第8話 パニックの2階席
第8話 パニックの2階席
「何これぇぇ!? お義母さんの家が売られてるってどういうこと!?」
美奈の絶叫が、夕暮れの住宅街に響き渡った。
赤い「売却済」の看板は、冷たい秋風に揺れている。
白い外壁。
見慣れた玄関。
だが、その家はもう、自分たちのものではなかった。
いや――最初から一度も、自分たちのものではなかったのだ。
「和也! なんとか言ってよ!!」
「俺だって分かんねぇよ!!」
和也は額に汗を浮かべながらスマートフォンを握りしめた。
震える指で母へ発信する。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
そして。
『おかけになった電話は――』
無機質な音声。
和也の顔色が変わる。
「……着信拒否?」
「はぁ!?」
美奈が悲鳴を上げた。
「なんで!? なんで私たちが拒否されるの!?」
美奈の母も顔を真っ赤にしている。
「ちょっとどういうことなの!? 薫子さん、頭おかしいんじゃない!?」
「おい和也!」
父親が怒鳴る。
「お前、家のこと何も知らなかったのか!」
「知らねぇよ……!」
「情けない男だな!」
その言葉に、和也の顔が歪んだ。
玄関前の空気は最悪だった。
旅行帰りのスーツケース。
散らばった土産袋。
ひまりだけが不安そうに大人たちを見上げている。
「ママ……おうち、なくなっちゃったの?」
「なくなってない!!」
美奈は半狂乱だった。
「こんなの無効だから!!」
そう叫びながら、美奈は玄関ドアを乱暴に叩いた。
「開けて!! お義母さん!!」
当然、返事はない。
代わりに、秋風が吹き抜けた。
庭のカサブランカが揺れ、白い花弁が一枚、足元へ落ちる。
その時だった。
ガチャ。
二階の電子ロックが反応した。
「あ、開いた!」
和也が叫ぶ。
「とにかく中入ろう!」
一家は慌てて二階へ駆け込んだ。
室内には旅行前の空気がそのまま残っている。
脱ぎっぱなしの服。
ソファに転がるクッション。
キッチンには放置されたマグカップ。
だが、妙に寒かった。
生活の匂いが薄い。
まるで家そのものが、自分たちを拒絶しているようだった。
「とにかく鍵閉めて!」
美奈が叫ぶ。
和也は慌てて施錠した。
カチリ。
その小さな音に、全員が少しだけ安心した。
「警察呼ぶ?」
「いや、呼ぶのはこっちだろ!」
「お義母さん、完全におかしいって!」
美奈はスマートフォンを握りしめ、興奮したまま部屋を歩き回る。
「家族相手にこんなのありえない!」
「落ち着けって!」
「落ち着けるわけないでしょ!?」
ひまりが小さく呟く。
「……おばあちゃん、怒ってるの?」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
だが、美奈はすぐ顔を背けた。
「知らない」
その時だった。
ピンポーン。
インターホン。
全員が固まる。
もう一度。
ピンポーン。
低く、長い音。
「……誰」
美奈の声が震えた。
和也がモニターを確認する。
そこに映っていたのは、神楽だった。
濃紺のスーツ。
冷え切った無表情。
その後ろには、不動産会社の社員が三人。
さらに制服姿の警察官が二人立っている。
「……っ」
和也の喉が鳴った。
「来た……」
「居留守使って」
「無駄です」
インターホン越しに神楽の声が響いた。
「和也さん、聞こえていますね」
低い声だった。
静かなのに、逃げ場がない。
「本日をもって所有権は正式に移転しました」
美奈が顔を歪める。
「うるさい!!」
「契約解除通知も既に到達済みです」
「こんなの認めない!!」
「認める認めないの問題ではありません」
神楽の声は冷静だった。
「契約は既に執行されています」
美奈がヒステリックに叫ぶ。
「家族でしょ!? こんなこと普通しないでしょ!!」
「普通かどうかは関係ありません」
神楽は淡々と言った。
「あなた方は契約条件を破りました」
和也の背中を、嫌な汗が流れる。
脳裏に蘇る。
ソファで苦しそうに息をしていた母。
『……置いていくの?』
あの掠れた声。
だが、和也は頭を振った。
「でも……旅行くらいで……」
「高熱状態の七十一歳を無人の家へ放置した」
神楽の声が冷たく響く。
「それが“扶養義務の放棄”に該当すると、こちらは判断しています」
「そんなの……!」
「防犯カメラ映像、旅行予約記録、SNS投稿、時系列記録、すべて保存済みです」
美奈の顔色が変わった。
旅行中、彼女は楽しそうに投稿していた。
『最高の温泉♡』
『海鮮やばい♡』
『家事しなくていい旅って神♡』
その言葉を思い出した瞬間、血の気が引く。
「……嘘」
神楽は続けた。
「現在、あなた方は不法占拠状態です」
「不法って……!」
「即刻退去してください」
沈黙。
重い沈黙。
外では風が強くなっていた。
窓ガラスがかたかた揺れる。
美奈の父親が怒鳴った。
「こんなの裁判だ!!」
「どうぞ」
神楽は即答した。
「ただし、その場合は損害賠償請求も併せて進行します」
「脅しか!?」
「事実です」
神楽は一歩も引かなかった。
その姿を見て、和也の膝が震え始める。
気づいてしまったのだ。
これは脅しではない。
本当に終わったのだと。
「……母さん」
和也は掠れた声を漏らした。
だが、もう薫子はいない。
助けてくれる母はいない。
尻拭いをしてくれる存在は、もう消えた。
その時だった。
ひまりが小さな声で言った。
「……おばあちゃん、泣いてたよ」
全員が止まる。
「旅行行く時……おばあちゃん、すごく苦しそうだった」
幼い声。
だが、その言葉だけが妙に鋭く空気を裂いた。
和也の顔が歪む。
美奈は視線を逸らした。
その瞬間。
玄関の外から、神楽の最後の声が響いた。
「三十分後、執行手続きに入ります」
静かな宣告だった。
「それまでに荷物をまとめてください」
足音が遠ざかる。
外では冷たい夜風が吹き始めていた。
二階のリビングには、もう誰の笑い声もなかった。




