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第10話 新しい庭で、薔薇の香りに包まれて

第10話 新しい庭で、薔薇の香りに包まれて


 春だった。


 柔らかな陽射しが街を包み、街路樹には淡い若葉が揺れている。


 だが、その光とは裏腹に、和也の暮らすアパートは薄暗かった。


 築三十年。


 駅から二十分。


 二DK。


 湿気を吸った畳はわずかに沈み、古い換気扇は低く唸り続けている。壁紙には黄ばんだ染み。窓の隙間からは冷たい風が入り込み、外を走る電車の振動でガラスが小さく震えた。


「ねぇ、この部屋カビ臭いんだけど」


 美奈が苛立った声を上げる。


「しょうがねぇだろ、ここしか借りれなかったんだから」


「信じられない……」


 床には段ボールが積み上がっていた。


 引っ越し費用。


 違約金。


 弁護士費用。


 損害賠償。


 薫子の家はローンこそなかったが、その代償は確実に和也たちの生活を削り取っていた。


 貯金はほとんど残っていない。


 美奈はブランドバッグを何点も売った。


 和也は車を手放した。


 それでも足りなかった。


「お腹すいた」


 ひまりが小さな声で言った。


 美奈が舌打ちする。


「カップ麺でいい?」


「また?」


「しょうがないでしょ!」


 その声に、ひまりは肩をすくめた。


 以前の家では、温かい食事が並んでいた。


 焼き魚の匂い。


 味噌汁の湯気。


 炊き立てのご飯。


 今は、安いインスタント食品の油っぽい匂いだけが部屋へこもっている。


 和也は黙っていた。


 最近、家へ帰るのが苦痛だった。


 会社でも噂が広がり始めていた。


「大丈夫?」


「最近顔色悪いですよ」


 同僚たちの視線が刺さる。


 内容証明の件こそ表には出ていないが、和也が急に高級住宅街から消え、ボロアパートへ移ったことは知られていた。


 出世話も止まった。


 部長の態度も変わった。


 胃薬だけが増えていく。


「ねぇ」


 美奈が低い声を出す。


「いつまでこの生活なの?」


「俺に言うなよ……」


「じゃあ誰に言えばいいの!?」


 ヒステリックな声が狭い部屋へ反響する。


 隣室の壁を、誰かがどん、と叩いた。


「うるせぇぞ!」


 美奈が顔を歪める。


「最悪……」


 和也は疲れ切った目で床を見つめた。


 あの家を失ってから、美奈は完全に変わった。


 いや、本性が出ただけかもしれない。


「そもそも、あんたが弱すぎるのよ」


「は?」


「普通、母親くらい押さえられるでしょ?」


「お前だって散々文句言ってたじゃねぇか!」


「でも本当に追い出すなんて思わないでしょ!」


 また始まった。


 毎日同じ喧嘩。


 同じ罵声。


 同じ後悔。


 そして、そのたびに二人とも気づいてしまう。


 全部、もう戻らないのだと。


「……離婚しようか」


 ぽつりと和也が言った。


 部屋が静まる。


「は?」


 美奈の顔が強張った。


「もう無理だろ、こんなの」


「……本気?」


「毎日責め合って、ひまりも怯えてる」


 ひまりは黙ったまま俯いていた。


 その小さな姿を見て、和也の胸が痛む。


「親権は私だから」


 美奈が即座に言う。


「は?」


「当然でしょ。母親なんだから」


「お前、ちゃんと面倒見てないだろ!」


「はぁ!? じゃああんたが育てるの!?」


 再び怒鳴り合いが始まる。


 ひまりはそっと耳を塞いだ。


 その時だった。


 テーブルの上の古い携帯電話が震える。


 非通知。


 和也が出る。


「……もしもし」


『和也』


 その瞬間、和也の身体が凍った。


「……母さん」


 薫子の声だった。


 静かで、穏やかな声。


 だが、その落ち着きが逆に遠かった。


「ひまりちゃん、いる?」


「……いるけど」


「少し代わってくれる?」


 和也は無言で電話を差し出した。


 ひまりがおそるおそる受け取る。


「おばあちゃん……?」


『元気?』


 その声を聞いた瞬間、ひまりの目に涙が浮かんだ。


「……会いたい」


 和也と美奈が固まる。


『いつでもおいで』


 薫子の声は柔らかかった。


『あなたの部屋、ちゃんと用意してあるから』


「ほんと?」


『ええ』


 ひまりは泣きながら頷いた。


「おばあちゃんち、またお花ある?」


『あるわよ』


 電話越しに、薫子は小さく笑った。


『カサブランカも、ローズマリーも、綺麗に咲いてる』


 電話を切ったあと、部屋には重い沈黙が残った。


 和也は何も言えなかった。


 胸の奥に、鈍い痛みだけが広がる。


 一方その頃。


 都心の高級シニアマンション最上階。


 大きな窓の向こうでは、夕焼けが街を黄金色に染めていた。


 薫子は白いティーカップを両手で包み込む。


 ハーブティーの湯気。


 カモミールの優しい香り。


 静かなクラシック音楽。


 ここには怒鳴り声もない。


 命令もない。


 搾取もない。


 あるのは穏やかな時間だけだった。


 ベランダへ出る。


 春風が頬を撫でる。


 白いカサブランカが美しく咲き、ローズマリーが青い香りを漂わせている。


 遠くで電車の音が小さく響いた。


 薫子は夜景を見下ろした。


 あの家を失った日、自分も何かを失ったと思っていた。


 だが違った。


 失ったのではない。


 取り戻したのだ。


 自分の人生を。


 自分の尊厳を。


 自分の静かな時間を。


 薫子はそっと目を閉じる。


 風が髪を揺らした。


 花の香りに包まれながら、薫子は静かに微笑んだ。


 ようやく、本当の自由が始まったのだった。



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