第6話 脱走
離れへ移されてから五日が経っていた。
最初の二日間こそ最低限の食事が運ばれてきたものの、それ以降は誰一人として姿を見せなくなり、朝になっても昼になっても夕方になっても扉が開くことはなく、俺はようやく自分が忘れられたのではなく意図的に放置されているのだと理解した。
もっとも、完全に何も食べていなかったわけではない。
俺にはスキルがあった。
米。
教会で表示された、俺にしか読めない日本語の一文字。
その力で生み出せるのは、今のところ両手いっぱい程度の籾だけだったが、それでも何もないよりは遥かにましだった。
俺は毎晩少しずつ籾を出し、それを手作業で脱穀していた。
すり鉢上で籾を擦り、殻を剥き、一粒一粒を選別する。
とても効率が良いとは言えない作業だったが、他に方法はない。
そうしてようやく集めた玄米を口へ運ぶ。
当然ながら炊いてはいない。
生のままだ。
固くて食べにくく、味もほとんどない。
それでも米だった。
前世で最後まで食べたかったもの。
病室の天井を見上げながら願い続けたもの。
そんな米を今こうして食べている。
皮肉な話だった。
だが、そのおかげで俺は生き延びることができた。
そして同時に確信した。
このまま離れに居続ければ、いずれ本当に死ぬ。
今はスキルがあるから生きていられるだけで、子供の体に必要な栄養を賄える量ではないし、何よりこの先さらに状況が悪化する可能性もある。
ならば選択肢は一つだった。
逃げる。この家から。この領地から。俺を不要と判断した連中から。
逃げて生きる。
そう決めた瞬間、不思議なほど心が軽くなった。
前世では逃げたくても逃げられなかった。
病気からも、死からも。
だが今は違う。
足が動く。体も動く。だったら動けばいい。
俺は夜になるのを待ち、少ない荷物をまとめ始めた。
食料らしい食料は少量の玄米以外ない。しかし何も持たずに出るよりはましだった。
窓から外を見る。見張りはいない。というより、最初からいなかった。
役立たずスキルを持つ五歳児など逃げるはずがないと考えていたのだろう。
俺は窓から静かに外へ降り立つと、一度だけ離れを振り返った。
そこに未練はなかった。
飢え死にを待つ場所など家ではない。俺はそのまま夜の闇へ紛れ、屋敷を後にした。
◇◇◇
空が白み始めた頃には街の近くまで辿り着いていた。
慣れ親しんだ景色だった。
幼い頃から何度も歩いた石畳。
市場へ続く通り。
朝早くから準備を始める商人たち。
そして俺を可愛がってくれた領民たち。
もしかすると、これが最後になるかもしれない。
そう思うと自然と足取りが重くなった。
だが、やるべきことは残っている。
俺は真っ先に鍛冶屋へ向かった。
工房からは既に金属を叩く音が響いている。
「親方」
声を掛けると、大男が振り返った。
「おう、坊ちゃんじゃねえか」
相変わらず豪快な笑顔だった。
その顔を見ただけで少し安心する。
「頼んでた物、できてる?」
「ああ、できてるぞ。しかし朝早いな、どうしたんだ?」
「実は急ぎで遠くの領地に行くことになってね」
「そいつはまた難儀だなぁ」
親方は工房の奥から金属製の容器を持ってきた。
飯盒だった。
前世でキャンプ用品として使われていた物にかなり近い形をしている。
俺は思わず目を輝かせた。
「すごい……」
「変な注文だったが面白かったぞ」
親方は笑う。
俺は飯盒を受け取りながら深く頭を下げた。
「ありがとう」
「気にするな。それより本当に遠くへ行くのか?」
俺は頷いた。
もちろん嘘だ。
だが本当のことは言えない。
離れに閉じ込められ、食事を止められたから逃げるなどと言えば大騒ぎになるだろう。
「父上の命令なんだ」
「そうか」
「遠くの領地で勉強することになった」
親方は少し寂しそうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
貴族の事情に深入りしないのが彼なりの気遣いなのだろう。
◇◇◇
その後、俺は街を歩いて回った。
八百屋のおばさんにも、パン屋のおじさんにも、農家の人たちにも別れを告げた。
皆驚いていた。そして残念そうにしていた。
「坊ちゃんがいなくなると寂しいねえ」
「向こうへ行っても元気でな」
「立派な貴族様になるんだぞ」
その言葉を聞く度に胸が痛んだ。俺は立派な貴族になどならない。そもそも帰る場所がない。だが、それでも笑顔で頷いた。心配を掛けたくなかったからだ。
最後に広場へ立ち寄り、噴水の前で立ち止まる。
母と一緒に来たことがある場所だった。
母はいつも優しかった。
領民に笑いかけ、子供たちと話し、誰に対しても分け隔てなく接していた。
だからこそ皆に慕われていた。
そして、だからこそ母が死んだ後のこの街は少し寂しくなった気がする。
「行ってきます」
誰に向けた言葉だったのかは分からない。だが、言わずにはいられなかった。
◇◇◇
昼過ぎには街を離れ、森へ足を踏み入れていた。
人の気配は徐々に減り、代わりに木々のざわめきや鳥の鳴き声が耳に届くようになる。
俺は背のうを背負いながらひたすら歩いた。
目指す場所は決まっていない。
ただこのサンヒエロ王国のどこか遠く。できれば父の影響が及ばない場所。それだけだった。
夕方になる頃には足が重くなっていた。休めそうな場所を探そうと思ったその時だった。
森の奥で何かが動いた。獣だ。直感的にそう分かった。
そして次の瞬間、灰色の影が飛び出してくる。
狼だった。しかも一匹ではない。
三匹。
完全に囲まれている。背筋に冷たいものが走った。
五歳児が勝てる相手ではない。だが逃げることもできない。
狼たちは低く唸りながら距離を詰めてくる。獲物を仕留める目だった。
俺は震える手でナイフを握った。生まれて初めての命のやり取りだった。前世では経験したことがない。
恐怖で足が竦む。それでも生きたい。死にたくない。その気持ちだけははっきりしていた。
一匹が飛びかかる。
その瞬間、俺は反射的にスキルを発動した。
「出ろ!」
大量の籾が狼の顔面へばら撒かれる。
籾殻は小さく軽い。碌なダメージにはならないだろう。だが目に入れば話は別だ。
狼は悲鳴を上げながら地面を転げ回った。
俺自身も驚いた。だが好機だった。迷っている暇はない。
俺は飛び込み、ナイフを握り締め、そのまま狼の胸元へ突き立てた。
温かい血が飛び散る。狼が暴れる。だが離さない。離したら俺が死ぬ。
必死だった。
気が付くと狼は動かなくなっていた。
残る二匹は警戒したように後退し、やがて森の奥へ消えていく。
静寂が戻った。
俺はその場にへたり込む。
全身が震えていた。
怖かった。本当に怖かった。だが生きている。生き残った。それだけは確かだった。
俺は狼の死体を見下ろしながらゆっくりと立ち上がる。
ここから先はもっと厳しいだろう。
だが、それでも進むしかない。
俺にはもう帰る場所がないのだから。
背のうを背負い直し、ナイフを腰へ戻す。
そして暗くなり始めた森の奥を見つめた。
自由は手に入れた。だが自由には責任が伴う。
本当の試練は、きっとここから始まるのだろう。
それでも俺は前を向いた。
もう二度と死ぬつもりはなかった。




