第2話 他人とは住めません
第2話 他人とは住めません
雨だった。
六月の湿った空気が家の中にまとわりつき、窓ガラスには細かな水滴が無数に張りついていた。庭のバラは雨に打たれ、花弁を重たそうに垂らしている。
薫子は朝から頭が重かった。
昨夜、美奈に頼まれて大量の洗濯物を畳み、ひまりの翌日の工作を手伝い、そのあと二階の排水口まで掃除させられたせいだ。指先にはまだ漂白剤の匂いが残っている。
キッチンでは、味噌汁の湯気が静かに立っていた。
「お義母さん、コーヒーまだですか?」
二階から降りてきた美奈が、不機嫌そうに言った。髪は艶やかに巻かれ、ブランド物のルームウェアを着ている。
「今、淹れているところよ」
「今日、ママ友来るんで、一階のリビング使いますね」
薫子は手を止めた。
「……一階を?」
「だって二階、散らかってるし。あと、ケーキ焼いといてもらえます? この前のシフォン、美味しかったって評判だったんで」
頼む口調ではなかった。
まるで店員に追加注文をするような声音だった。
薫子はゆっくり息を吐いた。
「今日は少し疲れているから、ケーキまでは――」
「えぇ?」
美奈が露骨に眉をひそめた。
「お義母さん、一日家にいるじゃないですか」
その言葉を聞いた瞬間、薫子の胸の奥がひやりと冷えた。
まただ。
一日家にいる。
暇。
だからやって当然。
彼女たちは、薫子がここまで積み上げてきた人生を何も知らない。ただ年老いた女が家にいる、としか思っていない。
そこへ和也がネクタイを締めながら降りてきた。
「母さん、今日の弁当は?」
「テーブルの上に置いてあるわ」
「サンキュー」
和也は礼を言いながらも、視線はスマートフォンに落ちたままだった。
「和也」
薫子は静かに呼び止めた。
「なに?」
「少し話があるのだけれど」
「今?」
「今じゃないと駄目なの」
和也は露骨に面倒そうな顔をした。
美奈がため息をつく。
「朝から空気悪くしないでくださいよ」
その瞬間だった。
薫子の中で、何かがぷつりと切れた。
「空気を悪くしているのは、どちらかしら」
静かな声だった。
だが、美奈の顔色が変わる。
「……どういう意味ですか?」
「私はあなたたちの家政婦ではないと言っているの」
雨音が強くなった。
窓を打つ水音だけが、やけに鮮明に耳に残る。
和也が顔をしかめた。
「母さん、またその話?」
「また、ではありません」
「助け合いって言ってるだろ」
「助け合い?」
薫子は笑った。
乾いた、冷たい笑いだった。
「朝食、弁当、洗濯、掃除、庭の手入れ、ひまりちゃんの送り迎え。それを毎日やらせておいて、どこが助け合いなの?」
「それくらい普通だろ!」
和也が苛立ったように声を荒げた。
「母さん一人なんだから!」
薫子は息子を見つめた。
小さな頃、高熱を出して泣き続けた夜。受験で失敗して部屋に閉じこもった日。会社に受かった時、涙を流して抱きついてきた背中。
その全部が、遠い昔のようだった。
「和也」
「なに」
「あなたは、この家が誰のお金で建ったか覚えている?」
一瞬、空気が凍った。
美奈が露骨に顔をしかめる。
「またそういう恩着せがましい……」
「恩着せではないわ」
薫子は静かに言った。
「事実よ」
その日の夜だった。
二階から聞こえる物音がいつもより長かった。
どたどたと歩く音。引き戸を閉める音。低い話し声。
やがて午後十時を過ぎた頃、インターホンが鳴った。
薫子が扉を開けると、和也と美奈が並んで立っていた。
二人とも妙に硬い顔をしている。
「話があるんだけど」
和也が言った。
「入りなさい」
リビングにはラベンダーの香りが漂っていた。薫子が眠る前に焚いていたアロマだった。
だが、その穏やかな香りとは裏腹に、美奈は落ち着きなくソファへ腰を下ろした。
沈黙が流れる。
時計の針の音だけが、妙に大きい。
やがて美奈が口を開いた。
「……私、もう限界なんです」
「限界?」
「やっぱり他人とは住めません」
薫子は瞬きをした。
「ストレスで病気になりそうなんです。生活リズムも違うし、気を遣うし」
薫子はゆっくり紅茶を置いた。
カップの中で、琥珀色の液体が小さく揺れる。
「気を遣う?」
「はい」
美奈は真顔だった。
「お義母さん、すぐ口出しするし」
「口出し……」
「掃除の仕方とか、ひまりへの接し方とか。正直、しんどいんです」
和也も小さく頷いた。
「母さんさ、一回どこか別に住んでみない?」
薫子は耳を疑った。
「……私が?」
「ほら、近くにアパート借りるとか」
「この家を出ろと言うの?」
「いや、そうじゃなくて!」
和也は慌てたように手を振った。
「少し距離置いたほうが、お互いのためっていうか」
「そうですよ」
美奈も畳みかける。
「最近、私ほんと眠れなくて」
薫子は黙った。
胸の奥が、冷えていく。
この家は、自分が建てた。
土地も建物も、すべて自分の金だった。
その家で、自分が追い出されようとしている。
窓の外では、雨が激しく降っていた。
庭のカサブランカが風に揺れ、白い花弁が闇の中でかすかに震えている。
「母さん、頼むよ」
和也が言った。
「少しだけだから」
薫子は、息子の顔をじっと見た。
そこには罪悪感よりも、面倒事を早く終わらせたいという色が浮かんでいた。
その時だった。
薫子の頭の中で、数字が静かに並び始めた。
固定資産税。
所有権。
居住権。
使用貸借。
相続。
契約。
長年、会計と法律の隙間で生きてきた彼女の脳が、冷たく動き始める。
怒りは不思議と消えていた。
代わりに、澄み切った静寂が広がっていく。
薫子はゆっくり微笑んだ。
「分かったわ」
和也がほっとした顔をする。
「ほんと?」
「ええ」
薫子は静かに頷いた。
「ただし、きちんと契約を交わしましょう」
「……契約?」
美奈が眉をひそめた。
「そう。人はね、他人同士で暮らす時ほど、書面が必要なのよ」
その声は穏やかだった。
けれど、その瞳だけは、氷のように冷えていた。




