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第12話 最後に残された一五〇〇万円

第12話 最後に残された一五〇〇万円


 雪になる前の雨だった。


 灰色の雲が低く垂れ込め、東京の街は冷たい水気に包まれている。


 和也はコンビニのビニール袋を提げたまま、アパートの階段を重い足取りで上っていた。


 安い缶コーヒー。


 半額シールの弁当。


 以前の自分なら絶対に買わなかったものばかりだ。


 二階の通路には古い油の匂いがこびりつき、どこかの部屋からは夫婦喧嘩の怒鳴り声が漏れていた。


 自分たちも、もう同じだった。


 夢も見栄も剥がれ落ち、残ったのは生活臭だけ。


 部屋へ入ると、美奈が苛立った顔でスマートフォンを見ていた。


「遅いんだけど」


「残業だった」


「嘘。絶対パチンコでしょ」


「行ってねぇよ!」


 和也は袋を乱暴にテーブルへ置いた。


 狭い部屋にカップ麺の匂いが広がる。


 ひまりは隅で静かに宿題をしていた。


 以前のように無邪気に話しかけてこない。


 両親の顔色を窺う癖がついてしまった。


 その時だった。


 玄関ポストが、がちゃん、と鳴った。


「また督促?」


 美奈が顔をしかめる。


 和也が封筒を取る。


 厚みのある白い封筒。


 差出人。


『神楽法律事務所』


 二人の顔が同時に強張った。


「……また?」


 美奈が嫌そうに呟く。


 和也は唾を飲み込みながら封を切った。


 中には数枚の書類。


 そして、一通の通知。


 静かな文字が並んでいる。


『教育資金贈与信託契約締結通知書』


「……は?」


 和也が眉を寄せる。


 美奈も横から覗き込む。


「教育資金……?」


 そこへ、ひまりが顔を上げた。


「おばあちゃん?」


 和也は続きを読んだ。


『春日薫子様は、孫・春日ひまり様に対し、教育資金一括贈与制度を利用し、金一五〇〇万円を拠出されました』


 空気が止まった。


「……せ、せんごひゃく……?」


 美奈の声が裏返る。


『本契約は信託型管理となり、受贈資金は教育目的以外に利用不可。保護者による任意引き出しは不可』


 和也の目が見開かれる。


 さらに続き。


『資金管理および支払い承認は、神楽法律事務所および提携金融機関により監督されます』


「ちょっと待って!!」


 美奈が叫んだ。


「なんで!?」


 紙をひったくる。


「なんでひまりだけなの!?」


 その声は、嫉妬と焦りで震えていた。


「これ、私たち使えないの!?」


 和也が低く言う。


「教育費専用って書いてあるだろ……」


「でも親なんだから!」


「無理だって!」


 美奈は紙を何度も読み返した。


 学費。


 塾。


 習い事。


 留学費用。


 教育関連支出のみ。


 領収書必須。


 弁護士監督。


 つまり。


 一円たりとも自由にできない。


「……ありえない」


 美奈の顔が歪む。


「お義母さん、そこまで信用してないわけ?」


 和也は黙っていた。


 胸の奥が妙に苦しかった。


 母は、ひまりだけは守ったのだ。


 自分たちではなく。


 孫だけを。


 その事実が、静かに刺さる。


 その時だった。


 封筒の奥から、小さなカードが落ちた。


 白い便箋。


 見慣れた、薫子の字。


『ひまりちゃんへ』


 ひまりがそっと手を伸ばした。


「読んでいい?」


 和也は黙って頷く。


 ひまりは小さな声で読み始めた。


『ひまりちゃん。あなたは、好きなことをたくさん学んでください』


 部屋が静かになる。


『ピアノでも、お絵描きでも、勉強でも、何でもいいの』


 美奈が唇を噛む。


『誰かに遠慮して夢を諦める子にならないでください』


 ひまりの目に涙が滲む。


『このお金は、あなたの未来のためだけに使われます』


 最後の一文。


『おばあちゃんは、いつでもあなたの味方です』


 ひまりはぽろぽろ泣き始めた。


「……おばあちゃん……」


 和也は顔を伏せた。


 母は最後まで、自分ではなくひまりを守った。


 それが痛かった。


 そして、情けなかった。


「ずるい……」


 美奈が低く呟く。


「なんでよ……なんでひまりだけ……」


「やめろ」


 和也が初めて強い声を出した。


「は?」


「母さんは、ちゃんと考えてたんだよ」


「何それ! 私が悪いって言いたいの!?」


「実際そうだろ!」


 美奈が立ち上がる。


「全部私のせいなの!?」


「お前だけじゃないよ!」


 和也も叫んだ。


「でも俺たち、母さんを見捨てたんだよ!」


 沈黙。


 重い沈黙。


 外では雨が降り続いている。


 ひまりは便箋を胸へ抱き締めていた。


 一方その頃。


 薫子は都心のマンションで静かに夜景を眺めていた。


 部屋にはローズマリーの香り。


 テーブルには温かなハーブティー。


 神楽が向かいへ座っている。


「手続きは完了しました」


「ありがとう、先生」


「かなり厳重にしてあります。親御さんでも勝手には触れません」


 薫子は静かに頷いた。


「それでいいの」


 窓の外では、都会の灯りが宝石みたいに瞬いていた。


「ひまりちゃんだけは、あの連鎖から外したい」


 神楽は黙って聞いている。


「お金ってね、使い方で人間が出るの」


 薫子は小さく笑った。


「だから私は、あの子の未来にだけ残したかった」


 ベランダでは、白いカサブランカが静かに揺れていた。


 冷たい夜風の中でも、その花はまっすぐ咲いている。


 薫子はそっとティーカップを持ち上げた。


 湯気の向こうで、ようやく穏やかな時間が流れていた。



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