深海魚の夜空
視界いっぱいに広がる闇の中で、無数の光が小さな穴から漏れ出す様にキラキラと瞬いている。
一定間隔でざわめく波の音を聴きながら、水面に身体をあずけ漂っている。
ただし身体が浮いているのは海面では無く、水上ヴィラのテラスにある大きなプライベートジャグジーの水面だ。
水中の青いLEDライトで幻想的にライトアップされた、海面と同じ高さにある浴槽から星空を眺めていると、自分が海面に浮かんでいるように感じる。
一ヶ月程前は暗い部屋の中で標本びんを眺めていた自分が信じられない。
今までの事が前世の記憶を夢で見ていたかのように遠く感じる。
いや、夢だと言うのなら今のこの状況の方が夢に違いない。
満天の星空の下で、波に身体が揺れている。そういう夢を見た事がある。
また同じ夢を見ているのかもしれない。
好きな人の隣に居られる、そしてその人に見つめられる、名前を呼んでもらえる、キスをされる、身体に触れてもらえる。
いつか夢が覚めるように、何の前触れも無くこの世界も消えてしまうのではないだろうか。そんな日がそう遠くはない将来訪れる気がする。
今までのキングの買い物のように捨てられる。今までずっと続いてきた事が俺の番になった途端に変わるなんて事あるはずがない。
あまりにもしつこく、そんな不安を口にするので「じゃあ、一生隣でそう思ってろ!」とキングを怒らせたのがいけなかった。
夏休みも残すところあと二週間という日の夜。
「ユキヤ。ちょっとそこまで出掛けるぞ」
明日も仕事があるはずの恋人が、帰って来るなりそう言い出した。
喧嘩中で俺が口を利こうとしないのをいい事に、何も言わずにそのままの格好で車に押し込められる。
育ちの違いって怖い、と心底思った。
キングにとってのちょっとそこは、東シナ海を越えて、ベトナムとタイを越えて、ついでにスリランカを越えたインドの沖に位置する。
挙句の果てに副担任なんぞを恋人にもつと、修学旅行のために預けたパスポートなんかを平気で悪用されて、自分の意志に関係なくいつのまにか出国させられて、ファーストクラスから部屋着のまま夜景を見下ろす破目になる。
後ろで足音がしたので、浴槽に手をかけて振り返った。
「勝手にいなくなるなよ……」
大好きな人が不貞腐れた様な顔をして、バスローブ姿で立っていた。
360度海に囲まれたコテージから、泳いでどこかに逃げたとでも思ったのだろうか。
篤樹の背中越しにベッドルームがぼんやりと間接照明で映し出されており、荒波に揉まれた様なベッド上の惨劇に、何時間か前までの激しい情事を思い出して頬が熱くなる。
「ごめんなさい」
湯船に入り隣に座った首元に腕をまわして、触れ合わせるだけのキスをする。
サラサラとした肌が気持ちよくて篤樹の肩に頬をあてていると、その感触が離れて青く発光する水中に消えた。
不思議に思っていると、自分も水面の裏側へ優しく引き込まれ、口内に温かい水と一緒に熱い篤樹の舌が浸入してくる。
身体の内部に温もりが染み渡り、脊髄を溶かしていく。
心行くまで味わった後、全ての息を泡として吐き出し、窒息寸前で水上に顔を上げた。
篤樹の顔を探すと、右足に僅かな浮力を感じ、同時に水面に自分の白い膝が現れた。
水面からヌルリと飛び出した俺の右膝を曲げて持ち上げ、暗色の髪の頭が俺の青白い内股に舌を這わせる。
下に揺らめく光に照らされて浮かび上がる整った顔が、生き物のように熱い舌で内太腿にあるS字状の傷跡を執拗になぞる。
「あっ……」
傷跡を舐められて欲情する俺の頭はいっちゃってるが、俺の彼氏の頭も俺以上に相当いっている。
恋人の過去の傷一つ許せず、ニコニコと少年の笑顔で自分の太腿にもアイスピックで同じ形の傷をわざと刻み込んだりする。
本当にあの時は「何考えてんだよ」と叫びながら血に染まるベッドの上で、その日二度目の意識喪失をするかと思うほど血の気が引いた。
「Sは椎名のSって事で我慢するか……」と満足そうに目を細める篤樹の太腿をタオルで押さえつつ、いくら押さえても染み広がる真紅に半泣きになった。
だから今篤樹の左太腿の外側には俺と同じS字の刻印がある。
身体を重ねた時にちょうど俺の傷跡と擦れ合う様になり、この世でたった二人だけの身体を繋ぐ大切な印だ。
揃いの刻印が随分と気に入ったらしいキングは、さっそくベッドルームの灯りを消す事をその日限りやめて、明るく照らされた俺の身体を隅々まで眺めたり、傷跡をしつこくなぞったり舐めたりしてくるので、俺にとっては過去の辛い思い出だったS字の傷が今では立派な性感帯になってしまっている。
「先生大人なんだから、もうちょっとちゃんと考えて行動しないとダメだよ……」と少し真面目に怒ってみたりもしたが、怒った顔が可愛いとか言って逆に押し倒される。
下手に家で先生と口にしてしまうと、相手の背徳感を刺激するらしく、それからの何時間かがベッドの上の露と消えるので逆効果だという事が判明した。
太腿の傷にしても、今回の旅行にしても、本当に何をしだすか分からない所が妙に子供っぽい。
今まで知らなかった好きな人の新たな一面に、それも好きかも、とまたのめり込んでいく自分がいる。
篤樹が薄くやわらかい肌を吸い上げてこっちを見ながら、少し唇の端を上げて軽く歯を立てたりする。
太腿が愛撫されている艶めかしい情況を見ているだけで、脳が溶けてのぼせる。
自分の足と篤樹の頭の後ろに広がる黒い音だけの海や、その境界線から立ち上がる夜空に、いつかの甘美な悪夢を思い出す。
ただあの夢よりもずっと夜空の星は美しいし、篤樹の姿もあの時より遥かに妖艶で目を奪われる。
あの夢のように自分が今まで深海だと思っていた場所は、夜の海面だったのかもしれないと思う。小さな星屑に気付かず、暗い深海だと思い込んでいただけのような気がする。
たとえそうじゃなくてもいい。
深海では無いどこかへ好きな人が連れて行ってくれる。
それがどこでもいい。
もっと深い海の底でも、篤樹が一緒にいてくれるならそれでいい。
どんなに冷たい海水も篤樹といるだけで熱を帯びる。
隣に篤樹がいるだけで暗い海中も全てが輝いて見える。
篤樹自身が海なんだと感じる。
その中に溺れて、溶けて、泡になって、一つになりたい。
いつか別れを知るかもしれない恐れも
命が衰えて朽ちていく悲しみも
全て篤樹が溶かして忘れさせてくれる。
いつのまにか後ろから俺を抱き締めていた温もりに口元を寄せる。
「篤樹……愛してる」
「知ってる。俺もだ」
深海魚の真っ黒な瞳に星が映る。
下瞼から温い海水が溢れ出し、身体が星空を映した海面に溶けていく。
ただ目を閉じて、温もりだけを感じている。
「君学生? それ制服だろ」
奥の廊下へ向かう途中、すれ違いざまに強く二の腕を掴んだ手を、振り返って見上げる。
すっきりとスーツを着こなした好青年。
俺の顔を見るなり掴んでいた手をスッと引いて「あっ……。いや……、何も無い」と言って立ち去ろうとする。
「何? 俺まだ何も言ってないけど……」
こんなバーの個室が並ぶ廊下で声をかけられたら、聞かなくてもだいたい用件は分かるが。
残念ながら俺にはもう買い手がついている。
今から奥の廊下を曲がった裏口前の部屋でそいつと一緒に夕食を食べるんだ。
もう俺はその人の事以外考えられないくらい、その人に溺れている。
スーツの男は苦笑いし、首を振りながら答え、俺から離れていく。
「いや、いいよ。その溺れた目見たら誰でも分かる。
俺もキングに喧嘩売る程バカじゃないからな。
君、あれだろ?
キングの買い物 」
(完)
いやいや。終わりました。
何となく時間をかけましたが、最終的に秘技「まあ、いいか」を使用して、保存ボタンを押してやりました。
最初の予想より遥かに多くの方に閲覧して頂き本当に嬉しい気持ちでいっぱいです。
また拍手や拍手コメ、コメント頂いた方にこの場をもちましてお礼を言わせていただきます。
本当に本当に有難うございました!!!!
この方々無くしては、最終話を書き上げれなかったとヒシヒシと感じます。
こんな腐蝕ダメ人間に最後までお付き合い頂きまして、本当に皆様目の前にいたら有無を言わさず抱き締めてます(゜∀゜)ギュットネ♪ というか四の五の言わずに抱き締められなさい。私に。( ´Д`)キモッ
初めてのBL小説として試作品のような感覚で、キャラ設定もちゃんとしないまま見切り発射的に書き始めた物ですので、到底胸を張って自慢できる作品ではありませんが、多くの方に読んで頂き本当に感謝しています。
今後の予定といたしましては、また八月に入ってから短めの連載を書こうかと考えています。
次の連載までの繋ぎとして、一応キングの買い物の番外として後日談を二話程入れるつもりです。
シノと野木の話に関しましては、後日談で少し触れるつもりですが、詳しく書くと連載になってしまいますのでどうするべきか悩み中です。番外の二話は、シノ視点の物一話と、野木視点の物一話の予定です。
次回作はブログに設置されているアンケートに投票して下さいました方の意見を尊重して、リーマンの受身設定にしようかと考えています。まだ間に合いますので、他にもリクエストあれば投票ボタンポチっとお願いします(`・д・´)ポチットナ♪
とりあえず、神棚に祀ってある小説の書き方の本を下ろして、次の連載までに読んで少しでもマシな駄文を書ける様に努力したいと思います(ヾノ・∀・`)ムリムリ
次回の更新は出来れば金曜にするつもりです。
あまり次回の連載までに時間があく場合は、「ああ、こいつ神棚の本読めてないんだな……」と思って可哀想な目で見てやって下さい。
ではでは┏○ペコ
→7/31 この本編とは別にキングの買い物(番外)というタイトルで連載の方に番外編ばかり集めて載せますので、よろしければそちらの方へもどうぞ♪