05
《バルデルト王国・城内・宴の間》
ボロボロになったドレスで、宴の間へと繋がる茶色い扉の前にリリアは裸足で立っていた。その姿がキリヤの恥に繋がる可能性もある。けれどリリアはキリヤに任を全うしたこと、そして自らの無事を伝えるために、ただそれだけの勇気をもって茶色の扉を開いた。
シャンデリアの光が眩しい。細めた視界の先には陛下の前に膝をつく第1王女と第1王子の姿がある。
その周囲に立つ貴族は好奇の視線をその2人に向けていたが、リリアが扉を開けると目標をすぐに変えてしまった。
「あれが、第7師団団長……」
「シャルロット王女とキリヤ王子が一目置く騎士か……」
小さな声がリリアの周囲を取り巻き始める。彼らから刺さる視線は快いものではない。刺客の始末でみすぼらしくなった姿は決して貴族の目によいものとしては映らない。美しい顔もくないの傷で血が滲み、元のリリアの美しさが半減してしまっている。
「リリ……」
リリアのいる場所からキリヤはまだかなり遠くの場所に膝をついている。そんな彼の呟く声が聞こえるはずはないが、彼の薄く開いた口がリリアを呼んだような気がして、リリアは周囲の視線をすべて無視して一歩ずつ前へと足を進めた。
静かに歩み寄り、キリヤ王子の1メートル手前で立ち止まる。するとキリヤ王子はゆっくりと立ち上がり、代わるようにしてリリアがその場に膝をついた。
リリアに向かう視線は貴族の好奇のものだけではなくなる。陛下や第2位以下の王子王女殿下、デリウスもシャルロット王女もみんながリリアを見ている。
でもリリアが返すのはただ一人、黒に包まれた王子の視線だけ。
「リリア・ベルフェルト。キリヤ王子殿下の命を狙った盗賊一味計8人を捕縛。現在、ラスターク総団長及び我が第7師団シュノ副団長が後の始末を行っているところにございます」
ボロボロの姿のまま、リリアがキリヤに伝える。その報告を聞いた周囲は女騎士がただ1人で8人の盗賊を捕縛したことへの感嘆の声を漏らし始めていた。
シャルロット王女もデリウスも安堵するように肩を撫で下ろし、陛下もリリアへの認識を改める。
「よくやった、リリア・ベルフェルト」
陛下からのありがたい言葉に、リリアは深々と首を垂れる。そうして陛下はデリウスを呼び寄せ、王子を狙った盗賊一味の処分について緊急の官僚会議を開けと命令を下した。
「リリ」
周囲が再びざわめきに包まれる中、今度こそ紛れることなくキリヤの声がリリアの耳に響く。
「キリヤ、王子……」
「陛下。私は自らの関わる事柄ですので、階下に向かい、事の次第をこの目で確認しに向かいます」
キリヤは陛下に向かい、頭を下げる。王子であるキリヤが行っては危ないという声も貴族側からあったが、キリヤはそれを爽やかな笑顔でかわす。
「ここにいる騎士が、私を護り抜く。その心配はない」
最初からキリヤは反論など聞く気もない。有無を言わさぬ声音でキリヤは告げ、リリアを連れて宴の間を颯爽と出て行った。
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《バルデルト王国・城内・廊下》
「キリヤ王子。ラスターク団長たちがいるのはそっちじゃないです」
キリヤに連れられるリリアはキリヤの手を引いて、逆方向を進んでいることを伝えるのだが、キリヤは歩みを止めない。
「キリ……」
「ラスたちのところへ行く前に、寄り道」
キリヤは振り向かないまま、静かにそう言ってしばらく歩いた先の部屋の扉を開ける。そしてキリヤに手を引かれたまま、リリアは暗い広々とした部屋の中に連れ込まれた。
「キリヤ王子! ちょっと、これは……」
「さっきの続き、俺は忘れてない」
暗い部屋でもキリヤの顔はしっかりと見える。暗闇よりも暗い漆黒の髪も瞳もリリアの瑠璃色の瞳を一瞬で釘付けにする。
「リリ、怪我してる」
リリアの頬の傷口に唇を寄せながら、キリヤが囁く。キリヤの香りを直に感じて、リリアの体は熱くなった。
「……っ、王子殿……」
「ダメ。その呼び方は禁止」
そう言ってキリヤはリリアが彼を拒むために突き出した手を絡めとる。キリヤから逃げることのできないリリアは首を横に振るが、キリヤはリリアを離そうとはしない。
「リリ、ごめん。俺のせいで傷ばかり作らせて」
リリアが目を伏せると、キリヤがリリアの頬に滲む血を舐める。そのくすぐったい感触と恥ずかしさに、リリアの心臓は破裂しそうなくらいに脈を打った。
「キリヤ王子。もうこれ以上はダメです、本当に」
「嫌だ。今は誰も見てないだろ」
リリアの腕を掴むキリヤの手に力がこもった。キリヤはリリアの頬に寄せた唇を今度はリリアの唇へと近づける。息のかかる距離で止まったキリヤがリリアの潤む瞳をもう一度覗き込んできた。
「リリ、俺を見て」
キリヤが熱を帯びた瞳でリリアを見つめる。その顔は7年ものあいだ何度も見てきた、キリヤがリリアを求めてくれる時の顔。
でもいつかその顔を見れなくなる日が必ずくる。
「……私は、騎士です。キリヤ王子。あなたは王子で……」
いつか他国の王女と、あるいは有力な伯爵令嬢を妃にもらう。今向けられる視線が他の者に向けられること。それが、何より怖い。
「そうだ。俺は王子で、リリは騎士だ」
伝えられる言葉は残酷なまでに明らかな事実。けれどキリヤはそれを口にしてもなお穏やかで、震えるリリアの肩を抱き、優しく囁いてくれる。
「俺にはリリを護ることなんてできない。リリに護ってもらうことしかできない名ばかりの王子だけれど……それでもリリにはそばにいてほしい」
『キリヤ王子のそばに――』
それはリリアとキリヤの最初の約束で、今もこれから先もリリアが果たすべき誓いだ。
それを思い返すと同時、頭を過るのは捕らえた盗賊の一人が告げた言葉。
『お前……人生間違えてやがる。女だろ……。騎士なんかやらずに、その顔でどこぞの貴族に嫁ぐほうがよっぽど幸せになれるってのによ』
何度も考えた。騎士という選択がこれから先もずっと自分を傷つけることをリリアは分かっている。でもそれでも騎士であり続けるのは、愛おしい黒の王子のそばに居続けるため。
「リリをこの言葉で縛るつもりはないけど……」
そうしてリリアはキリヤから最も近くて遠い騎士という存在になったのだ。
「俺は、リリを愛してる。それはこれから先も変わらない」
決して、その言葉に返してはならない。リリアではキリヤの妃にはなれない。平民出のリリアに許されるのは騎士としてキリヤの前に立つことだけ。それでも、キリヤに伝えられた想いを受けとる狡さくらいは許してほしい。
「……キリヤ王子」
キリヤの唇がリリアの唇と重なり合う。軽く触れ合った唇は徐々に深くなり、リリアは苦しくてキリヤの胸の中でもがいた。
「はっ……あの、苦し……っ」
「ごめん、リリ。久しぶりだから……もうちょっと頑張って」
そう言ってキリヤがリリアを壁に押し付ける。キリヤにされるがままになりながらもリリアはキリヤの胸を掴んで、必死に崩れ落ちそうな足を立たさせていた。
「キリヤ王子……も、う……っ」
意識が遠退き始める。
しかし、腰を抜かしそうになるリリアの耳に、突然扉の開く音が大きく響いた。
「リリア先輩っ! ここですか!?」
リリアのことを探し回っていたらしい副団長シュノが部屋の中に入ってくる。本来ラスタークと後始末をしているはずのシュノがどうしてリリアを探しにきたのか。そんなことにまでリリアの思考は向かわない。
「……っ」
キリヤもいきなり扉が開いたことで食いつくように重ねていたリリアの唇から自らの唇を離し、シュノのことを横目に見る。
「あ、リリア先輩こんなところ……に」
そしてリリアと、リリアを囲うようにして顔を寄せているキリヤ王子の姿を見たシュノは言葉をやめる。2人が今何をしていたのか察したらしく、顔を真っ赤に染め上げた。おそらくキリヤに翻弄されていたリリアと同じくらいには赤い。
「なんだ、シュノか。なら問題ないな」
顔を赤くして慌てた様子で頭をグルグル回しているリリアとシュノとは違い、キリヤは冷静に言葉を放つ。
そしてあろうことか、シュノがいまだそこにいるというのに再びリリアにキスをし始めた。
「……っ!?」
シュノがリリアとキリヤの関係を知っているとはいえ、シュノの前でキスを再開するなど予想外すぎてリリアは抵抗するのを忘れていた。
「わぁぁあっ、す、すみません! 邪魔ですよね! すぐ消えます!」
「ちょ、やめ……やめ、やめろーーーっ! この変態王子がーーっ!」
慌ててシュノが出て行き、いろいろこの状態の問題性を悟ったリリアはキスをやめないキリヤを突き飛ばし、昼と同じく鉄拳を振り下ろした。
「いってぇ……リリ! 待て、おい!」
「他人のいる前でキスするとかありえないですよ! 大嫌いです! このバカ王子!!」
この身のすべてをたった1人の王子に捧げる。
その気持ちは恋よりも大きな忠誠のもとに――。
【完】
※本当はこの後の物語を書く予定でしたが、他の連載作品が立て込んでいるため、ここでいったん完結とさせていただきます。
また書く機会があれば、改稿版として掲載していきたいと思います。
読んでいただき、ありがとうございました。