第18話 広がる噂
ガルドが村を去ってから一か月ほどが経った。
季節は初夏。
田植えを終えたばかりの田んぼには小さな苗が整然と並び、水面には青空が映り込んでいる。
今年の田んぼは昨年よりさらに広い。
村人たちも慣れたもので、今では誰かが指示しなくても自然と役割分担ができるようになっていた。
最初の頃を思えば大きな進歩だった。
「セシル、こっちは終わったぞ」
「ありがとうございます」
「次は向こうか?」
「はい」
返事をしながら田んぼを見回す。
順調だった。
少なくとも今のところは。
もっとも、田植えが終わっただけで安心はできない。
去年それを嫌というほど学んでいる。
雑草も生える。
虫も来る。
水の管理も必要だ。
収穫まで気を抜けない。
◇◇◇
そんなある日のことだった。
村の入り口が妙に騒がしくなった。
子供たちが走り回り、大人たちも集まっている。
「また商人か?」
そう思いながら向かうと、案の定馬車が停まっていた。
だが見覚えのある馬車ではない。
ガルドではなかった。
知らない商人だった。
「誰だ?」
村長も首を傾げている。
男は俺たちを見ると笑顔を浮かべた。
「初めまして」
「この村で米を作っていると聞いて来た」
その言葉に俺と村長は顔を見合わせた。
嫌な予感がした。
◇◇◇
話を聞くと、男は隣町の商人だった。
そしてガルドから米の話を聞いたという。
「正直、最初は信じなかった」
男は笑う。
「だが実際に食べたという客が何人もいたんだ」
「客?」
「ガルドが売ったらしい」
なるほど。
試験販売した分か。
量は少なかったはずだ。
それでも噂になるには十分だったらしい。
「美味い穀物がある」
「初めて食べる味だ」
「腹持ちがいい」
そんな話が少しずつ広がっているらしい。
俺は少しだけ頭を抱えたくなった。
思ったより早い。
◇◇◇
その商人にも試食をさせた。
反応はガルドとほぼ同じだった。
「これは売れるな」
開口一番がそれだった。
「そんなにですか?」
「そんなにだ」
断言された。
どうやら俺の感覚と商人の感覚には大きな差があるらしい。
俺にとって米は当たり前の食べ物だ。
だがこの世界の人間にとっては違う。
未知の穀物。
しかも美味い。
商売になるのは当然なのだろう。
◇◇◇
その日以降、似たようなことが何度も起きた。
別の商人。
旅人。
冒険者。
噂を聞きつけた人間が少しずつ村へやって来るようになった。
全員の目的は同じ。
米だった。
「見せてくれ」
「食べてみたい」
「売ってほしい」
そう言われるたびに俺は苦笑するしかなかった。
なにしろ在庫がない。
村人たちが食べる分も必要だ。
種籾も確保しなければならない。
大量販売など到底無理だった。
「来年以降ですね」
その言葉を何度言ったか分からない。
◇◇◇
ある日の夕方。
俺は村長と二人で話していた。
「増やすしかないな」
村長が言う。
「そうですね」
「まさかここまでとは思わなかった」
「俺もです」
正直な感想だった。
米は美味い。
それは知っている。
だがここまで反応が良いとは思わなかった。
前世では当たり前すぎて価値を感じなかったものが、この世界では高級品のような扱いを受けている。
不思議な気分だった。
◇◇◇
「ところでセシル」
「なんです?」
「お前、本当に何者なんだ?」
突然の質問だった。
思わず固まる。
村長は笑っていた。
だが半分は本気だろう。
「十歳の子供が作物を持ち込んで村を変えた」
「普通じゃない」
「そうですね」
否定はできなかった。
「だが聞かん」
村長は続ける。
「お前が話したくなったら話せ」
「それまでは村の仲間だ」
俺は少し驚いた。
そして嬉しかった。
この村へ来た頃なら考えられない言葉だった。
「ありがとうございます」
自然と頭を下げていた。
◇◇◇
その夜。
家へ戻った俺は一人で考えていた。
米の噂は広がっている。
予想以上の速度で。
今は近隣だけだろう。
だがこのままいけばもっと遠くへ伝わる。
大きな町。
さらにその先。
もしかすると貴族の耳に入る日も来るかもしれない。
そこまで考えて、ふと伯爵家のことを思い出した。
離れに押し込められていた日々。
父親。
継母。
アラン。
もう何年も会っていない。
会いたいとも思わない。
だが完全に忘れたわけでもなかった。
「……まあ、いいか」
今の俺には関係ない。
そう思うことにした。
窓の外では夏の風が吹いている。
田んぼには月明かりが降り注いでいた。
俺は知らない。
米の噂が広がることで、少しずつ運命の歯車が動き始めていることを。
そして遠く離れた場所で、その噂に興味を持つ者が現れ始めていることを。
まだ誰も知らない未来へ向けて、米と共に俺の名も少しずつ広がり始めていた。




