だった。慌てて周囲を見回す。男の子はいない。入口にも、トイレにも、閲覧席にもいない。悠一はカウンターへ戻った。
「沢井さん、さっきの男の子、帰りましたか」
「男の子?」
「恐竜の本を読んでいた子です」
「ああ、黄色い傘の子ですか。たぶん出ていきましたよ。十分くらい前に」
「ひとりで?」
「そこまでは……」
沢井は悠一の顔を見て、表情を変えた。
「何かありました?」
悠一は図鑑を見せようとした。しかし、開いたページに、もう文字はなかった。鉛筆の跡すらない。
たすけて。
確かにそう書いていた。自分は見たはずだった。悠一はページを指でこすってみた。紙は乾いている。何も書かれていない。
「森下さん?」
「いえ……何でもありません」
悠一は図鑑を閉じた。胸の奥が冷たくなっていた。
その夜、悠一はひとりで夕食を食べた。
冷蔵庫にあった豆腐と、スーパーで買った総菜のコロッケを食べる。テレビをつけると、地方ニュースが流れていた。市議会の話や駅前再開発の話や県内の高校野球の結果が流れている。
平和だった。どこまでも平和だった。けれど箸が進まなかった。黄色い傘と頬の絆創膏が頭にこびりついたままだ。
強かったら、誰にも言わなくていい?そして、図鑑のページにあった文字も悠一を離してはくれない。
たすけて。
悠一はテレビを消した。部屋が静かになった。静かすぎた。この人生には、誰も帰ってこない。誰も「ただいま」と言わない。誰も泣かない。誰も怒らない。誰も期待しない。楽なはずだった。穏やかなはずだった。なのに、胸の奥が空っぽだった。
玄関のチャイムが鳴った。悠一はびくりとした。時計を見ると午後八時四十三分である。こんな時間に誰だろう。そっと玄関へ向かい、覗き穴を見た。誰もいない。ドアを開けると雨の匂いが入ってきた。玄関先に、黄色い傘が立てかけられていた。小学生用の、小さな傘だった。
悠一は息を飲んだ。傘の柄には、油性ペンで名前が書かれている。
さえき こうた
悠一は、その文字を見つめた。佐伯航太。自分の息子の名前じゃないか。いや、ここでは違う。この人生に、航太はいない。森下誠二に子どもはいない。家族はいないはずだ。
それなのに、なぜだ。悠一は傘に触れた。雨に濡れており、冷たかった。その瞬間、耳元で子どもの声がした。
「お父さんは、起こすだけじゃん」
悠一は振り返った。誰もいない。家の中は暗い。畳の部屋と低い天井、画面が消されたテレビや食べかけのコロッケが見える。
すべてが静かだった。静かすぎて、息が詰まりそうだった。悠一は傘を玄関の外へ置き直し、ドアを閉めた。鍵をかけた。チェーンもかけた。それから、背中をドアに預けて座り込んだ。
どうしてだ。どうして、どの人生にも同じものがついてくる。家庭が嫌だった。仕事が嫌だった。成功者になれば救われると思った。でも成功者の人生にも、泣いている子どもがいた。だから穏やかな人生を選んだ。誰にも迷惑をかけず、誰にも関わらず、静かに生きればいいと思った。でも今度は、助けを求める子どもを見て見ぬふりをした。結局、自分はどこへ行っても同じことをしているのか。
その考えを、悠一はすぐに打ち消した。違う。これは記憶の副作用だ。前の人生の断片が混ざっているだけだ。あの店が、何かを間違えたのだ。自分が悪いわけではない。自分はまだ、ちゃんとした人生を選べていないだけだ。もっと自分に合う記憶があるはずだ。もっと、何も後悔しなくて済む人生が。
そのとき、台所の方から音がした。
からん。
からん。
聞き覚えのある鈴の音だ。悠一は顔を上げた。台所の奥に、黒い引き戸があった。さっきまではなかった古い木枠のドアに黒い看板があり、白い文字が書かれている。
ゆうらん堂
悠一は立ち上がった。足が勝手にそちらへ向かう。引き戸の前まで来ると、向こう側から店主の声がした。
「お疲れさまでした」
悠一は奥歯を噛んだ。
「疲れてなんかいない」
「そうですか」
「この人生は悪くなかった」
「ええ。穏やかな記憶でしたね」
「でも、自分には合わなかった」
「そのようですね」
店主の声は、責めているわけではなかった。それが余計に腹立たしかった。
「もっと別のものがあるはずだ」
「もちろん、ございます」
「誰にも迷惑をかけず、誰からも責められず、でも空っぽじゃない人生だ」
店主は少し黙った。その沈黙の奥で、瓶の触れ合う音がした。
「ずいぶん難しいご注文ですね」
「できないのか」
「できますよ」
「なら、それをくれ」
「本当によろしいですか」
悠一は答えなかった。その代わり、引き戸に手をかけた。そのとき、玄関の外で何かが倒れる音がした。
かたん。
黄色い傘が落ちたのか。悠一は振り返った。ドアの向こうから、雨音が聞こえる。たぶん傘が風で倒れただけだ。それだけだ。外を見に行く必要はない。見に行けば、また何かを見てしまう。誰かの泣き顔や誰かの助けを求める声や誰かの期待を。そういうものを見れば、また自分は責められる。悠一は玄関に背を向けた。
「次だ」
そう言って、引き戸を開けた。店内の暖かい光が、畳の部屋に流れ込んだ。からん、と鈴が鳴り、悠一は中へ入った。すると玄関の戸がゆっくりと開いた。玄関先にあったはずの黄色い傘が入ってくる。小さな手が、傘の柄を握っていた。
けれど悠一は、もう振り返らなかった。




