第5話 暗闇の中の決断
第5話 暗闇の中の決断
熱かった。
全身が焼けるように熱いのに、指先だけが氷のように冷えていた。
薫子は薄く目を開けた。
視界が白く霞む。
天井の照明は消えたままで、部屋には薄暗い夕方の光だけが差し込んでいた。カーテンの隙間から入り込む灰色の空。窓ガラスを叩く風の音。時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。
何時なのかも分からない。
喉が焼けるように渇いていた。
「……水……」
掠れた声が漏れる。
だが、返事はない。
当然だった。
この家には、今、誰もいない。
二日前。
ひまりが熱を出した。
「お義母さん、お願いです! 今日だけ、今日だけでいいので!」
珍しく泣きそうな顔で頭を下げてきた美奈を見て、薫子は結局断れなかった。
ぐったりしたひまりの小さな背中。熱い額。苦しそうな咳。
あの子に罪はない。
薫子は泊まり込みで看病を続けた。
夜通しタオルを替え、水を飲ませ、汗を拭き、ようやく熱が下がった頃には、自分の身体が重くなっていた。
喉の痛み。
悪寒。
関節の軋み。
そして昨日の夜、四十度近い熱が出た。
だが、美奈はこう言ったのだ。
「一階の冷蔵庫にゼリー入れてありますから」
まるで宅配便でも置いていくような口調だった。
「今日は前から決まってた旅行なんで」
玄関では、美奈の両親が楽しそうに笑っていた。
「温泉久しぶりだわぁ」
「ひまりちゃん、楽しみねぇ」
和也もスーツケースを車へ積み込みながら言った。
「母さん、寝てれば治るって」
その時の薫子は、ソファに座るのがやっとだった。
身体が鉛のように重く、声を出す気力もない。
「和也……」
掠れた声で呼んでも、息子は振り返らなかった。
最後に聞こえたのは、美奈の声だった。
「鍵、ちゃんとかけてくださいねー」
玄関が閉まる。
車のエンジン音。
笑い声。
そして静寂。
完全な静寂だった。
薫子は震える息を吐いた。
冷蔵庫のモーター音だけが、低く唸っている。
キッチンには、置き去りにされたゼリーが二つ。
蛍光灯の白い光を浴びて、冷たく光っていた。
「……そう」
薫子は呟いた。
熱でぼやけた視界の奥で、何かが静かに崩れていく。
いや、違う。
崩れたのではない。
見えてしまったのだ。
この者たちは、自分が死ぬかもしれない状況より、自分たちの旅行を優先した。
それが答えだった。
薫子はゆっくり目を閉じた。
胸の奥にあった最後の情が、冷たい灰になっていく。
「……もう、いい」
声はほとんど音にならなかった。
もう十分だった。
母として。
祖母として。
人として。
耐える理由は、どこにもない。
窓の外で風が唸る。
庭のカサブランカが激しく揺れ、白い花弁が夜の闇に散っていく。
薫子はソファの肘掛けに手をかけた。
立たなければ。
動かなければ。
このままでは、本当に死ぬ。
身体に力を入れた瞬間、激しい眩暈が襲った。
胃がひっくり返るような感覚。
耳鳴り。
視界が傾く。
「……っ……」
それでも薫子は這った。
床に膝を擦りながら、ゆっくりと前へ進む。
フローリングが冷たい。
呼吸をするたび肺が焼ける。
指先が痺れる。
だが、その目だけは異様に冴えていた。
机の上。
そこに黒いスマートフォンが置いてある。
薫子は震える手を伸ばした。
画面の光が暗闇に浮かび上がる。
神楽。
その名前を押す。
数秒後、通話が繋がった。
「……はい、神楽です」
落ち着いた声だった。
その声を聞いた瞬間、薫子は初めて安堵した。
「神楽……先生……」
「薫子先生?」
神楽の声が変わる。
「どうしました」
薫子は息を整えた。
熱い息が喉に絡む。
「条件は……満たされました」
沈黙。
短い沈黙。
だが神楽は、すぐ理解した。
「……そうですか」
「作戦を……発動してください」
薫子はゆっくり言った。
「この家を……売却します」
その瞬間、不思議なほど心が静かだった。
怒りも悲しみもない。
あるのは、ただ冷え切った決意だけ。
神楽の声が低く響く。
「承知しました」
「先生……」
「はい」
「全部、終わらせます」
「お任せください」
その一言には、揺るぎがなかった。
薫子は力尽きるように床へ頬をつけた。
冷たい。
まるで氷の上みたいだった。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
それが現実なのか、熱の幻なのかも分からない。
意識が沈んでいく。
薄れる視界の中で、薫子は昔のことを思い出していた。
幼い和也が、熱を出して泣いていた夜。
「お母さん、行かないで……」
小さな手が、自分の服を掴んでいた。
あの子を守るためなら、何でもできると思っていた。
なのに。
今、自分を見捨てたのは、その息子だった。
ぽたり、と涙が落ちた。
それが悔しさなのか、終わりへの弔いなのか、薫子にも分からなかった。
翌朝。
重い瞼を開けると、消毒液の匂いが鼻を刺した。
白い天井。
規則的な電子音。
腕には点滴。
「……ここ……」
「病院です」
低い声が聞こえた。
視線を向けると、神楽が椅子に座っていた。昨日と同じ濃紺のスーツ。だが、目の下には薄く疲労が滲んでいる。
「先生……」
「肺炎寸前でした」
神楽は静かに言った。
「あと数時間遅ければ危なかったそうです」
薫子はゆっくり目を閉じた。
病室の窓から朝日が差し込んでいる。
淡い金色の光だった。
「和也たちは……」
「まだ旅行先です」
神楽の声に感情はなかった。
「連絡は?」
「していません」
薫子は小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「そう……」
「薫子先生」
神楽が静かに前へ身を乗り出す。
「本当に始めますか」
薫子はゆっくり窓の外を見た。
青空だった。
雲ひとつない。
まるで何事もなかったような、美しい朝。
だが、その美しさが逆に胸へ刺さる。
薫子は静かに頷いた。
「ええ」
そして、はっきりと言った。
「今度は、私が切り捨てる番です」




