第6話 迅速なる売却劇と「契約解除通告」
第6話 迅速なる売却劇と「契約解除通告」
病院の窓から見える空は、驚くほど青かった。
数日前まで、生死の境を彷徨っていたとは思えないほど穏やかな朝だった。白いカーテンが風に揺れ、消毒液の匂いの中へ柔らかな陽射しが流れ込んでいる。
薫子は静かに目を閉じた。
熱は下がった。
肺の痛みも薄れている。
だが、胸の奥に残っていた最後の温度だけは、完全に消えていた。
「退院、おめでとうございます」
神楽が病室へ入ってきた。
濃紺のスーツ。磨かれた革靴。無駄のない動き。
その姿を見ると、薫子の思考も自然と冷えていく。
「先生」
「顔色が戻りましたね」
「ええ。おかげさまで」
神楽は書類ケースをテーブルへ置いた。
分厚い封筒が二つ。
その存在感だけで、空気が変わる。
「準備は整っています」
薫子は小さく頷いた。
「聞かせてください」
神楽は封筒を開き、資料を並べていく。
不動産査定書。
権利関係一覧。
売買契約案。
白い紙に並ぶ数字を見た瞬間、薫子の脳は完全に現役へ戻った。
「例の業者ですが、かなり乗り気です。築浅、駅近、完全分離型。市場価値は高い」
「金額は?」
「通常売却なら一億二千万前後。ただ、即金買取にするなら一億五百万」
薫子は即答した。
「十分です」
神楽がわずかに眉を上げる。
「迷いませんか」
「時間の方が大事よ」
薫子は淡々と言った。
「長引かせるほど、面倒になる」
その声には、一片の迷いもなかった。
かつて会計事務所で数十億単位の案件を動かしていた頃と同じ声だった。
神楽は静かに笑った。
「やはり、あなたは怖い人だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
病室に小さな笑いが落ちる。
だが次の瞬間、薫子の目が冷えた。
「それで、通知書は」
「こちらです」
神楽は二通の封筒を差し出した。
一通目。
『条件付き使用貸借契約解除通知』
二通目。
『不法占拠による損害賠償請求通知』
黒い文字が、鋭く並んでいる。
薫子は静かに封筒へ触れた。
紙は冷たかった。
まるで、自分自身の決意みたいに。
「……これを受け取った時、和也はどんな顔をするかしら」
「恐らく、初めて現実を理解するでしょう」
神楽は淡々と言った。
「契約とは、“書いた時点で終わり”ではありません。“実行された瞬間”に本当の意味を持つ」
薫子はゆっくり頷いた。
美奈は、契約を甘く見ていた。
家族だから。
母親だから。
どうせ本気じゃない。
そう思っていた。
だが、数字も法律も、一度動き出せば情では止まらない。
退院の日。
病院の外へ出ると、秋の空気がひやりと頬を撫でた。
金木犀の香りが風に混じっている。
薫子は空を見上げた。
あの日、高熱にうなされながら見た灰色の空とは違う。
澄んだ青空だった。
「薫子先生」
神楽が車のドアを開ける。
「まずは不動産会社へ向かいます」
「ええ」
車内には静かなクラシック音楽が流れていた。
窓の外では、街路樹の葉が色づき始めている。
薫子はその景色を眺めながら、ふと呟いた。
「昔ね、和也が小学生だった頃」
「はい」
「家を欲しがっていたの。“庭付きの家に住みたい”って」
神楽は黙って聞いている。
「だから私は働いたわ。寝る時間を削って。節約して。税金と数字にしがみついて」
薫子は静かに笑った。
「馬鹿ね。最後に追い出されたのは私だった」
神楽は少しだけ視線を伏せた。
「……人は、与えられ続けると感謝を忘れます」
「ええ」
薫子は窓の外を見た。
「だから、取り上げられて初めて気づくのよ」
不動産会社はガラス張りの大きなビルだった。
応接室にはコーヒーの香ばしい香りが漂い、営業担当の男は満面の笑みで頭を下げる。
「春日様! 本当にありがとうございます!」
机の上には契約書が並んでいた。
「この物件、ぜひ弊社で買わせていただきたい」
「条件は以前と同じで」
「もちろんです。即日決済、現金一括」
「引き渡しは?」
「最短で三日後です」
神楽が口を挟む。
「現在、二階部分に占有者がいます」
「ああ、その件も問題ありません。法的整理後、こちらで対応可能です」
営業担当は慣れた口調だった。
薫子はペンを取った。
黒い万年筆。
昔、夫から贈られたものだった。
一瞬だけ、夫の顔が脳裏を過る。
『お前は強いな、薫子』
昔、よく笑いながら言われた。
強くならなければ、生き残れなかっただけだ。
薫子は静かに署名した。
春日薫子。
流れるような筆跡。
その瞬間、一億円の家は他人のものになった。
帰り道。
神楽の事務所へ寄ると、若い事務員が慌ただしく封筒を準備していた。
「先生、内容証明、発送できます」
「ご苦労様」
神楽は二通の封筒を確認する。
薫子もその横へ立った。
宛名。
春日和也。
春日美奈。
その文字を見ても、もう胸は痛まなかった。
「送りますか」
神楽が尋ねる。
薫子は短く答えた。
「ええ」
事務員が封筒を持ち上げる。
ぱたり、と紙の擦れる音が響いた。
その音はまるで、何かの終わりを告げる鐘のようだった。
夕方。
薫子は久しぶりに自宅近くまで来ていた。
少し離れた歩道から、あの家を見上げる。
白い外壁。
二階の灯り。
カーテン越しに動く人影。
美奈たちはまだ何も知らない。
自分たちが立っている場所が、すでに崩れ始めていることを。
「薫子先生」
神楽が静かに言った。
「後悔は?」
薫子はしばらく黙っていた。
風が吹く。
庭のカサブランカが揺れ、白い花弁が一枚、静かに地面へ落ちた。
「……いいえ」
薫子はゆっくり答えた。
「これは復讐じゃないの」
「では?」
薫子は目を細めた。
その瞳は、どこまでも静かだった。
「精算よ」




