第7話 はじめての炊飯
狼との死闘を終えた俺は、その場に座り込んだまましばらく動くことができなかった。
初めて命を奪ったという事実は思っていた以上に重く、まだ幼い体には精神的な負担も大きかったが、それ以上に疲労が限界へ近付いていたことも理由の一つだった。
日は既に傾き始めている。
森の中で夜を迎える以上、休める場所を探さなければならない。
俺は何とか立ち上がると、倒した狼へ視線を向けた。
前世の知識では狼の肉も食べられないことはないと聞いたことがある。
しかし問題は解体だった。ナイフ一本でできることはできるかもしれないが簡単な話ではない。
そもそも俺は前世でも動物を解体した経験など一度もないし、今世でも当然ながらそんな教育は受けていない。
試しに腹の辺りへナイフを当ててみたものの、どう切ればいいのかすら分からず、下手をすれば肉まで駄目にしてしまいそうだった。
「無理だな……」
結局、俺は諦めることにした。
もったいないとは思う。食料事情を考えればなおさらだ。だが素人が無理をして病気になる方が危険だった。
今の俺は一人だ。熱を出して寝込んだら、それだけで死に繋がる可能性がある。
俺は狼の死体へ小さく頭を下げると、その場を離れることにした。
しばらく森の中を歩きながら周囲を警戒する。同じ群れの狼が戻ってくるかもしれないし、他の獣が寄ってくる可能性もある。足跡や糞の跡を避けながら進んでいると、小川の近くに比較的開けた場所を見つけた。周囲には大きな岩があり、背後を守れる。水も確保できる。何より見通しが良い。
「今日はここにしよう」
そう決めると、俺は荷物を下ろした。まずは火を起こす準備だ。
幸い、街へ出る前に火打石を用意していた。旅をするなら必要になると思ったのだ。
枯れ枝を集め、細い枝を組み、火打石を打ち合わせる。だが当然ながら簡単にはいかない。
火花は散る。しかし燃えない。何度も挑戦する。失敗する、また挑戦する。
手は痛くなり、額には汗が浮かぶ。それでも諦めなかった。
せっかく飯盒を作ってもらったのだ。今日はどうしても米を炊きたかった。
十分ほど格闘した頃だろうか。ようやく火種が生まれた。慎重に息を吹きかけるると小さな煙が上がる。さらに息を吹く。赤い光が広がった。そして次の瞬間、ぱっと炎が立ち上がる。
「できた……!」
思わず声が漏れた。
たったそれだけのことなのに、まるで魔法を成功させたような達成感があった。
ちらりと異母弟のスキルが頭をよぎったがないものねだりである。
火が安定したのを確認すると、次は飯盒の準備に取り掛かる。
実は森へ入る前から少しずつ籾を脱穀していた。
離れで飢えを凌ぐためにもやっていた作業だが、今ではすっかり慣れている。
すり鉢で籾を擦り、殻を取り除き、玄米を集める。
地道な作業を続けた結果、気付けば二合ほどの玄米が確保できていた。
量としては決して多くない。しかし今の俺にとっては宝石より価値がある。
その玄米を事前に水で洗い、浸水させておいたのだ。
蓋を閉める。そして焚き火の上へ置いた。後は待つだけだ。とは言うものの、ただ待っているのは落ち着かなかった。
そこで俺は再びスキルを使うことにした。どうせ暇なのだ。明日のための米を用意しておいて損はない。
いつものように意識を集中する。すると目の前へ籾が現れた。見慣れた光景だった。
だが――。
「ん?」
俺は首を傾げた。何となくだが量が増えている気がする。
気のせいだろうか。毛布の上へ広げて眺めてみる。
そして思い出した。それは離れで初めて出した時の量だ。
あの時は本当に両手いっぱい程度しかなかった。
だが今はどうだろう。明らかにそれ以上ある。
「増えてる……?」
心臓が少し高鳴った。何度も見比べる。間違いない。
確実に増えている。劇的な変化ではない。倍になったわけでもない。だが一割か二割程度は増えているように見える。
俺は急いですり鉢を取り出し、脱穀しながら考えた。
もしこれがスキルの成長ならどうだろう。使えば使うほど成長するのかもしれない。
今は籾しか出せない。だが将来的には玄米になるかもしれない。あるいは白米になる可能性もある。
さらに成長すれば炊いた状態で出せたりするのだろうか。
そこまで行けばもはや神業だ。
もちろん想像に過ぎない。だが夢は膨らむ。
少なくとも、このスキルは完全な外れではない。むしろ俺にとっては最高のスキルかもしれない。
そんなことを考えていると、飯盒から小さな音が聞こえ始めた。
ぐつぐつと水が沸騰する音。
湯気が立ち上る。
俺は慌てて火加減を調整した。
前世で何度かキャンプ動画を見たことがある。
確か中盤は強火で、その後は弱火だったはずだ。
はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、じゅうじゅう吹いたら火をひいて、赤子泣いてもふた取るな。である。
時間が経つ。焦げていないだろうか、失敗していないだろうか、不安で仕方ない。
だが蓋を開けるわけにもいかなかった。
ひたすら待つ。そしてようやく火を止める。後は蒸らしだ。
この時間が長く感じた。
早く食べたい。早く結果を知りたい。胸の奥が落ち着かない。
やがて十分ほど経過した頃、俺は意を決して飯盒へ手を伸ばした。
蓋を持つ。ゆっくりと開ける。
そして――。
「……あ」
言葉を失った。白ではない。玄米だから当然だ。少し茶色い。それでも確かに米だった。
炊き上がった米だった。湯気が立ち上る。香りが鼻をくすぐる。懐かしい匂いだった。
前世で毎日のように嗅いでいた匂い。当たり前すぎて気にも留めなかった匂い。気付けば頬を涙が伝っていた。
「食べたかったんだよな……」
自然と声が漏れる。病室の天井、点滴、痛み、食べたいのに食べられない苦しみ。
全てが脳裏を過ぎった。
俺は震える手で玄米を口へ運ぶ。
噛む。飲み込む。そしてまた食べる。
「うまい……」
それ以外の言葉が出てこなかった。
高級料理ではない。味付けもない。塩すらない。それでも人生で食べたどんな料理より美味しく感じた。
涙を流しながら夢中で食べる。飯盒の中身がどんどん減っていく。気付けば最後の一粒まで平らげていた。
腹が満たされる。心も満たされる。久しぶりだった。こんな気持ちは。
前世で病気になってから忘れていた感覚だった。
食べる喜び。生きる喜び。未来への希望。それらが飯盒一つから湧いてくる。
不思議な話だった。
食後、俺は焚き火を見つめながら小さく笑った。逃げて正解だった。
あのまま離れに残っていたら死んでいただろう。
今こうして生きているのは、自分で決断して動いたからだ。
もちろん先のことは分からない。
金もない、家もない、身分を証明するものもない。
だが米はある。スキルもある。
そして何より生きる意思がある。
「案外何とかなるかもしれないな」
焚き火へ薪をくべながら呟く。返事はない。だが星空は綺麗だった。
俺は毛布へくるまると、飯盒を抱くようにして横になった。
明日は森を抜ける。そして次の街を目指す。
不安はある。それでも足は止めない。米を食うために。生きるために。
そんなことを考えながら、俺は久しぶりに穏やかな眠りへ落ちていった。




