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記憶ばいばい  作者: 紙とペン


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第2章 成功者の朝

 目覚めた瞬間、最初に見えたのは空だった。そして天井まで届く大きな窓がある。そこに映り込んだ朝の光が、寝室全体を青白く染めていた。カーテンは半分だけ開いていて、その向こうに東京の街が広がっている。高層ビルの群れに車の列がある。遠くには川が流れているのが見え、雲の影を受けて街全体が静かに呼吸しているようだった。

 その男は、ベッドの上で身を起こした。マットレスは雲の上で寝ているかのような柔軟さであり、白いシーツは高級ホテルのように張りがある。枕元には黒いスマートフォンが二台、腕時計が三本、銀色の眼鏡、読みかけのビジネス書が置かれていた。

 その部屋に充満する上品な匂いや鍛え抜かれた身体については身に覚えがないはずだった。しかし、知らないはずのものが、すぐに分かる感覚があった。この部屋は港区にあるタワーマンションの四十二階であり、寝室の隣にはウォークインクローゼットがあり、スーツは色ごとに並んでいる。リビングにはイタリア製のソファが置かれ、玄関には革靴が八足も整列していた。そして、地下の駐車場には黒いドイツ車が停められていた。

 自分の名前は――。

「圭吾さん」

 隣から声がした。悠一は反射的に振り向いた。女がベッドの上でこちらを見ていた。美しい人だった。滑らかな長い髪に似合う細い首と白い肌。目元には寝起きの気怠さがあったが、それすら計算された絵画のように見えた。彼女が身じろぎすると、シーツが音もなく滑った。その女の名前が頭の中にすぐに浮かんだ。

 美咲。

 圭吾と呼ばれるこの男の妻である。結婚して七年になる。元モデルであり、現在はインテリアブランドをプロデュースしている。雑誌の取材も受け、今は新しい趣味として料理を始めている。子どもは二人おり、面倒見も良い。

 それらの情報が、自分の記憶のように頭の中へ入ってきた。

「今日の帰りは遅い?」

 美咲が聞いた。

「ああ」

 悠一は答えてから、自分の声に驚いた。低く、よく通る声だった。佐伯悠一の怯えた、か細い声ではなかった。もっと自信があり、短い言葉でも人を黙らせる力がある。

「取締役会がある」

 勝手に言葉が出てきた。

「そのあと会食」

「誰とですか?」

「神谷さん」

「ああ、あの人」

 美咲は興味を失ったように目を閉じた。

「じゃあ、子どもの面談は無理ね」

 子どもの面談という言葉に、わずかに引っかかったが、すぐに別の記憶が上書きする。長男の陸は有名私立大学に附属する小学校の五年生である。成績はいいが、最近学校で友人関係のトラブルがあるそうだ。そこまで思い出して、悠一は少し笑いそうになった。

ここでも子どもか。いや、違う。今度の自分は違う。

 今度の自分は、家庭で軽く見られる父親ではない。職場で若手に助けられる中年でもない。人から必要とされ、尊敬され、金も地位も名誉もある。

 家庭の小さな問題など、いくらでも取り返せるはずだ。

「時間があれば行く」

 悠一はそう言った。美咲は目を閉じたまま、薄く笑った。

「あら、それは来ない人の言い方ですよ」

 その一言は、柔らかかった。美咲によっては何気ない言葉であり、本当に他意はなかったのだろうが、悠一の胸に刺さった。悠一はその言葉に返事はせず、ベッドから出て、洗面所へ向かった。大きな鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、佐伯悠一ではなかった。

 目鼻立ちは整っており、顎の線は鋭く、髪には少し白いものが混じっているが、それすらも貫禄に見える。肩幅もあり、目つきは鋭い。笑わなければ他を威圧するような顔だ。

 その男の名は御堂圭吾。年齢は四十一歳であり、IT関連企業のミドウリンクス株式会社代表取締役である。年商は昨年八十億円を記録した。雑誌では「次世代をつくる経営者」と紹介されたことがある。

 悠一は鏡の中の男を見つめた。

 これだ、と思った。これが欲しかったのだ。誰かに軽く扱われない、誰かに期待され、鏡を見るたびに自分には価値があると思える人生が。

 手をかざし、自動で出てくる水で顔を洗った。水は冷たかった。その冷たさが、妙に生々しかった。タオルで顔を拭くと、鏡の隅に一瞬だけ別の顔が映った。丸く、疲れていて、目の下にクマのある男だ。悠一は振り返ったが誰もいない。もう一度鏡を見てみるが、映っているのは御堂圭吾だった。

「……気のせいだ」

 そう言った声も、やはり低く、自信に満ちていた。

朝食はリビングに用意されていた。白い皿に、焼き目のついたトースト、スクランブルエッグ、サラダ、ヨーグルト。コーヒーはすでにカップに注がれており、キッチンには家政婦らしき中年女性が立っていた。

「おはようございます」

「おはよう」

 自然に返事が出た。巨大なダイニングテーブルの端に、男の子が座っていた。

 陸だった。

 制服を着て、タブレットで何かを見ている。悠一が近づいても、顔を上げない。

「学校、どうだ」

 悠一は言ったが、陸は画面を見たままだった。

「普通」

「友だちとは」

「普通」

「今日、面談なんだろ」

 そこで、陸の指が止まった。

「来るの?」

「時間があればな」

 陸は、そこで初めて顔を上げた。その目を見た瞬間、悠一は言葉を失った。そこにあったのは期待ではなく、諦めだった。子どもが大人に向けるには早すぎる、乾いた諦めの目である。

「じゃあ、来ないってことだね」

 陸はそう言って、またタブレットに目を落とした。胸の奥がざわついた。航太の顔が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。

お父さんは起こすだけじゃん。

 いや、違う。今の自分は御堂圭吾だ。佐伯悠一ではない。悠一はコーヒーを飲んだ。高い豆の味なのだろうが、ただ苦いとしか感じなかった。

会社へ向かう車の中で、秘書から今日の予定を聞いた。運転手つきの黒塗の車に革張りのシート。外の景色が物静かに流れていく。そしてスマートフォンには誰かしらからの通知が絶え間なく届く。

「九時から取締役会にご出席いただき、十時半からは法務との打ち合わせがございます。十一時には投資家向けの資料にお目を通していただき、十三時から採用広報の撮影に付き合っていただきます。十五時に一旦銀行にお立ち寄りいただき、十七時に神谷ホールディングスの神谷会長と会食前に事前面談となっております。そして十九時から本会食です」

 秘書の若い女性は、運転席の後部座席に座る悠一に対して隣から淡々と告げた。名前は白石ということを悠一は知っている。二十七歳と若手であるにも関わらず、手際の良い仕事ができ、圭吾の機嫌を読むのもうまかった。二年前のことにはなるが、妻子がいることを知りながら、一度だけ白石から体の関係を迫られたことがある。若さと美しさがある女性であったが、スキャンダルに巻き込まれ、自身のキャリアが崩れ去ることを恐れ、圭吾は白石からの誘惑を言下に断ったのである。それ以来、圭吾は彼女の仕事振りは評価しているものの、いつ何時邪な気を起こされるか分からないといった気に入らなさを覚えている。

 その記憶まで、自然に分かった。悠一は自分の中にある御堂圭吾の記憶を覗き込み、少しだけ気分が悪くなった。これは自分ではない。そう思った。

 だが同時に、こうも思った。この記憶を辿れば、この人間として振る舞える。今度こそ、間違えなければいいだけだと。

「息子の面談はいつが?」

 悠一は聞いた。白石が手元のタブレットを確認する。

「十五時です」

「それは無理だな」

「予定を動かせば、一時間ほど空けられます」

 悠一は少し驚いて白石を見た。

「動かせるのか?」

「銀行との面談をオンラインに変更し、撮影を三十分短縮すれば可能です」

「いや、そこまでしなくていい」

 口が、勝手に動いた。言ったあとで、しまったと思った。白石は何も言わなかった。いつものことのようにただ小さくうなずき、タブレットに何かを入力した。その横顔には、もちろん失望も軽蔑も浮かんでいない。

 会社はガラス張りの高層ビルに入っていた。エントランスに入ると、受付の女性が立ち上がり、深く頭を下げる。

「おはようございます、御堂社長」

 その声に続いて、社員たちが次々と挨拶をした。

「おはようございます!」

「社長、今日も来てくださったんですね」

「昨日の件、ありがとうございました」

 悠一は軽くうなずきながら歩いた。ただただ、気持ちがよかった。通路の端で立ち止まるだけで、人が道をあける。エレベーターに乗るだけで、空気が少し緊張する。

 自分が中心にいる。世界が、自分の存在を前提に動いている。これが成功者か。これが、頼られるということか。

会議室に入ると、大きなテーブルがあり、役員たちがすでに席についていた。壁一面のモニターと資料の束に敷き詰められた数字や契約を結ぶための文字、成長率を表すグラフに投資や買収といった単語が並んでいた。

 悠一は上座に座った。その瞬間、頭の奥で無数の情報がつながった。新規事業の失敗に対する会社の資金繰りと銀行との交渉をどうするか、表には出していない訴訟リスクや創業メンバーとの対立も対処しなければ、神谷ホールディングスからの出資話も進める必要があると、そういった圭吾の記憶が悠一の頭の中に次々と浮かぶ。

「では始めましょう」

 白石が言った。最初の議題は、赤字事業の撤退だった。役員のひとりが資料を説明する。

「現状のままでは、第四四半期でさらに一億二千万の損失が見込まれます。人員の配置転換では吸収しきれません」

「それはつまり、人員整理が必要ということだな」

 悠一は言った。自分でも驚くほど冷たい声だった。

「はい、その通りでございます」

「何人切る必要があるんだ?」

「三十名規模の人員整理が必要です」

 会議室が静かになった。三十という数字は、資料の中ではあまりにも小さな項目だった。だが、その一人ひとりには朝があり、家族があり、生活がある。

 悠一としての記憶がそう思った。そう思ったはずなのに、御堂圭吾の記憶が別の答えを出した。早く切らなければ、全体が沈むぞ。情に流されず、会社を守るため、自分の保身のために決断を下すのだ。

「対象者のリストは」

 悠一が言うと、人事担当役員が資料をめくった。画面に名前が並んだ。その中に、ひとつの名前があった。

 佐伯悠一。

 悠一は息を止めた。画面の文字を見つめる。

 佐伯悠一。

 営業管理部の四十三歳であり、評価はCとなっている。改善見込みは低く、配置転換も困難である。

 心臓が、一度だけ強く鳴った。自分の名前だ。いや、違う。この世界で佐伯悠一は、御堂圭吾の会社の社員なのか。そんなはずはない。同性同名の見知らぬ誰かだろう。だが、画面には確かにその名前があった。

「社長?」

 白石が声をかけた。悠一は瞬きをした。もう一度画面を見る。名前は消えていた。代わりに、別の社員の名前が並んでいる。

「どうされましたか。ご気分が悪ければ…」

「いや」

 悠一は喉を鳴らした。

「続けてくれ」

 会議は進んだ。誰を残し、誰を切り、どの部署を畳み、どの部署に資金を入れるかという資料の上での、あくまで数字を扱う感覚であった。悠一は次第に、御堂圭吾として考えることに慣れていった。痛みを感じる前に結論を出し、迷いを見せる前に指示を出し、人の顔ではなく、表と数字を見る。そうすれば、会議は早く進む。役員たちは、悠一の決断に感嘆した。

「さすがです」

「社長の判断が一番現実的です」

「これで銀行への説明も通しやすくなります」

 褒められ、尊敬され、頼られることで、悠一の胸の奥が確かに満たされていった。だがその満たされた場所のすぐ下に、何か冷たいものが沈んでいた。

 

 昼過ぎには採用広報の撮影があった。若い社員たちに囲まれて、悠一は仮面のような笑顔を作った。

「我が社は人と人とのつながりを大切にします」

 カメラの前で、自然にそう言った。広報担当が満足げにうなずく。

「いいですね。もう一度お願いします」

「我が社は人と人とのつながりを大切にします」

 言いながら、午前中の三十名のリストが頭をよぎった。人と人とのつながりを大切にする会社という言葉の空洞が、撮影用のライトに照らされているようだった。

 午後二時、スマートフォンが震えた。美咲からだった。

 陸の面談は三時からですけど、間に合いそうですか?

 悠一は画面を見た。すぐに返信することもできた。今からでも行くと言うこともできた。この後の銀行との面談はオンラインにできる。白石はそう言っていた。今の撮影を短縮すれば、間に合うかもしれない。

 だが、行ったところで何を話せばいい。陸の学校生活を、自分は何も知らない。陸に普段学校でどんなことがあったのか聞いてもろくな返事がないからだ。友人とのトラブルと言われても、相手の名前すら分からない。父親らしい顔で椅子に座るだけなら、行かないほうがましだ。

悠一は短く返信した。

 すまない。難しい。

 すぐに既読がついた。

 わかりました。

 返事はそれだけだった。


 その夜の会食は、銀座の料亭だった。神谷会長は七十代の男で、笑うと目が細くなった。悠一は自然に頭を下げ、自然に酒を注ぎ、自然に相手の機嫌を取った。成功者というものは、誰にも頭を下げなくてよい人間だと思っていたが違った。成功者は頭を下げる相手を正確に選ぶ人間だと、悠一は感じた。

「御堂くん」

 神谷会長が言った。

「君は運がいい」

「ありがとうございます」

「まず顔がかっこいいからな。そして努力の甲斐あってか若い頃から出世して、部下からの信頼も厚い。おまけに奥さんも美人ときたもんだ。天は二物も三物も与えてしまったようだ。少しはわしにも分けてほしかったよ」

神谷会長は冗談を言ってごぼごぼと喉を鳴らすように笑ったが、その目の奥は笑っていない。

「恐縮です」

悠一はなおも神谷会長に調子を合わせ、少しばかり微笑んだ。

「ただ、運がいい人間ほど、自分の力だと勘違いする」

  悠一は笑顔を崩さなかった。

「肝に銘じます」

「本当に銘じるやつは、そう簡単に返事をしないものだよ」

 会長は盃を置いた。

「君は人に厳しいね」

「経営者ですから」

「それは理由にはならんよ」

 悠一は返す言葉を失った。会長は続けた。

「人に厳しい人間は、たいてい自分にも厳しいと言いたがる。でも実際は違う。自分に優しくするために、人に厳しくしているだけのことが多い」

 その言葉が、妙に耳に残った。自分に優しくするために、人に厳しくする。誰のことだ。 御堂圭吾のことか。佐伯悠一のことか。

「君の幸も不幸もその態度にある。君のことを心配しているから言っているんだよ」

「ありがとうございます」

 笑顔でそう言いながら、悠一は成功者にもなって説教を受けるのはごめんだと思うのであった。

 

 会食が終わる頃には、夜十一時を過ぎていた。車に乗り込むと、白石が後部座席に書類を置いた。

「明日の朝一番で、リストについて最終確認があります」

「分かった」

「陸くんの学校からも連絡がありました」

 悠一は目を閉じたまま言った。

「明日にしてくれ」

「今日、同級生と揉めて、相手の子に怪我をさせたそうです」

 悠一は目を開けた。

「怪我?」

「大きな怪我ではないようですが、学校としては保護者と話したいと」

「美咲は?」

「対応されています」

 まただ。また、自分ではない誰かが対応している。前の人生と何が違う。いや、違うはずだ。今回は自分が忙しいからだ。責任があるからだ。会社を背負っているからだ。多くの社員の生活がかかっているからだ。

 そう思おうとした。けれど、朝の陸の目が浮かんだ。

 じゃあ、来ないね。

 その言葉の乾きが、なぜか消えなかった。マンションに戻ると、リビングの明かりは落ちていた。美咲の姿は寝室にはなく、子ども部屋の前を通ると、扉の隙間から小さな明かりが漏れていた。悠一は立ち止まった。中から、すすり泣く声が聞こえた。陸の声だった。

扉に手をかけ、開ければよかった。父親なのだから。ただ、声をかければよかった。大丈夫か、何があった、と。それだけでいい。それだけでいいはずのことが、なぜかできなかった。御堂圭吾の記憶が囁く。今さら入っても、何も変わらない。今日は疲れている。中途半端に関わるくらいなら、明日ちゃんと時間を取ればいい。

 悠一は扉から手を離した。そのとき、背後で小さく音がした。

 からん。

 からん。

 鈴のような音。

 悠一は振り返った。廊下の突き当たりに、黒い引き戸があった。そんなものは、このマンションにはなかった。

 木枠の古い引き戸に黒い看板に白い文字。

 ゆうらん堂

 悠一は息を止めた。ありえない。ここは四十二階の高層マンションだ。あの店は、たしか古いアーケードの中にあったはずが。それなのになぜここに。

 看板の下には、同じ札がぶら下がっていた。

 きおく、かえます、うれます

 引き戸の向こうから、あの店主の声がした。

「お帰りなさいませ」

 悠一は動けなかった。

「ずいぶんと早いお戻りですね」

 扉の向こうで、店主が笑っている気配がした。悠一は唇を噛んだ。

「まだ戻るとは言っていない」

「ええ。もちろんです」

「これは……何だ」

「何だとおっしゃいますと?ただの入口です」

「なぜ、ここにある」

「必要になった方の前にだけ、現れます」

 陸の泣き声が、背後の扉の向こうから聞こえる。前には、ゆうらん堂の引き戸がある。悠一は、その二つの間に立っていた。

 父親としての部屋と逃げ道としての店の間だ。どちらも、手を伸ばせば開けられる。

「私は成功したんじゃないのか」

 悠一は低い声で言った。

「そうです。あなたは成功者の朝をお選びになりました」

 店主の声は穏やかだった。

「成功者の夜はお気に召さなかったでしょうか」

 店主はまたあの微笑を浮かべていた。悠一は何も言えなかった。

「今更子どもとどう向き合っていいか分からない、という声が頭の中を駆け巡る。ただ子どもに声をかければいいだけのことなのに、成功者というものは、自分にはわからないことになるとこんなにも臆病になるものなのか」

「それは人それぞれでしょう。たまたま御堂圭吾がそういう人間であったというだけです」

 そこで神谷会長の言葉が頭をよぎった。

 自分に優しくするために、人に厳しくする。

 陸の泣き声が、少し大きくなった。それは、航太の声にも似ていた。悠一は振り返った。子ども部屋の扉を見た。何を考えているんだ、今すぐ開けろ。今ならまだ間に合う。この人生なら、今度こそできる。

 そう思った。

 けれど、手は前に伸びていた。子ども部屋ではなく、黒い引き戸のほうへ。

「別の記憶はあるか」

 悠一は言った。声が震えていた。店主は少し間を置いて答えた。

「ございますよ」

「今度は、もっと穏やかなものがいい」

「穏やかな人生ですね」

「ああ。金とか地位とか、そういうものじゃない」

「承知しました」

 引き戸が、内側から少しだけ開いた。暖かい光が漏れる。悠一は最後にもう一度、子ども部屋の扉を見た。中からはまだ陸の泣き声が聞こえていた。その声に向かって、何か言うべきだったが、悠一には何を言うべきかわからなかった。

 そしてただ、黒い引き戸の中へと入っていった。

 からん、と鈴が鳴った。

 背後で子ども部屋の明かりが消えた。

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