第7話 帰省、そして消失
第7話 帰省、そして消失
温泉街の空気は甘かった。
硫黄の匂い。旅館の廊下に染みついた畳の香り。夕食で飲んだ日本酒の熱がまだ身体に残っている。
美奈は助手席でスマートフォンを見ながら笑っていた。
「見て見て、お父さん。昨日の舟盛りの写真、めっちゃ映えてる」
「ほんとだ。高級旅館って感じだなぁ」
後部座席では、美奈の母が満足そうに息を吐く。
「久しぶりに贅沢したわぁ」
和也はハンドルを握りながら苦笑した。
「まあ、たまにはいいだろ」
「お義母さんいないと、こういう時ほんと楽よね」
美奈がさらりと言った。
「ひまり預けられるし、家事もしなくていいし」
その言葉に、美奈の両親は声を立てて笑った。
「薫子さん、便利よねぇ」
「ほんとほんと」
車内に笑い声が広がる。
ひまりだけが窓の外を見ていた。
「おばあちゃん、まだ熱あるかな」
「もう平気でしょ」
美奈は軽く言った。
「寝てれば治るって」
高速道路を降りる頃には、夕暮れが街を赤く染め始めていた。
秋の空は高く、薄い雲が長く伸びている。
「やっぱ家が一番よねぇ」
美奈が伸びをした。
「帰ったらお義母さんに洗濯頼まなきゃ」
和也が笑う。
「旅行の荷物やばいもんな」
その時だった。
「あれ……?」
和也の声が止まった。
車が住宅街へ入った瞬間だった。
見慣れた自宅の前。
白い外壁。
手入れされた庭。
その前に、巨大な赤い看板が立っていた。
『売却済』
夕日に照らされた文字が、異様なほど赤く見えた。
「……は?」
和也がブレーキを踏む。
タイヤが砂利を擦る音が響いた。
「えっ、なにこれ」
美奈が顔色を変える。
「売却済って……え?」
全員が車から降りた。
冷たい夕風が吹く。
庭のカサブランカが揺れていた。
だが、どこかおかしかった。
一階の窓。
カーテンがない。
いつも置かれていた薫子の鉢植えも消えている。
「ちょっと待って……」
美奈が震える声を出す。
「なんで家具ないの?」
一階のリビングは、ガラス越しに見ても空っぽだった。
ソファも。
食器棚も。
薫子が大切にしていたアンティーク時計も。
何もない。
白い空間だけが、不気味に広がっている。
「母さん!?」
和也が玄関へ駆け寄った。
鍵を差し込む。
だが。
ガチャ。
開かない。
「なんだよこれ!」
もう一度回す。
開かない。
「和也、どういうこと!?」
「知らねぇよ!」
美奈の父親が苛立った声を出す。
「おい、説明しろ!」
「俺だって分かんないって!」
その時だった。
美奈のスマートフォンが鳴った。
メール受信。
画面を見た瞬間、美奈の顔色が変わる。
「……なに、これ」
「どうした?」
和也も自分のスマートフォンを確認する。
同じメール。
差出人。
『神楽法律事務所』
嫌な汗が背中を流れた。
震える指で開く。
そこには、冷たい文章が並んでいた。
『条件付き使用貸借契約解除通知』
『占有権喪失につき、速やかな退去を求めます』
『なお、現在の占有は不法占拠に該当するため、損害賠償請求を行います』
「……は?」
和也の口から、乾いた声が漏れた。
「なにこれ……」
美奈が青ざめる。
「意味わかんない……!」
その時、郵便ポストが風で揺れた。
ばたん、と金属音が響く。
和也が慌てて開ける。
中には分厚い封筒。
内容証明郵便。
神楽法律事務所。
その文字を見た瞬間、美奈が叫んだ。
「ちょっと待ってよ!!」
美奈は封筒を奪い取るように開封した。
紙の擦れる音。
震える指。
そして。
「契約解除……退去請求……損害賠償……」
声が掠れる。
「なによこれぇ!?」
夕暮れの住宅街に絶叫が響いた。
近所の犬が吠える。
カーテンの隙間から、誰かがこちらを見ていた。
美奈は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ふざけんな!!」
「落ち着けって!」
「これ、お義母さんがやったんでしょ!? ありえないんだけど!!」
和也の手も震えていた。
内容証明の文字が目に刺さる。
『扶養義務放棄及び重大な背信行為を確認』
『契約第七条に基づき解除』
その瞬間だった。
和也の脳裏に、あの日の母の姿が蘇る。
高熱で真っ赤な顔。
掠れた声。
『……置いていくの?』
胸がざわついた。
だが、すぐ美奈の怒声がそれを掻き消す。
「ねぇ! これ詐欺じゃない!?」
「詐欺じゃねぇよ……契約……」
「でも家族じゃん!!」
「……」
「こんなの無効に決まってる!」
その時だった。
低いエンジン音が近づいてきた。
黒い車が家の前へ止まる。
ドアが開く。
降りてきたのは、濃紺のスーツを着た神楽だった。
その後ろには、不動産会社の社員らしき男たち。
さらに、制服姿の警察官までいる。
夕暮れの冷たい風が吹いた。
神楽は淡々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
その声音に感情はなかった。
「神楽先生!?」
和也が叫ぶ。
「どういうことですかこれ!」
「通知書に記載の通りです」
「ふざけんな!」
美奈がヒステリックに叫ぶ。
「私たち住んでるんですけど!? ここ!」
「正確には、“住ませてもらっていた”です」
神楽は静かに言った。
「契約解除により、あなた方の占有権は消滅しました」
「意味わかんない!!」
「契約はお読みになりませんでしたか?」
美奈が言葉に詰まる。
神楽は封筒から契約書のコピーを取り出した。
そこには、美奈と和也の署名。
赤い印鑑。
間違いなく、自分たちのもの。
「高熱状態の貸主を放置し、旅行へ出発した事実を確認しております」
神楽の声は静かだった。
だが、その静けさが逆に恐ろしかった。
「契約違反です」
和也の顔から血の気が引く。
「母さんが……こんな……」
「薫子先生は、正式な法的手続きを行っただけです」
その瞬間、美奈が泣き叫んだ。
「嘘でしょぉぉ!!」
だが、もう遅かった。
夕暮れの風が、売却済の看板を静かに揺らしていた。




