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第1話 楽園の仮面、地獄の日常

第1話 楽園の仮面、地獄の日常


 春日薫子が、その家の鍵を受け取った日のことだった。


 春の風はまだ冷たく、白いカサブランカの苗木が段ボール箱の中で小さく揺れていた。新築の二世帯住宅は、駅から徒歩十分の新興住宅街に建っていた。真新しい外壁は陽光を反射し、ガラス窓は鏡のように青空を映している。


「すごい……本当にホテルみたい」


 嫁の美奈が感嘆の声を上げた。


「ママ、このおうち、ひまりのお城?」


 七歳の孫娘が無邪気にはしゃぎ、和也も笑った。


「母さん、ほんと感謝してる。こんな家、俺たちだけじゃ絶対無理だった」


 薫子は微笑んだ。


 長い年月だった。会計事務所で数字に追われ、朝から深夜まで働き、節約し、投資し、税金を計算し、積み上げてきた金だった。夫に先立たれてからは、なおさら必死だった。


 この家は、自分の老後であり、息子家族への贈り物でもあった。


 完全分離型二世帯住宅。


 一階が薫子、二階が和也一家。玄関も水回りも別。互いの生活を尊重しながら助け合える理想の形――そのはずだった。


 だが、その理想は、引っ越し初日の夜には崩れ始めていた。


「お義母さん、朝ごはんって七時でお願いできます?」


 ダイニングテーブルで、美奈が当然のように言った。


「え?」


「和也、朝早いし。ひまりも学校あるから」


「……もちろん、作るのは構わないけれど」


「あ、それと洗濯機、一階の使わせてください。二階の、ドラム式だけど容量小さくて」


 美奈は悪びれもしない。


 和也はビールを飲みながら笑った。


「親なんだから、それくらい助け合いだよ」


 その時、薫子の胸に小さな違和感が落ちた。


 だが、その違和感は、日を追うごとに濃くなっていく。


 朝五時。


 薫子はまだ薄暗いキッチンで味噌汁を温めていた。昆布と鰹節の香りが湯気とともに広がる。焼き鮭の皮がぱちぱちと脂を弾き、炊き立ての白米が甘い匂いを漂わせる。


 そこへ、美奈が寝癖のまま降りてきた。


「今日、ひまりの給食ないんでお弁当もお願いします」


「聞いてないけれど」


「あれ? 言いませんでしたっけ?」


 言っていない。


 だが、美奈はもう冷蔵庫を開け、勝手にヨーグルトを取り出している。


「あ、あと牛乳切れてるんで買っといてください」


「美奈さん、それは……」


「お願いしますね、お義母さん」


 返事も待たず、美奈は二階へ戻っていった。


 薫子は包丁を握ったまま立ち尽くした。


 窓の外では、朝露を浴びたバラが咲いていた。薄桃色の花弁が陽を受けて透けている。


 静かだった。


 静かなのに、胸の奥だけがざらついていた。


 それからの日々は、まるで終わりのない労働だった。


「おばあちゃん、学校まで送って!」


「お義母さん、このシャツアイロンお願いします」


「夕飯まだですか?」


「庭の草、伸びてますよ」


 気づけば、一階のキッチンは完全に美奈のものになっていた。


 高かった輸入製の鍋も、薫子が大切にしていた有田焼の皿も、乱暴に使われている。


 冷蔵庫には、美奈の美容ドリンクと作り置き容器がぎっしり詰まり、薫子の好きな梅干しを置く場所すらなかった。


 ある日の午後、薫子がようやく一息つこうと紅茶を淹れた時だった。


「お義母さん、麦茶ないんですけど?」


 美奈が苛立った声を上げた。


「今、入れようと思って」


「ひまり喉乾いてるんですよ? 気が利かないなぁ」


 薫子はカップを持つ手を止めた。


 琥珀色の紅茶から、湯気が静かに立ちのぼる。アールグレイの香りが鼻先をくすぐった。


 その香りさえ、なぜか虚しく感じた。


「美奈さん」


「はい?」


「私は家政婦ではないのだけれど」


 空気がぴたりと止まった。


 美奈の顔から笑みが消える。


「……別にそんなつもりありませんけど?」


「なら、少しは自分たちで――」


「え、でも暇ですよね?」


 薫子は言葉を失った。


「お義母さん、一日家にいるじゃないですか。私たち働いてるんですよ?」


「それは……」


「母さん」


 いつの間にか帰宅していた和也が、ネクタイを緩めながら口を挟んだ。


「細かいことで揉めるのやめようよ」


「和也、あなたはこの状況をおかしいと思わないの?」


「だって親なんだから、助けるの普通だろ?」


 その言葉は、刃物のように薫子の胸へ刺さった。


 親なんだから。


 その一言で、どこまでも搾取していいと思っている。


 薫子は黙って視線を落とした。


 床には、ひまりが脱ぎ散らかした靴下。ソファには和也の上着。テーブルには食べ残しの菓子袋。


 誰も片づけない。


 誰も感謝しない。


 ただ当然のように、薫子が動くのを待っている。


 夜。


 すべての家事を終え、一階の自室へ戻ると、どっと疲れが押し寄せた。


 窓を開けると、夜風が頬を撫でた。庭のローズマリーが揺れ、青く澄んだ香りが漂う。


 二階からは笑い声が聞こえてくる。


「今度さ、温泉行こうよ!」


「いいねぇ!」


「おばあちゃんいるし、ひまり預けられるじゃん」


 楽しそうな声だった。


 薫子は暗い庭を見つめた。


 自分が建てた家だった。


 ローンもない。


 土地も建物も、すべて自分の金で用意した。


 なのに。


 どうして自分だけが、こんなにも寒いのだろう。


 ふと、ガラス窓に自分の姿が映った。


 小さく、疲れ切った老婆。


 その顔を見た瞬間、薫子は静かに目を閉じた。


 胸の奥で、何かがゆっくりと音を立て始めていた。



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