最も非効率な救出と保護の制約
過酷な二十二時間の修復作業の末、セクター7全域の中継器はようやく仮の安定を取り戻しました。しかし、アレンの「仕事」はまだ終わっていません。修復によって整流された魔力は、壁の奥に潜む「不自然なノイズ」を白日の下に晒しました。設計時の仕様ではなく、何者かによる悪意ある改ざんの痕跡。さて、今回の取引は――「人道的救出」という名の、最も非効率な投資について。
「壁の向こうに、何かがある」
僕は冷却晶管の仮修復を終えた中継器から手を離し、背後の石壁を睨んだ。
正常稼働を取り戻した冷却系の低い駆動音の中、その壁だけが、周囲の物理法則を無視するように異様な存在感を放っている。
「どういうことですか。構造図面上、この中継器の背後はただの岩盤のはずですが」
眼鏡の奥の瞳を細め、セイラが壁へと近づいた。彼女の索敵術式が起動し、淡い銀色の光が壁面をなぞる。しかし、光は石材の表面で滑るように弾かれた。
「物理的な磨耗や崩落じゃない。魔力回路のパターンが、この一点において不自然な歪みを見せている。精密な魔力偽装を施された、厚い隔壁だ」
僕は『構造分析』を走らせた。
視界に淡いグリッドが重なり、壁の内部構造が透過して視覚化される。磨耗一つない回路のパターンが、現実の石材と見事に重なり合っている。だが、その過剰なまでの整合性こそが非論理的だ。
「なるほど。…システムに『解放』を誤認させてやる」
僕は壁面に手を触れ、特定の術式ノードに干渉した。物理的な鍵ではなく、論理的なエラーを誘発させて回路の処理をわずかに遅延させる。
重い駆動音と共に、石壁が滑るように横へとスライドした。
暗い隙間から漏れ出してきたのは、今まで地下室を満たしていた汚濁した魔力とは正反対の、透き通るような青い光だった。
「……ねえ、何なの、これ」
僕たちの背後で、階段から降りてきたミーナが息を呑む音がした。
「奥があるな。ついてきてくれ」
僕たちは慎重に足を踏み入れた。
隠された部屋の中央には、無数の魔導ケーブルに接続された円筒形のポッドが鎮座していた。透明な強化ガラスの向こう側、淡い液体に満たされた装置の中で、一人の少女が眠っている。
陽光を思わせる金色の髪が水中に広がり、その白い肌を包んでいた。彼女の静かな呼吸に合わせて、部屋中の魔力回路が淡く明滅を繰り返している。
僕は装置に歩み寄り、コンソールの情報を冷静に分析した。
状況は予想以上に悪い。これは単なる生命維持装置ではない。少女のバイタルグラフが、屋敷の管理システムと完全に同期している。
彼女の存在そのものが、この屋敷の広大な魔力回路を制御し維持するための『生体部品』として定義されていたのだ。
「……ひどい。こんな、人間を機械の部品にするなんて、信じられないわ……」
隣に立つミーナの声が震えている。正義感の強い彼女には、この光景は到底受け入れがたいものなのだろう。
「……信じ難い設計思想です」
セイラが眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに、だが明確な嫌悪を滲ませて言った。
「生体ユニットへの過負荷を前提とした、使い捨ての魔導回路。倫理観が欠如しているのはもちろん、システムとしても極めて非効率で脆弱です」
「感情を挟む余地はない。さっきの魔力中継器の修復が間に合わなければ、過負荷による魔力逆流で、彼女の脳は今ごろ完全に焼き切れていたはずだ」
僕は淡々と事実を告げた。石壁の隙間から伸び、ポッドへと接続されている太い魔導ケーブルを指で辿る。
「……いや、待て。この構造、おかしいな」
「何が?」
「あの通路だ。単なる隠し部屋への入り口にしては、魔力的な遮蔽が厚すぎると思っていたが……僕がさっきまで行っていた『冷却系の再起動』が、結果としてこの装置に直接エネルギーを流し込む形になっている」
僕が良かれと思って施した応急処置。それが、休眠状態になりかけていたこの残酷なシステムを、再びフル稼働させてしまったのだ。
「皮肉だな。僕の『修理』が、この少女をより深くシステムの一部として固定してしまったわけだ」
「アレン。冷却系の出力が、ポッドの許容限界を超えようとしています。このままでは——」
セイラが警告を発するのと同時に、ポッド内の液体が微細な泡を立て始めた。
「そんな……じゃあ、今すぐ止めなきゃ!」
「待て。動くな。……構造分析」
僕は再び視覚を切り替えた。
透過された視界の中で、少女の胸元に奇妙な術式が刻まれているのが見えた。
『出力先:メイン制御基板。起動条件:負債が零になった時』
意味が分からない。莫大な借金を抱え、行政から見捨てられたこの屋敷に、そんな日が来るとは思えない。
「最悪のタイミングで、最悪の扉を開けちまったな」
僕は内心で毒づき、右手に握った魔導工具の感触を確かめた。
ポッドの基部に手を触れる。冷たい金属の感触。だが、その内部を流れる魔力の拍動は、あまりに生々しく、不規則だ。老朽化した接続部からは、制御を失いかけた不安定な魔力が、青白い稲妻となって絶え間なく漏れ出し始めている。剥き出しの術式が空気を焼き、オゾンの臭いが鼻を突いた。
「アレン! あれは……」
ミーナが叫ぶ。
「ああ。僕がシステムを再起動した反動で、このポッドそのものが過負荷を起こしかけている。このままじゃ、あと数分でこの部屋ごと吹き飛ぶぞ」
物理的な遮断線を引き抜けば、この「装置」の崩壊を招くだけだ。少女をシステムから強制的に切り離せば、その瞬間に屋敷全体の魔力が彼女の肉体を経由して一気に逆流し、内側から焼き尽くすだろう。
「単なる救出じゃ足りない。……『身代わり』が必要だ」
「身代わり?」
「まさか、貴方自身の演算領域を、このシステムの代替回路として接続するつもりですか? それでは貴方が——」
セイラが珍しく声を荒げた。
「ミーナ、セイラ。下がっていろ。……これから、最高に非効率な救出を始める」
僕は火花を散らすコンソールへ、躊躇なく左手を叩きつけた。剥き出しの端子が掌の皮を焼き、焦げた肉の臭いが鼻を突く。痛覚を無視し、僕は脳内の『構造分析』を臨界まで加速させた。
コンソールを通じて、僕の意識がポッドの深層回路へダイブする。
「生命維持という偽装命令を棄却」
僕自身の魔力リソースと演算能力の一部を、この少女の「保護」に割り振る。システムに対して、僕自身を新たな「循環の担保」として提示するのだ。
「システム権限を強制取得。全回路、開放」
脳を焼くような電子の悲鳴が止み、代わりに重厚な駆動音が地下室を支配した。
プシュッ、と高圧の蒸気が噴き出す音が響く。
円筒形のガラスが静かにスライドし、内部を満たしていた淡い光の液体が、僕の足元へと溢れ出した。
膝から崩れ落ちる金色の髪の少女の、折れそうなほど細い肩を、僕は右手で反射的に支えた。
冷たい液体が僕の靴を濡らし、静寂が戻りかけた視界の中に、僕が作り出した「新たな制約」のウィンドウが浮かび上がる。
『守護対象:金色の髪の少女「アルナ」。演算リソースの一部を常時制限』
横から差し込まれた強い力が、膝から崩れかけた僕の身体を支えた。ミーナの肩越しに、焦げた革と微かな汗の匂いが鼻を突く。
「……ちょっと、しっかりして! アレン、あんた左手が――」
「……極めて愚かな代償です」
セイラが僕の焦げた左手を見下ろし、厳しく、しかし微かに声の語尾を震わせて言った。
「……計算の内だ」
炭化したように黒ずんだ左手を見下ろし、僕は短く答えた。力尽くでミーナに肩を貸させ、僕たちは崩壊を免れた地下室を後にした。
埃の積もった一階の寝室。
僕は腕の中に残る、羽毛のように軽い重みを、古びたベッドへと下ろした。
金色の髪の少女は、シーツの白に紛れて消えてしまいそうなほど、その存在感が希薄だ。僕の能力は、単なる「構造の修理」から「守るための最適化」という、より重い十字架を背負うことへと変質していた。
少女をシステムの「部品」として定義する設計は、効率のみを追求した非人道的なコストカットの極致と言えます。アレンが選んだ「保護」という新たな制約は、自身の演算リソースを担保に入れる「デポジット」に近い行為。合理性を信条とする彼が、あえて選んだ不採算な選択。そのスキルの変質が、今後の「運用」にどう影響するのか。




