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第9話 数字が弾き出す絶望

第9話 数字が弾き出す絶望


 冷たい雨が降っていた。


 十一月の空は重く垂れ込み、安ビジネスホテルの窓ガラスを細かな雨粒が叩いている。


 和也は狭い部屋の椅子へ座ったまま、両手で頭を抱えていた。


 部屋には湿ったカーペットの匂いがこもり、薄い壁の向こうからは誰かの咳払いが聞こえる。


 昨夜まで、自分たちはあの広い家にいた。


 床暖房。


 広い浴室。


 吹き抜けのリビング。


 今は、窓も小さい安ホテルの一室。


 その落差が、和也の神経をじわじわ削っていた。


「全部あんたのせいだからね」


 ベッドへ腰掛けた美奈が吐き捨てる。


 目の下には濃い隈ができていた。


「なんで契約書なんかちゃんと確認しなかったのよ」


「お前だって読んでなかっただろ!」


「普通あんなの本気でやると思わないじゃん!」


 美奈はヒステリックに声を荒げた。


 その横で、美奈の母が苛立ったようにため息をつく。


「ほんと最悪」


「お父さんなんて腰痛くて寝れなかったのよ、このベッド硬すぎて」


「私たちまで巻き込まれて」


 責める声ばかりだった。


 和也は唇を噛む。


 頭の中では、神楽の声が何度も蘇っていた。


『不法占拠』


『損害賠償請求』


『契約解除』


 そして。


『裁判になれば、家賃相当額の不当利得も請求します』


 数字が浮かぶ。


 相場家賃。


 月四十万。


 数ヶ月分。


 さらに慰謝料。


 弁護士費用。


 和也の背筋を冷たい汗が流れた。


「裁判やるから」


 突然、美奈が言った。


「絶対訴える」


「……勝てるのか?」


「勝てるに決まってるじゃん! 家族なんだよ!?」


 その時だった。


 机の上のスマートフォンが震えた。


 神楽法律事務所。


 和也の喉が鳴る。


「……出て」


 美奈が睨む。


 和也は震える指で通話を押した。


「……もしもし」


『神楽です』


 低く冷たい声。


 雨音よりも、その声のほうが冷たかった。


『通知内容について、ご確認いただけましたか』


「先生……あの……」


『なお、本日までに退去確認が取れない場合、追加請求へ移行します』


「ちょっと待ってください!」


 和也は思わず立ち上がった。


「裁判とか、本当にやるつもりですか!?」


『もちろんです』


 迷いのない即答。


 和也の背筋が凍る。


「でも母さんだって……!」


『薫子先生は正式な契約に基づき動いています』


「こんなの異常だ!」


『異常なのは、四十度近い高熱の老人を置き去りにして温泉旅行へ行ったことでは?』


 和也が黙る。


 電話越しに紙をめくる音が聞こえた。


『防犯カメラ映像、時刻記録、旅行中のSNS投稿、現地決済履歴、すべて保全済みです』


 美奈の顔が引きつる。


『加えて、契約書にはあなた方の署名捺印があります』


「そんなの脅しでしょ!?」


 美奈が電話へ怒鳴った。


『どうぞ裁判を起こしてください』


 神楽の声は冷え切っていた。


『その場合、公開法廷で詳細を説明することになります』


「……っ」


『高熱の母親を放置した事実も含めて』


 沈黙。


 重い沈黙。


 雨音だけが続く。


 そして神楽は最後に静かに言った。


『なお、勤務先への照会も法的手続き上必要になる可能性があります』


 和也の顔色が変わった。


「会社……?」


『給与差押えの可能性がある場合、当然です』


 電話が切れた。


 部屋の空気が完全に凍る。


「……やばい」


 和也の声は震えていた。


「会社に知られたら終わる……」


「何それ」


 美奈が青ざめる。


「いやよ、そんなの!」


「俺だって嫌だよ!!」


 和也は頭を抱えた。


 会社では真面目で通っている。


 親孝行の息子としても知られていた。


 それが。


 高熱の母親を放置して訴えられている。


 そんな噂が回れば、出世どころではない。


 胃が捩れるように痛んだ。


「……お父さん」


 美奈が泣きそうな顔で父親を見る。


「助けてよ……」


 だが、美奈の父は冷たい目をしていた。


「無理だな」


「え……」


「こんな面倒事に巻き込まれるとは思わなかった」


「でも家族でしょ!?」


「だから何だ」


 その声は冷たかった。


「和也くん」


 父親は低く言った。


「君、貯金は?」


「……あまり」


「ローンも?」


「車のローンが少し……」


 父親は呆れたように鼻を鳴らした。


「金のない男に用はない」


 空気が止まった。


「お、お父さん!?」


「だってそうだろ」


 父親は吐き捨てる。


「家も失って、裁判まで抱えて、将来性ゼロじゃないか」


「ちょっと待ってよ!」


「美奈、お前も甘すぎる」


 母親まで冷たい声を出す。


「もっとちゃんとした男選びなさい」


「は……?」


 美奈の顔が歪んだ。


「私のせいって言うの!?」


「少なくとも、薫子さんを怒らせたのはあんたでしょ」


「なによそれ!!」


 怒鳴り声がホテルの狭い部屋へ響く。


 ひまりが隅で怯えていた。


 小さな肩を震わせ、ぎゅっとぬいぐるみを抱き締めている。


「……やめて」


 小さな声。


 だが誰も聞いていない。


「全部あんたが弱いせいでしょ!」


 美奈が和也へ怒鳴る。


「お義母さんにちゃんと言えばよかったじゃん!」


「お前だって散々文句言ってたろ!」


「でも本当に追い出すなんて思わないじゃん!」


「俺だってだよ!!」


 和也も叫んだ。


「母さんがこんなことするなんて……!」


 その瞬間だった。


 和也の脳裏に、病院の白い天井が浮かぶ。


 もし、あのまま死んでいたら。


 自分は何と言い訳しただろう。


 胸の奥が、ずしりと重く沈む。


 だがもう遅い。


 数字は感情を待たない。


 契約は後悔を許さない。


 窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。


 その音はまるで、崩れていく人生を静かに数えているようだった。



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