第11話 刑事告訴という氷の刃
第11話 刑事告訴という氷の刃
冬の雨だった。
灰色の空から落ちる冷たい雨粒が、古びたアパートの窓を絶え間なく叩いている。
和也は台所の椅子へ座ったまま、湿った空気を吸い込んでいた。
テーブルにはコンビニ弁当。
冷えたままの唐揚げ。
安い焼酎の缶。
かつての生活とは比べ物にならない。
以前なら、帰宅すれば温かい味噌汁の匂いがした。
炊き立てのご飯があった。
今は、電子レンジの機械音だけが部屋へ虚しく響く。
「ねぇ」
美奈が苛立った声を出した。
「ひまりの塾、やめさせるしかないんだけど」
「……しょうがないだろ」
「しょうがないで済ませないでよ!」
金がない。
その現実が、毎日二人を削っていた。
引っ越し費用。
弁護士費用。
損害賠償。
そして、薫子側から請求されている“追加手続き費用”。
数字を見るたび、和也の胃は痛んだ。
その時だった。
玄関のチャイムが鳴る。
ピンポーン。
重い音。
美奈が顔をしかめる。
「また督促?」
和也が嫌々立ち上がった。
ドアを開けた瞬間。
空気が凍った。
「……春日和也さんですね」
立っていたのは、スーツ姿の男二人。
その後ろには制服警官。
雨に濡れた革靴。
冷たい視線。
和也の喉がひゅっと鳴った。
「な、なんですか……」
「警察です」
警察手帳が開かれる。
銀色の光。
「少しお話を伺いたい」
背中に冷たい汗が流れた。
美奈が玄関へ飛び出してくる。
「え? なに? なに!?」
刑事は淡々と言った。
「保護責任者遺棄の件で確認があります」
一瞬、時間が止まった。
「……は?」
和也の顔から血の気が消える。
「い、いき、って……」
「あなた方は、高熱状態の七十一歳女性を無人住宅へ放置し、旅行へ出発していますね」
雨音だけが響いていた。
美奈が叫ぶ。
「ちょっと待って! そんな大げさな話じゃ――」
「病院の診断記録があります」
刑事の声は冷たい。
「肺炎寸前。救急搬送。命の危険あり」
和也の膝が震え始める。
あの日の母の姿が脳裏へ蘇る。
赤い顔。
苦しそうな呼吸。
『……置いていくの?』
あの声。
「違うんです!」
和也は慌てて言った。
「ゼリーも置いてたし!」
その瞬間、刑事の目が冷えた。
「高熱の老人を放置して温泉旅行へ行くことが、“保護”だと?」
言葉が詰まる。
美奈が半狂乱になる。
「お義母さんがおかしいのよ!! 家売ったりして!!」
「それとこれとは別問題です」
刑事は一切揺れない。
「被害届が正式に受理されています」
「……被害届?」
和也が呟く。
「薫子先生は、あなた方の行為を刑事案件として相談されています」
その瞬間、和也の頭が真っ白になった。
民事じゃない。
刑事。
その意味を理解した瞬間、胃がひっくり返る。
「会社……」
掠れた声が漏れる。
「会社に知られたら……」
刑事は淡々とメモを閉じた。
「今後、追加確認の可能性があります」
そして最後に言った。
「旅行中のSNS投稿も確認済みです」
美奈の顔が青ざめた。
あの時、自分は笑っていた。
『親預けて温泉最高♡』
『久々に自由♡』
軽い気持ちで投稿した写真。
海鮮料理。
笑顔。
旅館。
それが今、証拠になっている。
刑事たちが帰ったあと、部屋には重苦しい沈黙だけが残った。
雨音がやけに大きい。
「……どうすんの」
美奈が震える声を出す。
「どうすんのよこれ!!」
「俺に言うなよ!」
「だってあんたの母親でしょ!?」
「お前だって旅行楽しんでたじゃねぇか!」
「でも死にかけるなんて思わないじゃん!」
怒鳴り声。
罵声。
狭い部屋の空気が濁っていく。
その時だった。
ひまりが怯えた顔で立っていた。
「……もうやめて」
小さな声。
「パパもママも、ずっと怒ってる」
和也が振り返る。
ひまりの目は、もう以前のような無邪気さを失っていた。
「おばあちゃん、泣いてたのに」
その言葉が、胸へ深く刺さる。
和也は何も言えなかった。
一方その頃。
都心の高級マンション。
薫子は静かに窓辺へ立っていた。
床暖房の温もり。
磨かれた木の床。
遠くに見える夜景。
部屋にはローズマリーの青い香りが漂っている。
神楽がソファへ座っていた。
「警察、動きました」
「そう」
薫子は静かに紅茶を口へ運ぶ。
カモミールの優しい香り。
湯気がゆっくり立ち上る。
「後悔はありませんか」
神楽が尋ねた。
薫子はしばらく黙っていた。
窓の外では、冬の雨が街の光を滲ませている。
「……昔ね」
薫子は小さく呟く。
「和也が高熱を出した時、私は三日間寝なかったの」
神楽は静かに聞いていた。
「死ぬほど怖かった。あの子を失うのが」
薫子は目を閉じる。
「でも、あの子は違った」
静かな声だった。
怒りではない。
もう悲しみでもない。
ただ、長い年月を経てようやく辿り着いた諦めの声。
「だから終わらせたのよ」
ベランダでは、白いカサブランカが冬の風に揺れていた。
その花だけが、静かに薫子を見守っていた。




