第3話 仕掛けられた「条件付き使用貸借契約」
第3話 仕掛けられた「条件付き使用貸借契約」
その男は、午後三時ちょうどに現れた。
雨上がりの庭には、濡れたローズマリーの香りが漂っていた。空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から細い陽光が差し込み、白い外壁を鈍く照らしている。
インターホンが鳴る。
薫子は静かに立ち上がり、玄関へ向かった。
「はい」
「神楽です」
低く落ち着いた声だった。
扉を開けると、濃紺のスーツを着た青年が立っていた。三十代半ばほどだろうか。銀縁眼鏡の奥の目は冷静で、無駄な愛想がない。
「お久しぶりです、薫子先生」
「来てくださってありがとう」
「先生と呼ばないでください。私はまだ、あなたの足元にも及びません」
神楽は軽く頭を下げ、革鞄を抱えたまま室内へ入った。
その様子を、二階の階段から美奈が胡散臭そうに見下ろしていた。
「誰ですか?」
「弁護士の神楽先生よ」
「……弁護士?」
美奈の声がわずかに尖る。
和也も仕事から帰宅したばかりなのか、ネクタイを緩めながら顔をしかめた。
「母さん、なんで弁護士なんか」
「あなたたちと話をするためよ」
薫子は淡々と言った。
リビングの空気が張りつめる。
神楽はテーブルに分厚い書類封筒を置いた。紙の擦れる音が、妙に乾いて聞こえた。
「では、始めましょうか」
神楽の声には温度がなかった。
美奈が露骨に警戒した顔をする。
「なんなんですか、急に」
「前回、お義母様……失礼、春日薫子様へ、別居のご提案をされたそうですね」
「提案っていうか……お互いのためというか」
「なるほど」
神楽はさらりと頷いた。
「その件について、今後の権利関係を明確にするため、本日契約書をご用意しました」
「契約書?」
和也が嫌そうに眉を寄せる。
「そんな大げさな」
「大げさではありません」
神楽は即座に言った。
「土地・建物の所有権はすべて薫子様個人にあります。現時点で、あなた方ご夫婦には法的な居住権はありません」
美奈の顔が強張った。
「え……?」
「つまり、現在あなた方は、“親族の好意”だけで住んでいる状態です」
神楽は封筒から書類を取り出し、一枚ずつ整然と並べていく。
白い紙。
黒い文字。
びっしりと並ぶ条項。
その光景を見ただけで、美奈は露骨にうんざりした顔になった。
「難しい話は苦手なんですけど」
「簡単に説明します」
神楽は静かに続けた。
「薫子様は、二階部分をあなた方へ“使用貸借”として提供します」
「しよう……なに?」
「タダで貸す契約です」
その瞬間、美奈の顔がぱっと明るくなった。
「え、家賃いらないってことですか?」
「はい」
「やったじゃん、和也」
和也もほっとしたように笑う。
「なんだよ、そういう話か」
神楽は無表情のまま続けた。
「ただし、条件があります」
その声だけが、少し低くなった。
リビングの空気が静かに冷える。
「契約書第七条。“貸主に対する重大な背信行為”“扶養義務及び介護協力義務の放棄”“悪意ある精神的圧迫行為”が確認された場合、貸主は即時契約解除できるものとする」
美奈がぽかんと口を開けた。
「……は?」
「つまり、薫子様へ不誠実な行為を行った場合、即退去していただきます」
「いやいや、そんなの普通にしませんから」
美奈は笑った。
だが、その笑いはどこか軽かった。
「別にいいじゃん、和也。タダで住めるんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
和也は書類をぱらぱらめくった。
だが、文字を読む様子はほとんどない。
「母さんも心配性だなぁ」
薫子は黙って二人を見ていた。
目の前で、自分の人生を軽く扱う者たち。
契約を甘く見る者たち。
神楽がペンを差し出した。
「内容を確認の上、ご署名を」
「こんなの読むの面倒ですよ」
美奈は笑いながら言った。
「どうせ家族なんだし」
その言葉に、薫子の胸の奥がわずかに痛んだ。
家族。
都合のいい時だけ使われる言葉。
美奈は書類をほとんど読まず、乱暴に名前を書いた。
春日美奈。
勢いよく押された印鑑の赤が、まるで血のように見えた。
「はい、和也も」
「あー、はいはい」
和也も軽い調子で署名する。
神楽はその様子を黙って見ていた。
全て終わると、彼は静かに書類を封筒へ戻した。
「これで契約は成立です」
「なんか拍子抜け」
美奈が肩をすくめる。
「もっと怖い話かと思った」
「そうですか」
神楽の声は淡々としていた。
その時だった。
薫子が静かに立ち上がった。
「それから、私はしばらく別の場所へ移ります」
「え?」
和也が驚く。
「近くのウィークリーマンションを借りました」
「ほんとに出ていくの?」
「ええ」
薫子は微笑んだ。
「あなたたちも、その方が気楽でしょう?」
美奈は一瞬だけ顔を見合わせたあと、隠しきれない安堵を浮かべた。
「まあ……お義母さんがそうしたいなら」
その言葉を聞いた瞬間、薫子の心は完全に冷え切った。
引き止めもしない。
寂しいとも言わない。
ただ邪魔者が消えるような顔をしている。
夕方。
薫子は静かに荷物をまとめていた。
お気に入りのティーカップ。古い会計手帳。亡き夫の写真。
窓の外では、濡れたバラが夕日に染まっている。
玄関には新しい鍵が置かれていた。
一階専用の補助錠。
薫子はそれを手に取る。
金属の冷たい感触が掌に沈んだ。
カチリ。
静かな音が響く。
一階と二階をつなぐ内階段の扉に、新しい鍵がかけられた。
「お義母さん?」
美奈が不思議そうに声を上げる。
「防犯よ」
薫子は穏やかに答えた。
「お互い、プライベートは大事でしょう?」
「まあ……そうですけど」
美奈は特に気にしていない様子だった。
むしろ、一階へ自由に降りられなくなることに少し苛立っているように見えた。
だが、薫子は知っていた。
境界線とは、鍵を閉めた瞬間から始まるのだと。
夜。
小さなウィークリーマンションの窓から、遠く街の灯りが見えた。
部屋は狭かったが静かだった。
誰にも呼ばれない。
命令されない。
洗濯機も、キッチンも、自分だけのものだった。
薫子は小さく息を吐いた。
そして、テーブルの上に置かれた契約書の控えへ視線を落とす。
紙の上には、美奈と和也の署名。
赤い印影。
それはまるで、自分たちの未来へ押した刻印のようだった。
薫子はゆっくり紅茶を飲んだ。
窓の外では、雨上がりの夜風が静かに吹いていた。




