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記憶ばいばい  作者: 紙とペン


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第1章 つまらない朝

 目覚まし時計が鳴る前に、目が覚めた。

 午前六時二十四分。

 天井の隅に、薄い染みがある。去年の梅雨に雨漏りした跡だ。修理を頼もうと思っていたが、結局そのままになっている。妻の紗季は何度か「管理会社に電話して」と言った。悠一はそのたびに「今週中にする」と答えた。

 そうやって先延ばしにしたものが、家中に積もっていた。

 天井の染みから始まり、洗面台のゆるい蛇口やベランダの隅に置いたままの壊れた物干し竿、子どもの自転車の空気入れに紗季が何度も頼んできた学校プリントの記入欄などである。

 佐伯悠一、四十三歳。

 どこにでもいる男だった。

 少なくとも、本人はそう思っていた。

 けれど本当は、どこにでもいるという言葉にすら届いていないのかもしれなかった。どこにでもいる人間は、もう少しまともに家庭を回し、職場でも少しは頼りにされ、休みの日には子どもと遊んでやるものではないか。

 悠一は布団の中で、隣を見た。

 紗季は背を向けて眠っていた。肩まで布団をかぶり、呼吸は静かだった。寝ているときの紗季の背中は、結婚した頃とほとんど変わらない。変わったのは顔でもなく、悠一を見る目や悠一の話を聞く耳、それと悠一に向かって話す口のほうだった。

 昔は悠一の冗談に笑ってくれたが、今は悠一が冗談を言う前にため息をつき、だらしない風貌に文句を言うのだった。

 リビングへ行くと、小学四年生の息子である航太がソファで丸くなっていた。テレビはついていない。ゲーム機だけが充電コードにつながれて、青い光を点滅させている。

「おい航太、起きろ。ソファなんかで寝るな」

 悠一が声をかけると、航太は目を開けた。

「……お母さんは?」

「まだ寝てる」

「じゃあいい」

 航太はまた目を閉じた。

「じゃあいいじゃない。学校もあるだろ」

「お母さんが起こしてくれる」

「お父さんが今起こしてるじゃないか」

「お父さんは起こすだけじゃん」

 それは、何気ない一言だった。

 しかし悠一には返す言葉がなかった。

 起こすだけとはたしかにそうだった。朝食を作るのは紗季で、提出物を見るのも紗季で、連絡帳の確認をするのも紗季だった。悠一はただ声をかけるだけで、それ以上のことをすると、たいてい何かを間違える。

 パンを焼けば焦がすし、牛乳を出せば賞味期限が切れている。学校のプリントを見れば、今日必要な持ち物と明日必要な持ち物を間違える。だから結局、紗季がやるのだ。

 そして悠一は、何もやらない人間になっていた。

 洗面所の鏡に映った男は、昔より少しだけ顔が丸くなり、目の下にははっきりとクマができていた。髪には白いものが混じっている。腹はそれほど出ていないが、締まってもいない。清潔ではあるのだが、魅力は全くなかった。

 昔、自分はもう少し何かになれると思っていた。

 すごい人間ではなくてもいい。

 人に頼られるとか、家族に尊敬されるとか、仕事で少しは評価されるとか、そういう普通の幸せくらいはあると思っていた。

 けれど実際には、普通の幸せにも努力が必要だった。努力を諦めた者には、普通すら与えられない。

通勤電車はいつもと同じように混んでいた。悠一はドア横に立ち、吊り革にもつかまれず、人の肩と肩の隙間で体を支えた。前に立つ若い会社員がスマートフォンで英語の記事を読んでいる。斜め前の女性はイヤホンをつけ、タブレットで資料に赤を入れていた。悠一だけが、まだ昨日の残りかすのような顔をしていた。

 会社に着くと、始業前から課内は慌ただしかった。

「佐伯さん、昨日の集計表、数字ずれてます」

 席に着くなり、隣の席の若手社員である宮田に言われた。

「あ、そう?」

「そう? じゃなくて、部長に出す大事なやつです。ここの合計、前月分が混ざってます」

「悪い。直すよ」

「もう直したからいいです」

 宮田は淡々と言った。怒ってはいない。怒る価値もない、という態度だった。悠一は「ありがとう」と言ったが、その声は小さくなっていた。

 昔は、若手から頼られる側になれると思っていた。だが現実には、若手の手間を増やす頼りない中年男性になっていた。

 午前中の会議では、悠一の発言は一度も求められなかった。資料をめくりながら、ただ相づちを打つだけであった。部長が「この件、誰か意見ある?」と言ったとき、一瞬だけ悠一は口を開きかけた。だが自分が何を言おうとしているのか、言う前にわからなくなった。結局、見かねた宮田が代わりに答えた。

「顧客側の承認フローが詰まっているので、先に稟議担当者を押さえたほうが早いと思います」

「そうだな。宮田、それで動いてくれ」

「はい」

 会議は悠一がいなくても、何の滞りもなく進んでいった。

 昼休み、悠一は会社近くの小さな公園でコンビニのおにぎりを食べた。ベンチの向こうでは、保育園児たちが散歩していた。黄色い帽子をかぶった子どもたちが、手をつないで歩いている。ひとりが転ぶと、先生がすぐに駆け寄った。

 悠一はふと、航太が小さかった頃のことを思い出した。あの頃、航太は悠一の帰宅を喜んでいた。玄関の音を聞くと、廊下を走ってきた。短い足で転びそうになりながら、「おとうさん」と呼んだ。

 いつから呼ばれなくなったのだろう。いや、呼ばれなくなったのではない。呼ばれる前に、自分が家にいないような顔をするようになったのだ。仕事で疲れている。明日も早い。少し休ませてくれ。そう言い訳して、子どもと一緒に遊ぶ時間から自ら降りた。

 そして、家族の時間からも降りた。

 その日の帰り、雨が降っていた。天気予報では曇りだったはずなのに。悠一は傘を持っていなかったから駅前のコンビニでビニール傘を買おうか迷ったが、家まで歩けない距離ではない。それに、買えばまた紗季に言われる。

「またいらない傘増やして」

 実際、玄関にはビニール傘が五本もある。どれも微妙に曲がっていて、どれが誰のものか分からない。悠一は鞄を頭の上に掲げ、小走りで商店街に入った。古いアーケード商店街だった。半分以上の店はシャッターを下ろしている。八百屋だった場所はコインランドリーになり、文房具屋だった場所は整体院になり、その整体院も今は閉まっている。

 雨音がアーケードの屋根を叩いていた。

 ぱらぱら、ぱらぱら。

 その薄暗い通りの中で、ひとつだけ明かりがついている店があった。悠一は足を止めた。

 こんな店、あっただろうか。

 間口は狭く、古い木枠の引き戸がある。看板は黒く、白い文字でこう書かれていた。

 ゆうらん堂

 その下に、小さく手書きの札がぶら下がっている。

 きおく、かえます、うれます

 悠一は眉をひそめた。

「記憶……買えます、売れます?」

 くねくねと踊っているかのような文字であり、余計に怪しい雰囲気であった。そもそもここは何の店なのか。占い、催眠療法、怪しい自己啓発、あるいは、そういう雰囲気を売りにしたバーかもしれない。それに記憶を買う、売るとはどういうことなのか。普通なら通り過ぎるし、どう見ても関わらないほうがいい。

 そう思った。思ったのに、足は止まったままだった。

悠一は、看板をもう一度見た。

 ゆうらん堂。

 きおく、かえます、うれます。

 ガラス戸の向こうは見えない。内側に薄い布がかかっている。明かりは暖色で、雨に濡れた商店街の中で、そこだけが昔話の入口のように浮かんでいた。悠一は試しに引き戸に手をかけた。

 その瞬間、背後で子どもの笑い声が聞こえた気がした。

 振り返るが誰もいない。商店街には雨音だけが残っていた。悠一は息を飲み、戸を開けた。

 からん、と鈴が鳴った。

 店内は思ったよりも広かった。外から見た間口の狭さと合っていない。奥行きが異様に長い。壁一面に、古い薬瓶のような小瓶が数多く並んでいた。瓶の中には液体のようなものが入っていた。透明なもの、琥珀色のもの、黒く濁ったもの。なかには、光っているように見えるものもある。そして小瓶にはそれぞれラベルが貼られており、

 十七歳、夏、初めて勝った日

 二十九歳、誰にも言えない夜

 五歳、母の手の温度

 四十六歳、すべてを捨てた朝

 八十二歳、最後に見た海

 などと記されていた。

 悠一は背筋が冷たくなった。本当に人の記憶が収められているのだろうか。冗談にしては、悪趣味だった。

「いらっしゃいませ」

 声がした。奥の帳場に、男が座っていた。年齢が分からない男だった。老人にも見えるし、若者にも見える。黒い着物のような服を着て、丸い眼鏡をかけている。顔立ちは穏やかだが、目だけが妙に明るい。

「初めてのお客様ですね」

 男は言った。悠一は戸口に立ったまま、曖昧にうなずいた。

「あの、ここは何の店ですか」

「看板の通りです」

「記憶を……買ったり、売ったりできるんですか?」

「そうです」

 店主は微笑んだ。

「それってもしかして、ここにある小瓶の記憶を自分のものにできるってことですか?」

「はい、その通りです」

店主の言葉は、冗談には聞こえなかった。店主は続けた。

「人は誰でも、記憶でできています」

 店主は棚の瓶を一本取った。

 中には淡い青色の光が揺れていた。

「名前。家族。仕事。失敗。恥。後悔。誰かに言われた一言。誰かに言えなかった一言。それらを積み上げて、自分だと思っている」

「思っている?」

「ええ。思っているだけです」

 店主は瓶を軽く振った。青い光が細かく散った。

「肉体というものは、服のようなものです。朝、袖を通し、夜、脱ぐ。たまたま長く着ているから自分のものだと思っているだけで、本当は借り物に近い」

 悠一は喉が渇くのを感じた。

「何を言っているんですか」

「あなたは今の人生に飽きているんでしょう?」

 店主は静かに言った。

 悠一は何も答えなかった。

「違いますか?」

「……誰でも、そういう日はありますよ」

「でもあなたはそれが毎日でしょう」

 悠一は店主を睨んだ。だがその怒りは、すぐにしぼんだ。図星だったからだ。店主は棚から別の瓶を取った。今度は金色の液体が入っている。

「これは、ある男性の記憶です。四十一歳。会社経営者。都心の高層マンションに住み、妻は美しく、子どもは二人。年収はあなたの十倍以上。人から尊敬され、会食では中心に座り、休日は別荘で過ごす」

 悠一は思わず瓶を見た。胸の奥で、何かが小さく鳴った。

「こちらは、元プロスポーツ選手の記憶。こちらは、大学教授。こちらは、若くして海外へ渡った写真家。こちらは、誰からも愛された父親」

「そんなもの、本当にあるわけがない」

「なら、試す必要もありませんね」

 店主は瓶を棚に戻そうとした。その瞬間、悠一は一歩前に出ていた。

「待ってください」

 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。店主は手を止めた。

「興味がありますか?」

 悠一にとっては興味があるどころではなかった。もし本当に、別の人生を生きられるなら。 今のこのつまらない自分ではなく、別の充実した人生を歩んでいる誰かとして、朝を迎えられるなら。紗季にため息をつかれない。航太に軽く見られない。職場で若手に助けられない。誰かに必要とされる。誰かに尊敬される。自分の言葉に、重みが生まれる。

 そんな人生があるなら。

「料金は」

 悠一は言った。

「いくらですか」

 店主はにこりと笑った。

「お金では買えません。人生はお金では買えないとよく言うでしょう」

「なら、どうすれば記憶を買えるのですか?」

 店内の空気が、少し冷たくなった気がした。店主は帳場の下から、小さな透明の瓶を取り出した。

「あなたの記憶を売っていただきます。そして、人生の最後に、二つだけ質問します」

「質問?」

「はい。それに自信を持って答えられたら、もうそれで結構です」

「答えられなかったら?」

 店主は、笑顔のまま言った。

「あなたの記憶をすべていただきます」

 悠一は息を止めた。

「すべて?」

「はい。あなたがあなたとして存在したことも、覚えていられなくなります」

 雨音が遠くなった。店の奥で、瓶の中の光だけが揺れている。

「どうしますか?」

 店主は言った。

「やめますか?」

 そこでやめるべきだった。その場で頭を下げ、店を出て、雨に濡れながら家に帰るべきだった。紗季に「傘を買えばよかったのに」と言われ、航太に無視され、翌日また会社で小さなミスをして、いつものように情けない一日を終えるべきだった。

「質問は、何ですか」

 それなのに悠一は聞いた。店主は首を横に振った。

「それは最後に」

「今、教えてくれないんですか」

「最後に聞くから意味があるんですよ」

 悠一は目の前に置かれている瓶を見た。要するに、違う自分を買うために、今の自分を売れるかということだ。それだけのことだ。どうせ今の自分には、大した価値などない。悠一はそう思った。

「やります」

 悠一は言った。店主は、不思議と待っていましたという顔をしなかった。ただ微笑を浮かべながら、静かにうなずいた。

「では、まず売る記憶を選びましょう」

「選ぶ?」

「全部売っても構いませんが、初回のお客様にはおすすめしません。多くの方は、まず今の人生の不満から手放されます」

「不満……ですか」

「たとえば、家族に軽く見られている記憶とか、仕事で役に立てない記憶とか、自分は何者にもなれなかったという記憶とか、そういったところです」

 悠一の手が震えた。

「どうして、そんなことが分かるんですか」

「ここに来られる方は、だいたいみなさん似たような不満を持っておいでですので」

 店主は空の瓶を手に取った。

「では、目を閉じて、自分の売りたい記憶を思い浮かべてください」

 悠一は少しためらったとき、店主は思い出したように言った。

「あ、大事なことを申し遅れました」

「何ですか?」

今まで浮かべていた店主の微笑が一瞬だけだが消えたように見えた。

「当店をご利用なさった方々は、みなさん必ず不幸になります」

 なぜそんな大事なことを、今このような状況になってから話すのだろうと思ったが、悠一はもう引き返すつもりがなかった。どうせもう既に不幸なのだから、何を今さら気にする必要があるのだろうかと、目を閉じた。

 暗闇の中に、いくつもの場面が浮かんだ。航太の「お父さんは起こすだけじゃん」という声。紗季のため息。宮田の「もう直しました」という平坦な声。会議室で、自分だけが透明になっていく感覚。洗面所の鏡に映る、何者でもない中年の男。それらが、胸の奥から糸のように引き抜かれていく。痛みはなかった。むしろ、少し気持ちよかった。重たい上着を脱ぐような感覚だった。

「いいですね」

 店主の声が聞こえた。

「ずいぶん、たまっていましたね」

 悠一は目を開けた。店主の手の中の空瓶に、灰色の煙のようなものが入っていた。ゆっくりと渦を巻いている。

「これが、私の記憶ですか」

「はい、あなたの記憶の一部です」

「こんなに汚いんですね」

「汚いのではありません。使い方を間違えてしまわれただけです」

 店主は瓶にラベルを貼った。

 四十三歳、何者にもなれなかった朝

 悠一は、その文字から目を離せなかった。自分の人生に題名をつけられた気がした。しかも、ひどく的確で情けない題名だった。

「では、次に買う記憶を」

 店主は金色の瓶を差し出した。

「先ほどの会社経営者の記憶です。初回には少し刺激が強いですが、今のあなたには分かりやすいでしょう」

「これを買うと、私はその人になるんですか」

「はい。その人の人生を、その人として始められます」

「今の家族は?」

「今のあなたの記憶からは遠ざかります」

「死ぬんですか、私は」

 店主は少しだけ首を傾けた。

「死ぬ、という言葉をどう定義するかによりますね」

「怖いことを言いますね」

 悠一は金色の瓶を受け取った。瓶は温かかった。まるで誰かの手を握っているようだった。

「飲めばいいんですか?」

「はい」

「これで、本当に変わるんですね」

「ええ。そして、次の朝が来ます」

 店主は言った。そこでふと、悠一は質問した。

「あの、すいません。先ほど自分の記憶をあなたに売ったわけですが、自分の記憶とこの記憶との価値が釣り合っていないように思います」

「と、おっしゃいますと?」

 店主は悠一の言葉の意味が本当に分からないようだった。

「商品を買うときにはそれに見合った額の代金を支払います。今回、わたしがあなたに売った記憶はどこからどう見ても、誰も買わないような安物です。ですが、今から買おうとしている記憶は誰もが手に入れたいと願うような高価な記憶です」

「なるほど。この交換が成立したら、私が大損をくらうのではないかということですね?」

 店主は必死に笑いを堪えているようだった。

「自分で言うのも恥ずかしいですが、そういうことです」

「そのようなご質問をされたのはお客様が初めてです。確かにそう思われるのも無理はありません。しかし、言い方は非常に失礼にはなりますが、あなたのような平凡にも届かない人生でも、望んで手に入れたいと思われる方がいらっしゃいます」

「え?本当ですか?」

 悠一は俄かには信じられなかった。

「本当です。ですから、あとで何かと理由をつけて代金や寿命を請求するような詐欺師や悪魔めいたことはいたしませんよ」

 店主の表情からは嘘は感じ取れなかった。

「そんなものでしょうか」

「ええ。いずれ、あなたにもお分かりになるときが来ます」

 悠一は瓶の蓋を開けた。甘い匂いがした。懐かしい匂いだった。どこで嗅いだのか分からないが、ずっと昔から知っているような匂いだった。悠一は一瞬だけ、紗季と航太の顔を思い浮かべた。だが、その顔はすぐに薄れた。どうせ、向こうも自分を必要としていないのだから。

 そして、瓶の中身を飲み干した。

 次の瞬間、店内の瓶が鈴の音のように一斉に鳴った。

 からん。

 からん。

 からん。

 視界が金色に染まり、床が消え、店主の顔が遠ざかっていく。最後に、声が聞こえた。

「よい人生を」

 それは祈りのようでもあり、皮肉のようでもあった。悠一は何かを言おうとした。けれど、もう自分の名前を思い出せなかった。

    ◆

 目を開けると、朝だった。高層マンションの寝室の大きな窓の向こうに、東京の街が広がっていた。隣には、美しい女が眠っている。枕元のスマートフォンが震え、画面には見知らぬ名前が表示されていた。

 代表、本日の取締役会は九時開始です。

 悠一は、いや、彼は、ゆっくりと起き上がった。胸の奥に、知らない記憶が流れ込んでくる。

大都会の中心にある会社、莫大な資産、有能な部下、揺るぎない尊敬、数多くの成功、そして絶対的な勝利。

 すべてが自分のものだった。彼は笑った。これで成功者としての人生が始められる。そのとき、寝室の隅で、何かが小さく鳴った。

 からん。

 からん。

 鈴の音だった。

 彼は振り返ったが、そこには何もなかった。ただ、窓ガラスに映った自分の顔が、ほんの一瞬だけ、ひどく情けない中年の男に見えた。

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