第4話 高熱の置き去り
第4話 高熱の置き去り
秋雨の降る夕方だった。
薫子がウィークリーマンションの小さな部屋で帳簿を整理していると、机の上の電話が震えた。
画面には「美奈」の文字。
薫子は眉を寄せた。
数ヶ月前、自分を家から追い出すように別居を迫った嫁が、こちらから連絡しない限り電話を寄越すことなどなかった。
嫌な予感がした。
「……もしもし」
『お義母さん!?』
受話器の向こうから、美奈の切羽詰まった声が飛び込んできた。
『ひまりが熱出して! 四十度近くあって、全然下がらないんです!』
背後では、ひまりの苦しそうな咳が聞こえた。
『お願いです、お義母さん……! 私、どうしたらいいか分からなくて……!』
薫子は目を閉じた。
胸の奥が、鈍く痛む。
どれだけ傷つけられても、ひまりの声を聞けば放っておけなかった。
「病院には?」
『行きました! でも夜になると苦しそうで……!』
「分かったわ。すぐ行きます」
電話を切った瞬間、窓を打つ雨音が強くなった。
薫子は急いで上着を羽織る。
タクシーの窓越しに見える街は、雨で滲んでいた。信号の赤や青が濡れたアスファルトへ映り込み、流れるように揺れている。
その光景を見ながら、薫子は静かに息を吐いた。
結局、自分は甘いのだと思った。
だが、あの子だけは見捨てられない。
家へ着くと、玄関は慌ただしかった。
リビングには脱ぎ散らかされたタオル、開けっぱなしの薬箱、飲みかけのスポーツドリンク。
二階から、美奈の焦った声が飛ぶ。
「お義母さん! こっちです!」
ひまりは布団の中で真っ赤な顔をしていた。
「おばあ……ちゃん……」
小さな声。
汗で髪が額に張り付き、息が荒い。
薫子はすぐ額へ手を当てた。
熱い。
胸が締め付けられるほど熱かった。
「大丈夫よ、ひまりちゃん。おばあちゃんいるからね」
薫子は濡れタオルを替え、氷枕を整え、ゆっくり背中をさする。
その手つきは慣れていた。
和也が幼かった頃、何度もこうして夜を明かした。
「すみません、お義母さん……」
珍しく美奈が弱々しい声を出した。
「私、こんなの初めてで……」
「薬の時間は?」
「えっと、次が十時で……」
「水分はちゃんと飲ませて」
「はい……」
その夜、薫子は泊まり込んだ。
夜更け。
雨はさらに強くなり、窓ガラスを激しく叩いている。
ひまりは何度もうなされ、小さな身体を震わせた。
「やだ……学校……」
「大丈夫、大丈夫よ」
薫子は優しく髪を撫でる。
その横で、美奈はソファに座ったままうとうとしていた。
和也に至っては、「明日仕事あるから」と先に寝室へ引っ込んでいた。
午前三時。
ようやくひまりの熱が少し下がった。
寝息も落ち着いている。
薫子は安堵の息を漏らした。
その瞬間だった。
ぞくり、と悪寒が背筋を走る。
「……っ」
身体が急に重くなる。
喉が焼けるように痛い。
関節が軋む。
薫子は壁へ手をついた。
「お義母さん?」
美奈が眠そうな顔で振り返る。
「少し……風邪をもらったみたい」
「えぇ?」
美奈は露骨に嫌そうな顔をした。
「困るんですけど」
その一言が、静かに胸へ刺さった。
翌朝には、薫子の熱は三十九度を超えていた。
視界が霞む。
頭が割れるように痛い。
それでも、ひまりへお粥を作り、水を飲ませ、洗濯機を回した。
美奈はスマートフォンを見ながら言った。
「今日には熱下がるかなぁ」
「病院、もう一回行ったほうが……」
「いや、だって今週末、温泉旅行なんですよ」
薫子は顔を上げた。
「旅行?」
「はい」
美奈は悪びれもしない。
「うちの両親も楽しみにしてて」
「この状態で?」
「ひまりも熱下がってきてるし」
そこへ和也が降りてきた。
「母さん、大丈夫?」
口ではそう言いながら、視線はスマートフォンに向いている。
「……熱が」
「でも寝てれば治るだろ」
軽かった。
驚くほど軽い声だった。
薫子は息子を見つめた。
昔、高熱を出した和也を背負って雪道を病院まで走った夜を思い出す。
あの時、自分は一睡もせず看病した。
なのに。
今、この子は。
「和也……」
「ん?」
「私、かなり熱が高いの」
「うん」
「……置いていくの?」
和也は一瞬だけ黙った。
だが、次の瞬間には困ったように笑った。
「母さん、考えすぎだって」
その笑顔を見た瞬間、薫子の心が冷えた。
昼過ぎ。
美奈の両親がやってきた。
「久しぶりの温泉ねぇ!」
「海鮮楽しみだなぁ!」
賑やかな声が家へ響く。
薫子はソファに横になったまま、その声を聞いていた。
身体が動かない。
熱で耳鳴りがする。
それでも、旅行の支度をする笑い声だけは鮮明に聞こえた。
「ひまり、ゲーム持った?」
「持ったー!」
「お義母さん」
美奈がリビングへ入ってきた。
化粧を整え、明るい色のワンピースを着ている。
「一階の冷蔵庫にゼリー置いてありますから」
まるで事務連絡だった。
「あと、水分ちゃんと摂ってくださいね」
薫子は返事ができなかった。
熱で唇が乾ききっている。
美奈はそれ以上何も言わなかった。
玄関から和也の声がする。
「早く行こうよ、渋滞するって!」
「はーい!」
ひまりだけが、小さく振り返った。
「おばあちゃん……だいじょうぶ?」
薫子は無理やり微笑んだ。
「大丈夫よ。楽しんできて」
「うん……」
ひまりは不安そうな顔のまま、美奈に手を引かれていく。
やがて玄関が閉まった。
鍵の音。
笑い声。
車のドアが閉まる音。
エンジン。
そして、静寂。
家が静まり返る。
時計の針だけが、かち、かち、と響いていた。
薫子は天井を見つめた。
白い天井が、熱でゆらゆら歪んで見える。
冷蔵庫の中にはゼリー。
それだけ。
七十一歳の高熱の老人を置いて、家族は旅行へ行った。
その事実だけが、静かに胸へ沈んでいく。
窓の外では、風が庭のカサブランカを揺らしていた。
白い花弁が一枚、雨の中へ落ちる。
薫子はゆっくり目を閉じた。
その瞬間だった。
胸の奥で、最後の何かが音を立てて壊れたのは。




