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立会場 シカゴ物語  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第9章

 

「まあ、これで全部だと思う」グレトリーは椅子を押し退けてテーブルから立ち上がると、最後にそう言った。

 

 グレトリーとジャドウィンはグランド・パシフィック・ホテルの三階のジャクソン・ストリートに面した部屋にいた。時刻は夜中の三時。二人ともワイシャツ姿だった。二人が座っていたテーブルには書類や電信の用紙が散乱し、ジャドウィンのそばには葉巻の吸いさしと焦げたマッチでいっぱいの漆の盆と、氷水の入ったホテルのピッチャーが一つ置かれていた。

 

「そうだね」ジャドウィンは電報の束に目を通しながら気のない相づちを打った。「クルックスの出方がわかるまでは、それしかやりようがない。八時までにきみの事務所に行くよ」

 

「さてと」ブローカーはコートに袖を通しながら言った。「自分の部屋に行って、ひと眠りするとしよう。明日の夜のこの時間がどうなっているか知りたいものだ」

 

 ジャドウィンは、いらいらが高じてとげどげしい態度をとった。

 

「いいかげんに、サム、ギャーギャー言うのやめにしないか? これが怖いのなら抜ければいいだろ。もういい加減にしてくれないか?」

 

「まあ、まあ、抑えてくれよ」ブローカーはむっとした声で反論した。「最近きみは時々やけに怒りっぽくなるぞ、ジェイ。私はただ少し先に目を向けようとしただけだよ。撤退したがっているなんて思わんでくれ。そろそろ私ってものをわかってくれてもいい頃だぞ、ジェイ」

 

「そうだよな、すまん、サム」ジャドウィンは立ち上がって相手の肩を揺さぶりながら慌てて答えた。「このところ怒りっぽくてね。考えることがとても多いんだ。しかも一度にどさっとくるし。神経質にもなるさ。昨夜は一睡もできなかったんだ。さらにその前の晩は夜中の二時まで徹夜だっただろ」

 

「どうもきみは時々海賊みたいに悪態や文句ばかり言ってるな、ジェイ」グレトリーは続けた。「この二十年、これまできみの悪態なんて聞いたことがなかったのに。私が日曜学校の校長先生に言いつけないように気をつけることだな」

 

 ジャドウィンは言った。「四千万ブッシェルの小麦をかかえて、秒刻みで総量を把握しなきゃならなくなったら、誰だって悪態をつきたくなるさ。あの日の午後、きみのオフィスで買い占めに走ったのはよかったんだがな。ところがいざやってみると……そうか、きみは眠れなくて困まることがないわけか。我々の買い占めの事実をこの先ずっと隠しておけると思うかい?」

 

「思わんね」帽子をかぶり、書類を胸のポケットに突っ込みながらブローカーは答えた。「クルックスを破産させればわかってしまう……まあ、そのときは問題にならんさ。あそこの売り方をすべてやっつけ終わった後だからな」

 

「私は特にデイブ・スキャネルに狙いを定めている」ジャドウィンは言った。「奴が首まで浸かっていることを願うよ。そのときは私が奴を絶対に破産させてやる。さもなきゃ、ジャドウィンの名前は返上だ! あんな奴は、からっからになるまでしぼりあげてやる。ひとたびあのネズミをとっ捕まえたら、奴が心臓と呼んでるイボを隠す皮も毛も残させやしないからな」

 

「なあ、スキャネルがきみに何をしたんだい?」相手はびっくりして尋ねた。

 

「何もしてないよ。でも先日わかったんだ。あのハーガスの爺さん……哀れな老いぼれの、腰の曲がりの、くたばり損ないのハーガスを破滅させたのがスキャネルだってね。ハーガスとあいつは大きな取引をしてたんだ……随分と前のことだがね……そしてスキャネルがハーガスを売り飛ばしたのさ。ひどいもんだよ、前代未聞の最も卑劣で忌まわしい裏切りだったんだ! スキャネルは財を成したが ハーガスは今どうしてる? 見るも無惨な姿だろ。それにハーガスには養っている小さな姪御さんがいるんだ。事情は神のみぞ知るだがね。私は会ったことがあるんだ。絵に描いたような美人だよ。まあ、そんなことはいいんだが、私はハーガスのために五万ブッシェルの小麦を引き受けるつもりだよ。彼のために別の計画も用意したんだ。あの哀れな爺さんは、もう二度とひもじい思いをすることはないだろうよ! もし私がこの手でスキャネルをつかまえたら……もし私が奴を窮地に追い詰めたら……絶対、奴にぎゃふんと言わせてやる!」

 

 グレトリーはうなずいて、理解と賛同を示した。

 

「きみならやるさ」グレトリーは言った。「さて、私は寝るとするか。おやすみ、ジェイ」

 

「おやすみ、サム。また明日な」

 

 そして部屋のドアが閉まる前に、ジャドウィンは再びテーブルに戻った。もう一度、苦労に苦労を重ね、計画を練り直し、試行錯誤を繰り返し、変更を加え、再構築した。リスト、特電、きりがないメモの山で両手はふさがった。時折、文章の断片を独り言のようにつぶやいた。「うーん……そこは気をつけないといけないな……やつらでもそこには手が出せまい……あのニッケルプレート貯蔵庫の別館になら……そうだな……五十万は入るだろう……到着後五日以内に穀物を買えば、保管料を払わなければならない。それだと、そうだな……四分の三セント掛ける八万で……」

 

 一時間が経過した。やがてジャドウィンはテーブルから離れ、氷水を一杯飲むと、背伸びをしながら立ち上がった。

 

「少しは眠らないとな」ジャドウィンはつぶやいた。

 

 服を脱いでベッドに入ったが、眠ろうとしている間でさえ、開けておいた窓の隙間から、眠らない街の通りの騒音が部屋の中に侵入した。騒音は漠然としていて、遠くのざわめきに簡単に溶け込み、近づいてきて、リズムがついた。

 

「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦」

 

 ジャドウィンは目が覚めた。ちょうど眠りにつきかけていたのに。立ち上がり、窓を閉め、再び体を投げるようにしてたおれ込んだ。疲れて死にそうだった。生身の肉体に弱りも衰えもしない神経などありはしない。目がゆっくりと閉じた。すると、突然発作が起こって全身が激しく痙攣し、すべての筋肉が一斉に萎縮した。心臓の鼓動が激しくなり、息苦しくなった。すっかり目が覚めてしまい、ジャドウィンはベッドに座った。

 

「あーあ!」とつぶやいた。「発作か……きっと夢でも見たんだ」

 

 そして顔をしかめ、目を細めて話すのをやめた。外の廊下の電球から欄間を通して入ってくる柔らかい光に照らされた部屋をあちこち見回した。ゆっくりと手が額に伸びた。

 

 いきなり殴られたみたいに、あの奇妙な何とも言えない感覚が頭に戻っていた。まるで頭の内で霧と格闘しているようだった。あるいは、頭がしびれる、重い、いや、こめかみのあたりを(ひも)でぎゅっと締め付けるどころではない感覚が時々あった。

 

「煙草の吸いすぎかな」ジャドウィンはつぶやいた。しかしそれが理由でないことはわかっていた。そう言いながらも、名もない恐怖が初めて顔面を殴打するのをはっきりと感じた。

 

 短くひと息ついて、背筋を伸ばし、両手を顔にあてた。

 

「いったいこれはどういうことなんだ?」ジャドウィンはつぶやいた。

 

 部屋の壁から壁へと目をやりながら、しばらくじっとベッドに座っていた。少し気持ちが落ち着くと、もどかしそうに肩をすくめた。

 

「いいか」ジャドウィンは向かいの壁に向かって言った。「私は土壇場で怖気づく女生徒とは違うんだ。明日クルックスと相まみえる気なら、そろそろ寝ないとな」

 

 しかしジャドウィンは眠れなかった。窓の下で街が目を覚ましてたくさんの生活が始まり、朝の薄暗い光が欄間から差し込むガス灯の黄色い薄煙をかき消し、早めの目覚ましが隣の部屋で鳴った。そんな中でカーティス・ジャドウィンは目をあけたまま横になって、天井を見つめ、今自分が抱える膨大な作業に考えを集中させ、その複雑さや想像を絶する選択肢を再検討するか、あるいは気を抜いたとたんに頭を襲うあの不可解なしびれと、変な重だるさに悩むかだった。

 

 五時にはもうこれ以上ベッドにいるのに耐えられなくなった。起き上がり、入浴し、服を着て、朝食を頼み、ホテルの事務所に行き、三十分ほど朝刊の最新版を読んだ。

 

 そして事務所の隅で肘掛け椅子に深々と座っていると、終いには疲れた肩が落ち込み、疲れた頭がうなだれ始めた。新聞が指から滑り落ち、顎が襟元に沈んだ。

 

 通りの早朝の喧騒、新聞配達の叫び声、荷車の走る音が、ジャドウィンの耳にぼんやりと聞こえた。ずっと離れたところで、大きな人だかりができ始めているらしい。それが威嚇し怒鳴っていた。うごめき、移動し、進んでいた。腹立ち紛れに叫びながら通りを足早にやって来て、いよいよ角にさしかかり、いよいよホテルの入口に殺到した。その騒ぎは耳を聾せんばかりだったが、内容は聞き取れた。千、百万、四千万の声がリズムをつけて叫んでいた。

 

「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦」

 

 ジャドウィンは突然目を覚まして、椅子から飛びあがりかけた。窓からは朝日が差し込んでいた。フロントの上の時計が七時を告げ、ウエイターがすぐそばで言った。

 

「朝食の準備ができました、ジャドウィン様」

 

 食欲がなかった。トーストを少し口にしただけで何も食べられなかった。約束の時間のだいぶ前からグレトリーのオフィスでブローカーが現れるのを待っていた。椅子の肘を叩き、コートのボタンをつまみ、時々視界に入るすべてのものがゆっくりと後ろに移動して同じ平面に立っているように見えるのはなぜだろうと考えていた。

 

 次第に一種の無気力状態、薄目で呼吸が不規則な情けない寝たふり状態に陥った。しかし、それはそれでとてもありがたいことだった。小さな過熱気味の心の歯車と車輪は、少なくとも動きが緩慢になった。ひょっとしたら、これがやがて本当に恵まれた無意識へと発展していくのかもしれない。

 

 ドアの外で駆けつける足音がした。グレトリーが入ってきた。

 

「おや、ジェイ! とっくにお出ましか? どうせ、クルックスは鐘の音と同時に売り始めるだろう」

 

「そうなるかな?」ジャドウィンは立ち上がった。疲れた神経はすぐに再び張り詰めた。脳の小さな回路はすぐに再び限界ぎりぎりの力で回転した。「向こうはこっちを売り崩そうとしてるんだろ? いいだろうよ。こっちも売ってやろう。一番多く売るのは誰だろうな……クルックスか、はたまたジャドウィンか」

 

「売るだと! もちろん買うってことだよな」

 

「いや、そうじゃない。昨夜きみと別れてから、ずっと考えたんだけどね。小麦は、このおめでたい日の実売価格とまったく同じ価値があるんだぞ。私はまだ八分の一セントも高騰させていない。なのにクルックスは私がしたと思う。私にはあいつの手の内が本のように読めるんだ! 奴は、私が商品の価値を実態以上に高めたと思い、少し押せば下がると思っている。奴がその気になれば十セントは下げられるが、ゴムまりみたいに跳ね返えるだろうよ。奴が続けたがる限り、私は奴のペースに合わせて一緒になって売ってやる」

 

「そんなことしてみろよ、ジェイ」グレトリーは大きく息をしながら叫んだ。「そのリスクはイングランド銀行を襲うくらい大きいぞ。価格が一セント下がるたびに、きみの資産は約四千万ドル値打ちを下げ続けるんだぞ」

 

「私の言うとおりにやれば……私が正しいとわかるよ」ジャドウィンは答えた。「部下をここに集めてくれ。今日の段取りを指示する」

 

「クルックス事件」……ジャドウィンを中心とするグループでの通称……は、とても長い間、取引所では誰もが知る最大の激戦の一つだった。それは驚くほど意外な展開を迎え、海と海との間にあるどの商品取引所でも固唾を呑んで見守られた。

 

 決して忘れられることのない激動の四日の間、それは取引所の午前中のすべての時間を独占した。火曜日の午前九時半、クルックスはさっそく五月小麦の空売りを開始した。すると、立会場にいた全てのトレーダーが驚いたことに、彼の最初一撃で値崩れが発生した。二十分後には半セント下落した。この日、まさかの出来事が起きたのはそのときである。価格高騰を促進、助長してきた会社の代表として知られるランドリー・コートが立会場に現れ、買うどころか、クルックス一味と同じように大っぴらに売って、すべての前例とすべての計算を覆した。戦いは三日続いた。しかし、部外者には……立会場関係者にすら……それは戦いというより敗走に見えた。「未知の買い方」は倒れた、ついに敗れたのだ。小麦の価格をつり上げていた男が、偽りの人為的な不当な高値の背後にいた男が、今、粉砕されようとしていた。クルックスは叩く頃合いを心得ていた。ここに偉大な将軍がいた……雌伏の時を過ごしてきた真のリーダーがいたのだ。

 

 クルックス一味は、金曜日の立会終了までに、五百万ブッシェルも売っていた。「空売り」は自分たちが持っていない小麦を引き渡す約束ではあるが、安値で買い戻すことを見込んでいる。その日のマーケットは九十五セントで引けた。

 

 金曜日の夜、グランド・パシフィック・ホテルのジャドウィンの部屋で、グレトリーとランドリー・コートとグレトリーが最も信頼する側近二名とジャドウィンの間で会議が開かれた。この会議で二つの結論が出た。一つは、ジャドウィンのリバプール代理人に「市場が一ペニー動くまで、売りに出ている小麦をすべて購入せよ」の暗号電報を打つこと。もう一つは、ランドリー・コートとグレトリー・コンバース社の他の四名のトレーダーに対して出す普通の注文で、朝になったら立会場に入り、全然大っぴらにしないで、その週全体で売り続けた小麦の買い戻しを始めるというものだった。一人当たり百万ブッシェル購入する手筈だった。ジャドウィンは、グレトリーの言葉で言うと「寸分の狂いもなくクルックスにタイミングを合わせた」のである。問題の土曜日、確かにクルックスは、引けの鐘が鳴る前に買い方を倒せると信じて、これまで以上に大量に売り続けていた。

 

 しかし午前が引ける前に小麦は二セント値上がりした。マーケットには買い注文が殺到していた。価格はほとんど動かなかった。大きな文字盤の針の上には目に見えない不可解な磁石があるように思えた。そしてそれは、引きずり降ろそうとする売り方の奮闘努力を物ともしないで、針をどんどん持ち上げた。

 

 ぴりぴりする空気が漂い始めた。最初の数日、見境なく空売りしていた小口のトレーダーたちが、月曜日になるとあちこちで少しずつ買い戻しを始めた。

 

「さあ」その夜、ジャドウィンは宣言した。「今こそ全面攻勢をかけるときだ。明日の朝、一気に攻勢をかければ、勝手に一ドルまでいくだろう」

 

 そういうわけで火曜日の朝、グレトリー・コンバース社のトレーダーたちはさらに五百万ブッシェル購入した。この刺激を受けて、価格は羽毛のようにふわふわ上昇した。小口の売り方はますます不安になり、それを理由に買い戻しが始まってなお一層高くなった。

 

「群衆」の不安は膨らんだ。所詮、クルックスはそれほど全能ではなかったのかもしれない。結局、未知の買い方はもう一戦仕掛けたのかもしれない。そして「門外漢」がマーケットに加わった。またたく間に、すべてのトレーダーが「上値追い」をしていた。一週間前盛んに売り急いだように今度は誰もが買いに回った。価格は一気に急騰した。クルックスは、自分が余計に値段を押し上げてしまうのを恐れて、引き渡しの約束を履行するための小麦を買いそびれた。うろたえ、悔しがり、赤っ恥をかき、クルックスとその一味はこの大きな反動を見物しながら、マーケットがまた崩れればいいと藁にもすがる思いで、大人しく座っていた。

 

 しかし、今度は小麦が全然手に入らなくなった。突如、誰も売らなくなった。立会場のバイヤーたちは一ドル二セントを提示し、互いに競り合いを始めた。しかし小麦は出て来なかった。一ドル二セント半、一ドル二セント八分の五と競り合ったが、それでも小麦は出て来なかった。バイヤーたちは、必死になって、ランドリー・コートとグレトリー社のトレーダーたちの顔に向かって指を振りかざして叫んだ。「一ドル二セント八分の七! 一ドル三セント! 三セント八分の一! 四分の一! 八分の三! 半セント!」しかし相手は首を振った。一度に一セントという異常な値動きでもしなければ、小麦は売りに出なかった。

 

 この最後の値段で、クルックスは負けを認めた。彼の大きな機械のどこかで、ネジが緩んでいたのだ。どうやら、計算違いをしていた。クルックス一味が売って売って売りまくる間は、どんどん値下がりする。しかし買い戻しをしようとしたとたんに、小麦の売りものはなくなった。そしてその値段はどんな力でもコントロールできないほどの勢いで再び跳ね上がった。

 

 クルックスは今、自分と仲間が空売りした五百万ブッシェルは、どう扱っても一ブッシェル当たり数セントの損失を被らねばならないことを知った。売建玉(うりたてぎょく)は一つも買い戻しできていなかった。そして状況はクルックスが売り浴びせる以前とまったく同じ状態に戻ってしまい、未知の買い方は、それまで以上に堅固な支配力を持った。

 

 しかし、ここに来てようやくクルックスは事態の真相に薄々気づき始めた。マーケットがたびたび煮詰まり、膠着の度合いを強めた今、その疑念は確信に変わった。自分のオフィスに独り閉じこもって考え抜き、ついに結論を出した。

 

「誰かがマーケットに全く出回っていない大量の小麦を持ってるんだ。存在するすべての小麦を持っている奴がいる。その人物の名前に心当たりがある。シカゴ市場にある五月小麦の在庫は買い占められたんだ」

 

 これは、価格が一ドル一セントになったときのことである。クルックスは……最初から仲間の分まで運用や注文を手掛けていた……仲間が空売りした小麦を今すべて買い戻すと、取引が完了しないうちに価格が上がってしまうことをよく知っていた。他のメンバーには何も言わず、流れが変わることに期待して「もう少し辛抱しろ」と言うだけだった。なのに、自分の売り分は……徒党を組んで空売りした五百万ブッシェルのうちの自分の持ち分は……こっそりと買い戻しを始めた。自分の計画が破綻するのを見越して、マーケットから撤退したのだ。損をしたのは事実だが、それでも何とか持ちこたえることができた。もし流れが変わることに期待して「もう少し辛抱していたら」、買い方が自分に負わせる傷がどのくらい深くなるかわからなかった。「義務」についてとやかく考える余裕などなかった。今となっては「自己責任」だった。

 

 それから数日後、クルックスはラサール・ストリートにある自分の名前をつけたビルのオフィスに座っていた。時刻は朝の十一時頃。後ろでティッカーのカチカチいう音が聞こえると、乾燥肌の小さな鬚のない顔が、口角に少し皺を作った。クルックスはテープの読み方を知っていた。その朝は取引開始から三十分も経たないうちに会場でまた波乱があり、小麦が再び上昇した。この三十六時間の間に、小麦は三セントも値上がりしていた。ちょうどそのとき彼は、フロアのトレーダーたちが五月のオプション一ドルに九セントを上乗せして提示したのに、それでも取引できないことを把握した。マーケットは大荒れだった。渦を巻く立会場の怒号が聞こえる気がした。ラサール・ストリート全体が、シカゴ全体が、国全体が、世界全体が、耳を傾け、見守っていた。この騒動の反響を知ろうと風聞に耳を傾けなかったブローカーはロンドンの取引所にいなかった。その血気盛んな全音域のあらゆる変調に気を配ろうとしなかった会員はパリ取引所の柱廊にいなかった。

 

「まあ」カルヴィン・ハーディー・クルックスという人物の中に居座る内面の小さな声は、オフィスでティッカーに耳を澄ましながら言った。「勝手に騒がせておけばいいさ。そのくらいじゃこの俺さまを傷つけることはできないからな」

 

「クレスラーさんをお通ししてもよろしいでしょうか?」ドアのところで事務員が言った。

 

 クレスラーが慌てふためいて入ってきた。長身の猫背の男はだらしない格好だった。まるで何かの支えが取っ払われたかのような、言うなれば関節がなくなっていた。目は深く沈み、顔はげっそりして頬骨が露呈していた。片時も休まずせわしげに生唾を飲み込むものだから唇が濡れていた。

 

 仲間が近づくとクルックスはうなずいて、指を一本立てて椅子を差し示した。彼の方は無表情でいたって冷静だった。ぴくりともしなかった。相変わらず無口で、相手が話すのを待った。

 

「あなたに話したいことがあるんです、クルックスさん」クレスラーは慌てて話を始めた。「お……おととい、決めたんですが、踏ん切りがつかなくて。私だって順調にいくと期待してましたからね。でも、もう延ばせません……。クルックスさん、もうこれ以上は耐えられないんです。仲間を抜けなくちゃなりません。私にはこのペースに耐えられるだけの資金がないんです」

 

 沈黙があった。クルックスは動かず、表情も変えなかった。小さな目で相手を見つめながら、クレスラーが話を続けるのを待った。

 

「思い出していただきたいんですが」クレスラーは続けた。「私があなたの仲間に加わったとき、我々の活動は投機的なものにすべきではないとはっきり言いましたよね」

 

「おわかりと……」クルックスが言い始めた。

 

「ああ、弁解の余地がありません」クレスラーは口を挟んだ。「私にはわかってたんだ。最初からこれが投機になることはわかってたんだ。私は自分を誤魔化そうとしたんです。私は……まあ、こんなことあなたには関係ありませんね。要するに、私は市場から撤退しなければなりません。あなたがたを裏切りたくはないのですが」……クレスラーの指は腕時計の鎖をいじっていた……「裏切りたくはないのですが……つまりですね、私を抜けさせてください。私の分を買い戻してください……今すぐお願いします。私は……もう破産同然なんです。あと半セント上がれば、私はおしまいなんです。自分の分の小麦を買うにも、あ、あ……有り金のすべて……十年分の貯蓄がすべて必要なんです」

 

「それで、あなたの売り(ぎょく)はどのくらいでしたかな?」クルックスは尋ねた。「五十万ブッシェル?」

 

「そうです、九十八セントで五十万ブッシェル……それが今じゃ一ドル九セントだ。十一セントも跳ね上がったんです。私は……私はあと八分の一セントも耐えられません。即刻買い戻してください」

 

 クルックスは答えずに、デスクの電話機を手もとに引き寄せた。

 

 しばらくして「もしもし!」と言った。「もしもし! 今すぐ五月物五十万ブッシェル、成り行きで買ってくれ」

 

 受話器を置いて、椅子に寄りかかった。

 

「じき結果を報告してきますよ」クルックスは言った。「待っていたほうがいいでしょう」

 

 クレスラーは両手を後ろに組んで窓際に立ち、通りを見下ろした。返事をしなかった。数秒が過ぎ、数分が過ぎた。クルックスはデスクに向かい、数通の手紙にサインした。部屋の静寂を破るのはペンの擦れる音だけだった。そしてよくやく口を開いた。

 

「この時期にしては、生憎の天気ですよね」

 

 クレスラーはうなずいた。帽子を脱ぎ、額の髪をゆっくり根気強く後ろへなでつけた。そのときティッカーが再び音を立て始めたので、さっと振り返り、部屋を横切り、指でテープをたぐった。

 

「ああ」クレスラーは逸る気持ちを抑えてつぶやいた。「あなたの部下が時間を無駄にしないといいんですがね。また値上がりしましたよ」

 

 ドアの前で足音がした。クルックスが入室を促すと、事務所の使いの者が入ってきて、彼の手に伝票を渡した。クルックスはそれを見てから、机越しにクレスラーの方に押しやった。

 

「おまちどおさま」クルックスは言った。「買えましたよ。五月物五十万ブッシェル、一ドル十セントで。その値段で……いくらにせよ……買えただけ運がいい」

 

「十セント!」伝票を手に取り、クレスラーは叫んだ。

 

 クルックスは再び背を向け、何食わぬ様子で自分の手紙に目を通した。クレスラーは机の出っ張りに慎重に伝票を置いた。クルックスは顔こそ上げなかったが、相手がどれほど踏ん張り、気を引き締め、この一撃を真正面で受け止めるために全力を注いでいるか、手に取るように感じ取れた。

 

「あと八分の一セント値上がりしたらが破産だと言った矢先にこれだ」クレスラーは短く笑って言った。「ああ」クレスラーは険しい顔で付け加えた。「私は破産したらしい。でも、たまにはぐさりと刺されることもあるってことを予測しなくちゃいけなかったんですよね? ああ、大事なお金が五万ドルもなくなってしまった」

 

「もし知りたければ、誰がそれを手に入れたのかを教えることはできますよ」クルックスは答えた。「グレトリー、コンバース社がその小麦をあなたに売ったって、国債に対しての二十五セント分ってとこですよ。彼らはほぼすべての小麦を手に入れたんです」

 

「もちろん、あそこが大量に買い付けてたことは知ってます……この未知の買い方についてよく話してましたからね」

 

「まあ、私には未知じゃないですよ」クルックスはきっぱりと言った。「私はそいつを知ってますから。そいつの正体はカーティス・ジャドウィンですよ。我々がずっと戦ってきた相手は彼なんです。どうせ三、四日もすればここは大混乱になりますよ。あいつがマーケットを買い占めたんですから」

 

「ジャドウィンが! ジェイのことを言ってるのか……カーティス……私の友人がか?」

 

 クルックスは低い声で断定した。

 

「でも……もう相場はやめたって言ったんだぞ……永久に」

 

 クルックスは、この発言が何か気休めの言葉を求めているとは思わないようだった。ポケットに手を入れて、クレスラーに目をやった。

 

「向こうは知ってるんですか?」クレスラーはたどたどしく言った。「私があなたがたの仲間だと彼が知っていたと思いますか?」

 

「あなたが自分で言わない限り知りっこないですよ」

 

 クレスラーは咳払いをして立ち上がった。

 

「私からは言ってませんよ、クルックスさん」クレスラーは言った。「私がこのグループの一員だったことを、世間にも、みんなにも、ジャドウィンにも、どうか知られないようにしていただきたい」

 

 クルックスは椅子を回転させて、机の方を向いた。

 

「まさか! 私がしゃべるわけないでしょ?」

 

「それじゃ……失礼します、クルックスさん」

 

「お気をつけて」

 

 独りっきりになると、クルックスは部屋をひと回りした。やがて床の真ん中で立ち止まり、考え込むようにして自分の細い小さな足を見下ろした。

 

「ジャドウィンめ!」クルックスはつぶやいた。「ふん! この船のボスは自分だと思ってるのか? お前なんかやっつけてやるからな、えっ? ああ、そうだ、お前は小麦を買い占めるつもりなんだろ? いいか、これだけは肝に銘じておけよ、カーティス・ジャドウィンさん、『他の連中の目につくほど大物になるんじゃねえぞ……レンガが飛んでくるからな』」

 

 クルックスは椅子に座り、薄い唇に細いきゃしゃな手をやった。

 

「よし」クルックスはつぶやいた。「もうお前を殺そうとするのはやめにしよう。お前は小麦を買い占めたんだっけな? いいだろう……。小賢しい奴め、お前の小麦が私がやりたい殺しをちゃんとやってくれるだろうよ」

 

 ついに、この大がかりな買い占めのニュースは信に足る確かなものとして国中に広まった。そしてカーティス・ジャドウィンの姿と名前は一躍、人々の目に大物とか恐るべしと映るようになった。シカゴ市場には小麦が全然なかった。「ラサール・ストリートのナポレオン」の異名を持つ大物の彼が、すべて持っていて、自分の好きなように売買し、決済のために小麦を買わねばならない人たちに金額を提示した。彼の手が小麦取引価格の表示盤の針であり、円の角度は大きくも小さくも自由自在になるとばかりに動かした。

 

 シカゴだけでなく、アメリカ合衆国のあらゆる都市の新聞が、彼を「ネタ」にした。買い占めの経緯、及ぼした影響、年代記、結果が繰り返し語られ、彼の名前は、数え切れないほど大勢の人々の家庭や炉辺の語り草になった。彼に関する「逸話」が流布され、インタビュー記事……ほとんどが編集室ででっち上げられたもの……が印刷された。写真も掲載された。「鷲のように鋭い」冷酷で計算高い灰色の目をした冷静沈着な鋼鉄の男、と評されたかと思えば、黒い目をぎらつかせた盗賊のように大胆不敵な命知らずのギャンブラー……まさに海賊だったり、ひ弱そうな顎をした消極的な小柄な優男、あるいは女優とパーティーと、シャンパンを浴びるのが大好きな陽気で騒々しい「お大尽」だった。

 

 民主党の新聞では、泥棒より少しましと非難され、貧しい人々の顔を踏みつけ、何百万人もの労働者から搾取し、その贅沢に浸って肥え太る人民の抑圧者として酷評された。共和党の新聞は、この国が入りつつある新しい繁栄の時代を物々しく語り、物価の上昇は資本主義産業を刺激すると唱え、状況を歪めて、次の大統領選挙で共和党が圧勝する兆しであるとこじつけた。

 

 今、ジャドウィンが本拠地にしているグレトリーのオフィスは連日、人が詰めかけた。記者たちはこの大物から会釈と一言コメントをもらいたい一心で、丸半日、控え室で待機した。プロモーター、発明家、小口の投資家、代理店、メーカー、はては「クレヨン画家」、馬喰、仕立屋、船大工までが、「プライベート」と書かれたドアの外で互いに肩を寄せ合った。

 

 アイオワやカンザスの農民たちが、わずかばかりの小麦を、かつては不可能と思われていた価格で売るために街にやってきて、通りで彼と握手を交わし「神の恵みの地」を見に来るよう促した。

 

 あるとき、こうした小麦栽培者の代表団がその部屋に入り込んだ。銀の贈呈杯を持参して、その代表は、着慣れないブロードの服をまとい、ぴかぴかのブーツをはき、どもりながら、ひどくおどおどして、短い演説をした。ジャドウィンの買い占めのおかげで、中西部全域に、つまり小麦の産地全域に、繁栄の大きな波が押し寄せていることを説明した。借入金が完済され、新型の進歩的な農機具が購入され、新しい土地に種がまかれ、新しい家畜が飼われるようになった。男たちは再び馬車を買い、女たちは客間に置く楽器を買い、家や家屋はどんどん建て増しされた。要するに、中西部の農民全体が日々豊かになっていた。ジャドウィンがこの頃カンザス州のベイツ・コーナーズに住む老人から受け取った手紙に、こういう言葉があった。

 

「……今七歳になろうとしている私の娘は郡庁所在地の小学校でクラス一優秀でございます。そして、パパを助けて農場を救ってくれたジャドウィンさんに神のご加護を祈らなぬ夜は一日もないことを、あなたさまにお知らせせねばなりません」

 

 もし別の側面があったとしても、たとえ自分の勝利の輝きがそれの裏側に影を落としたとしても、ジャドウィンは無視できた。それは彼から遠く離れていて、ジャドウィンには見えなかったからだ。そうは言うものの、しばらく忘れられそうもない話がジャドウィンの耳に入ったのはこの頃である。それはコーセルを通じて伝わったが、彼の耳に届くまでに何人もの口を介しており、かなり寄り道していた。

 

 話というのは、そのとき北イタリアを歩いて旅行していたあるアメリカ人の画学生のことだった。ひどい話だった。ジャドウィンは、それを信じようとせず、話を面白おかしく膨らませていると非難して、まともに取り合わなかった。でも、なぜかその話はあってもおかしくない気がした。真実味があったからである。

 

「そして僕はアレッツォから一キロほど離れた幹線道路で、この若者に会いました」画学生は言った。「年の頃は二十から二十二という立派な人でした。世界のことは何も知らず、イギリスをヨーロッパ大陸の一部だと思ってるほどでした。彼の中ではカヴールとマッツィーニがまだ生きてました。しかし、私がアメリカ人だと告げたとたんに、はっとしたんです。

 

 『ああ、アメリカ人か』と言いました。『あなたのお国の方なら、ここイタリアでも有名だ……シカゴのジャドウィンが、小麦を全部買ったんですよね。おかげで私たちはもうパンが食べられない。拳ほどの小さなものでも高価でね。私たちじゃ買えませんよ。お金がないですから。でも私はいいですよ。若いですから。レンズ豆でもクレソンでも食べればいい。でも』ここで若者の声が小さくなりました……『でも母は……私の母は!』」

 

「そんなのは嘘だ!」ジャドウィンは叫んだ。「嘘に決まってる。神様、私にまつわる近頃の新聞記事をいちいち信じていたら、私は気が変になってしまう」

 

 しかし、ジャドウィンが小麦の価格を一ドル二十セントに上げると、ミネソタやウィスコンシンの大手の製粉所は粉を挽くのをやめてしまい、製粉よりも小麦を売る方が利益が大きいと気づき、マーケットに在庫を売り飛ばした。その結果、パン屋はパンの値段を上げなかったが、シカゴでも、贅沢品がごろごろしている偉大な中西部の中心地でさえも、パンは小さくなった。貧民街からは苦情や抗議、不平不満ともつかない文句がたらたらと聞こえてきた。

 

 五月中旬のある月曜日、ジャドウィンは取引所の一階にあるオフィスのグレトリーのデスク(ずいぶん前から彼が使っていた)で、回転椅子に座り、そわそわしながら前後に揺らし、指で肘掛けを叩き、向かいの壁の掛け時計にしきりに目をやった。時刻は午前十一時頃。頭上で二時間の間、渦を巻き起こしては吸い込み、流れを起こしては吐き出していた立会場が荒れに荒れて、取引所までが揺れた。オフィスの待合室はいつも以上に混んでいた。おこぼれにあずかりに来たあらゆる種類の人が、肩や肘で壁をぴかぴかにし、大富豪と物乞いが入口で押し合いへし合いを繰り広げた。ある銀行の副頭取は、プライベートオフィスのドアをこっそりのぞき、鉄道の運行管理者は、自分の番を待っている間、記者たちと景気のいい話を交換した。

 

 この偉大な男の副官のグレトリーが控え室を慌ただしく通過すると、会話はぴたっとやみ、人一倍せっかちな人が半ダースほど我先にと飛び出した。しかしブローカーは首を振り、できるだけ言い訳をしながら人ごみをかき分け、オフィスに入り、ドアを閉めた。

 

 鍵の音がするとジャドウィンは椅子から半身を起こしたが、ブローカーだとわかると、はっと息をのんで深く座った。

 

「ノックぐらいしたらどうなんだ、サム?」ジャドウィンは叫んだ。「びっくりさせて死なすのも人殺しも同じだぞ。で、どんな様子なんだ?」

 

「順調だ。倉庫の連中は抑えた……それとこのへんの新聞の社説とニュース欄はほぼ手を回してある」グレトリーは机にメモを投げた。「私はこれからまた出かけてくる。十分後にノースウェスタンの連中と約束があるんだ。ハーガスかスキャネルはまだ顔を見せてないのか?」

 

「ハーガスはいつも客溜まりにいるよ」ジャドウィンは答えた。「そっちはいつでもつかまえられる。でも、スキャネルがまだ現れないんだ。金曜日にもう一回値段をつり上げれば、奴をおびき寄せられると思ったんだがな。きみの計算では、奴はあの高騰に耐えられないはずだったよね」

 

「あれには耐えられないさ」グレトリーは答えた。「明日か明後日にはきみに会いに来るだろうよ」

 

「明日か明後日じゃ駄目だ」ジャドウィンは答えた。「今日中に引導を渡したいんだ。フロアまで行って、もう一セント吊り上げてくれ。そうすれば来る。さもなきゃ私の見込みが外れたんだ」

 

 グレトリーはうなずいた。「了解、きみのゲームだからな。ランチで会おうか?」

 

「ランチか! 私は食べられないな。でも、立ち寄って、北西部の人たちの意見を聞くとするか」

 

 グレトリーが去ってしばらくすると、ジャドウィンは部屋の反対側にあるティッカーが激しく音を立て始めるのを聞いた。同時に、遠くに聞こえる立会場の喧騒が急に激しくなって、さらに鋭く、甲高くなることが想像できた。ジャドウィンはテープを見た。一セント上昇したことが反映されていた。

 

「持ちこたえようっていうのか、お前は?」ジャドウィンはつぶやいた。「さて、様子見るとするか」ジャドウィンは腕時計を出した。「あと十分もすれば私のところに駆け込んでくるだろう」

 

 ジャドウィンは振り返って、事務員に声をかけ、ハーガスを見つけて連れてくるように命じた。

 

 老人が現れると、ジャドウィンは飛び上がり、ゆっくりと近寄りながらに手を差し出した。

 

 くたびれた帽子が手の中にあった。色あせて汚れたフロックコートの胸ポケットから、古新聞の束が突き出ていた。ひょろひょろのネクタイが、擦り切れたシャツの前にぶらさがり、手首では、袖から外れたしわくちゃのカフスが片方、服地とリネンの間で地肌の細い手首をのぞかせ、火のついていない臭い葉巻を持つ指の邪魔をした。

 

 老人はこうして呼びつけられたことに明らかに困惑し、近づきざまに、薄っすらと赤みを帯びたまぶたの目で、おどおどとジャドウィンを見上げた。

 

「座ってください、ハーガス。会えてうれしいよ」ジャドウィンは声をかけた。

 

「えっ?」

 

 その声はかすれ、少し不満気だった。

 

「座れと言ってるんだ。椅子にどうぞ。あなたと話がしたい。あなたもかつて小麦の買い占めをやったでしょ」

 

「ああ……小麦ね」

 

「そう、買い占めたでしょ。覚えてますか?」

 

「ああ、でも、随分昔の話だ。七十八年だったな……九月物のオプションだ。そして、取引所は積荷の小麦まで『標準』で扱ったんだっけな」

 

 彼の声は語尾が聞こえなかった。頬を吸い、大きな骨だらけの手のへりで唇をぬぐいながら、部屋の床をぼんやり見ていた。

 

「確か、あの時、全財産を失ったんですよね。相棒のスキャネルがあなたを売り飛ばした」

 

「それが? 七十八年のことだ……。取引所の責任者が朝の十時に売買停止を発表したんだ。もし取引所が積荷の小麦を『標準』に決議しなかったら……」

 

 経年劣化で重みがすっかりなくなった同じ文句をそっくりそのまま繰り返しながら、ハーガスは感情を交えず話し続けた。

 

「そう」ようやくジャドウィンは口を挟んだ。「相棒のスキャネルがあなたにしたんでしたね。スキャネルですよ。ご存知でしょ、デイブ・スキャネル」

 

 老人は困惑した様子で相手を見た。そして、その名前が萎縮した脳に無理やり押し込まれたとき、活気のないぼんやりしたその目に、一瞬だが、光だか、きらめきだか、古いずっと忘れていた炎のぱっと飛び散る火花がちらりと見えた。それはそこで一瞬輝いたが、次の瞬間にはまた姿を消した。

 

 哀れに、愚痴っぽく、ハーガスは繰り返した。

 

「七十八年のことだったな……。俺は三十万ドル失ったんだ」

 

「姪御さんはどうしてますか?」最後にジャドウィンは尋ねた。

 

「姪って……リジーのことか?……元気で幸せだ、元気で幸せにやってるよ。お……俺の」……ハーガスはポケットから封筒や新聞やチラシなど、汚い紙の分厚い束を取り出した……「お……お……俺の持ってた写真は、どこいったかな」

 

「はい、はい、わかってますよ」ジャドウィンは叫んだ。「それなら見たことありますから。昨日、見せてくれましたよ、覚えているでしょ」

 

「お……俺はどこかに……どこかにしまったんだがな」老人は手探りで、きょろきょろしながら言った。そんなことを話しているうちに入口で事務員が告げた。

 

「スキャネル様が見えました」

 

 大柄の太った男で、赤ら顔には針金のような白くて短い髯があった。小さなギムレットのような目と、巨大で毛深い耳を持ち、「大きめ」スーツを着て、とても洒落たシルクハットをかぶり、やたらとでかい態度で、喧嘩腰に大声を張り上げながらオフィスに入ってきた。「やあ、どうだい、大将?」

 

 ジャドウィンは、しかめっ面で一瞥して頷いた。

 

「こんにちは!」ジャドウィンは言った。

 

 相手は椅子に腰を下ろし、しかめっ面にしかめっ面を返した。

 

「まあ、いいさ、それがそっちの流儀ならな」スキャネルはつぶやいた。

 

 ハーガスが机の向かい側の席にいて、まだ汚い紙をいじりながらぶつぶつ言っているのを見たものの、スキャネルはそれが誰だかわかったそぶりを見せなかった。少し黙り込んで、それから最初のぶっきらぼうな調子を声からきれいに取り除いて言った。

 

「まあ、やってくれたもんだ。すっかり食い物にされちまった。お見通しだぞ。どうせ俺はお前さんが猟のついでに捕まえた他の大勢の馬鹿どもの一人なんだろ。さて、こっちが知りたいのは、お前さんの支配から抜け出すには、いくら出せばいいのかってことなんだ。いくらだよ? 何とか言ったらどうなんだ?」

 

「言いたいことはたくさんある」ジャドウィンは再び顔をしかめながら言った。

 

 ハーガスはやっと一枚の写真を彼の手に突き出した。

 

「あったぜ」ハーガスは言った。「これだ。これがリジーだよ」

 

 ジャドウィンは見もせずその写真を受け取り、話を続ける間、写真を手に持ち、それで時々机を叩いた。

 

「わかってる。わかってるよ、ハーガス」ジャドウィンは答えた。「言いたいことが山ほどあるんだ、デイビッド・スキャネルさん。ここにいるこの老人がわかりますか?」

 

「おい、いい加減にしろよ!」相手は唸った。

 

「ハーガスだよ。よくご存知のはずだ。昔はもっとよく知ってたんだろう。かつてあなたと彼は一緒になって九月小麦でどでかい取引をしようとした。ハーガス! おい、ハーガス!」

 

 老人は顔を上げた。

 

「ここに我々が話していた男がいるぞ。スキャネルだ、覚えてるでしょ。七十八年のあなたの相棒だったデイブ・スキャネルですよ。ご覧なさい。今ここにいるのがそうです。今は金持ちですよ。覚えてますか、スキャネルを?」

 

 ハーガスは、老いてかすんだ目をぱちぱちさせて涙を流しながら、机越しに男を見た。

 

「おい、何のつもりだ?」スキャネルは叫んだ。「俺は見せもんじゃないぞ。俺はな……」

 

 しかし、ハーガスの震える唇から一度に発せられた鋭くせわしいあえぎ声によってスキャネルはさえぎられた。老人は何も言わず、椅子に座ったまま大きく身を乗り出した。目はスキャネルを見すえ、呼吸は荒く、指は踊るように顎をさすっていた。

 

「そうだよ、ハーガスだ」ジャドウィンは言った。「あなたと彼は、昔、大きな取引をしたことがある」突然スキャネルの方を向いてジャドウィンは続けた。こめかみがぴくぴくし始めていた。「大きな取引だったな。彼を売ったんだから」

 

「嘘だ!」相手は叫んだ。

 

 ジャドウィンは拳で椅子の肘かけを叩いた。答えたときの声はほとんど叫び声だった。

 

「『お前が……彼を……売った』ことはわかってるんだ。お前がどんな虫けらか、こっちはお見通しだ。お前は自分の汚いその獣の皮を守るためにハーガスを破滅させた。それ以来ハーガスはずっとここの若い衆の施しにすがって生きてきたんだ。肩身が狭く腹をすかせ疎外されつつも、どうにかこうにか生きてきたんだ。そう、そして小さな姪御さんも養っている。一方お前は、クラブをぶらつき、蒸気ヨットの上でのんびりし、愛人の女たちの尻を追いかけまわしていたんだ……お前が彼から盗んだ金でな」

 

 スキャネルは小さな目を輝かせて椅子の中で身構えた。

 

「おい、いいか」荒々しく叫んだ。「靴の革をまとったご立派な奴からそんなことを言われる筋合いはないぞ。黙れよ、いいか? 黙りやがれ」

 

 下顎が威嚇するようにビシッと決まり、ジャドウィンは猛然と威圧するように前に身を乗り出した。

 

「今度口を挟んでみろ」ジャドウィンは宣言した。「お前はそのドアから出て破産者になるからな。お前は私の言うことを聞き、命令に従うんだ。そのために今日ここにいるんだからな。もしどこかよそで小麦を手に入れられると思うんなら、やってみたらどうだ」

 

 スキャネルは憮然としてその場に座り込んだ。返事をしなかった。ハーガスは目のやり場に困ってしまい、再び目が泳いた。そして、ジャドウィンは机の上の書類をかき分けてから、あるメモに目を留めた。急に向きを変えて相手と向かい合い、早口で言った。

 

「お前は一ブッシェル一ドルで二百万ブッシェルほど売っているな」

 

「そんなことはない」相手は言った。「百五十万だ」

 

 スキャネルがいとも簡単に罠にかかったのを見て、ジャドウィンは不敵な笑みをこぼさずにはいられなかった。

 

「それじゃ、お前は百五十万ほど売っているな」ジャドウィンは繰り返した。「一ブッシェル一ドル五十セントで六十万ブッシェル提供してあげよう」

 

「一ドル五十セントだと! おい、お前な! まあ、いいか」……スキャネルは開き直って両手を広げた……「こっちはどうせ破産するんだ……お前の言ったとおりにな」

 

「いや、とんでもない」ジャドウィンは反り返って足を組みながら答えた。「私はお前の資産内容を徹底的に調べ上げたんだ、スキャネルさん。そのくらいの金はあるだろ。私は、お前が潰れずに耐えられる範囲を、一セントの端数までわかってるんだ」

 

「ふん、馬鹿馬鹿しい。それっぱかりの小麦に三十万ドル払えだと」

 

「その通り」

 

 結局、スキャネルはすぐに折れた。顔色一つ変えず、落ち着いて、ポケットから小切手帳を取り出した。

 

「支払いは持参人払いにしてくれ」ジャドウィンは言った。

 

 スキャネルは了承した。ジャドウィンは小切手を受け取り、慎重に目を通した。

 

「さあ、よく見ておけよ、デイブ・スキャネル。この小切手が見えるか? ほーら」ジャドウィンはそれをハーガスの手にねじ込んだ。「こいつの行き先がわかったか。これで借金の元本が完済された」

 

「元本だと?」

 

「利子を忘れてないよな? 複利では計算しないよ、そんなことしたらお前が破産するかもしれないからな。しかし、一八七八年から三十万ドルに六パーセントの利息がかかるとなると……ええと……三十六万ドルになる。それにまだ小麦九十万ブッシェルの負債が私に対してあるじゃないか」ジャドウィンは一枚のメモ用紙を使って少し計算した。「一ブッシェル一ドル四十セントでその小麦を買ってもらえば、ちょうどその金額になるな……よし、これでいい。その小麦の残りを一ドル四十セントで譲ってあげよう。小切手はさっきのと同じように持参人払いにしてくれ」

 

 スキャネルは一瞬ためらったが、顔を紫色にし、歯を食いしばり、小声で怒りをつぶやきながら、再び小切手帳を開いた。

 

「ありがとうよ」ジャドウィンは小切手を受け取りながら言った。

 

 呼び鈴に手を触れた。

 

「キンジー」ジャドウィンは応答した事務員に向かって言った。「今日のマーケットが終了したら、スキャネルさんのところに小麦百五十万ブッシェル分の納品書を送ってくれ。うちとの取引は清算されたからね」

 

 ジャドウィンは老人の方を向いて、二枚目の小切手を渡した。

 

「ほら、ハーガス。大事にしまっておくんだぞ。これが何だか、わかるだろ? そのうちの百ドルでリジーに小さな金の時計を買ってやれ。カーティス・ジャドウィンがよろしく言ってたと伝えてな……。何だよ、スキャネル? お前にはさようならだ。あ、ちょっと!」後ろから呼びかけた。「出ていくときドアをバタンと閉めないでくれよな」

 

 しかし、スキャネルが猛然と敷居をまたいだときに、板ガラスが枠から飛び出しそうになったので、ジャドウィンは身を守る仕草をしてよけた。

 

 ジャドウィンはもったいつけてウィンクをしながら、ハーガスの方を向いた。

 

「結局、バタンと閉めやがった」

 

 しかし、老人は無言で二枚の小切手を指でさわりながら座っていた。やがて、怯え、震えながら、ジャドウィンを見上げた。

 

「ああ……何が何だかわからない」ハーガスは気弱につぶやいた。「耄碌しちまったな。こ……こいつは大金ですぜ、旦那。ああ……何って言ったらいいのか……お……俺にはわからない。耄碌しちまってね……歳はとりたかねえな」

 

「もうなくさないだろ?」

 

「も、もちろんで。ただちにイリノイ信託に預けます。お願いなんですが……俺としては」

 

「事務員をお付けしますよ」

 

「お願いします、それなんですよ……お……俺が言おうとしてたのは。でも言わなくちゃいけないのはですね、ジャドウィンさん……」

 

 ハーガスはもごもご感謝の言葉を述べ始めた。しかし、ジャドウィンは相手を黙らせた。立ち上がると、ハーガスの肩に片手を置いてドアまで案内し、外のオフィスの入口で事務員に声をかけた。

 

「ハーガスさんをイリノイ信託にお連れして紹介してさしあげろ、キンジー。口座を開きたいそうだ」

 

 老人は事務員と一緒に出かけたが、ジャドウィンが改めてデスクにつく前にまた戻ってきた。老人は、まるで突然、名案がひらめいたのか、急に興奮し出した。震える手で唇をかばいながら小声で話す間、人目を忍んでこそこそして、肩越しに何度も様子をうかがった。

 

「あ……あなたが……あなたが今支配しているんですね」ハーガスは言った。「あなたならできるんだ……ねえ? ほんの少し……一声でいいから……くれるだろ。一声でいいんだって、なあ? なあ? ちょっとした小遣いだ。なあ、昼までに五十ドル稼げるかもしれんのだ」

 

「おい、私が五十万近く渡したばかりだろ」

 

「五十万? 知るもんか。でもよ」……ハーガスはジャドウィンの袖を恐る恐るつまんで……「ほんの一声だよ」と言った。「なあ、くれるのか、くれないのか」

 

「あの二枚の小切手では足りないのか?」

 

「あの小切手? ああ、わかってる、わかってる、大事に保管するって。ちゃんとイリノイ信託に入れておくさ。そっちのは手をつけないよ。だからさ、ちょっと小遣いくれよ、なあ?」

 

「駄目だ。駄目だ。この人を連れて行け、キンジー」

 

 その一週間後、ジャドウィンはパリの代理人を通じて、「現物」小麦を一ブッシェル一ドル六十セントで大量に売った。このころには、外需の金銭感覚はほぼ麻痺し、価格を度外視していた。「どんな犠牲を払っても、どんな数字でも、どれだけ費用がかかってもいいから、小麦をよこせ。そしてひたすらそれを蒸気と鉄の機関を駆使して自分のマーケットに運ぶだけ」だった。地元のシカゴ商品取引所で、ジャドウィンは自分の右手のようにマーケットを完全に支配していた。ジャドウィンが指を立てると、すべてが止まり、うなずくと無理にでもすべてが動き出した。買い占めで得た利益を算出できないほど、彼の財産は驚くほどの速さで増えた。総額は二千万を超えるが五千万には満たなかった。ジャドウィンでさえそれしか知らなかった。人間の攻撃にさらされたら難攻不落の丘といえど彼ほど安泰ではなかった。占領地の兵隊から怨嗟の声さえささやかれなかった。自分の領内でこれほど無抵抗で権力を振う皇帝、国王、独裁者はこれまでいなかった。

 

「サム」カーティス・ジャドウィンはついにブローカーに言った。「サム、もはや世界の何ものもこの私を止めることはできない。私がこの買い占めで何か大きなことをしてきたとみんなは思っている。だが、私はまだ始めたばかりだ。これはほんの触りに過ぎない。カーティス・ジャドウィンが実際にどれほどすごい男か、これから思い知らせてやるんだ。私はこの取引を七月に持ち越すからな。七月物を売り建てるつもりだ」

 

 二人はいつものようにグレトリーのオフィスにいた。ジャドウィンが話す間、ブローカーは不審な顔を向けた。

 

「いよいよ本当に狂ったか」

 

 ジャドウィンはすくっと立ち上がった。

 

「狂っただと!」声を張り上げた。「狂ったとは、どういう意味だ? 狂っただと! 頼むから、サム……私にそんな言葉を使わんでくれよ。私には似合わないからな。私がやったことは正確には……頭脳戦じゃない。説明させてくれ。いいか、いいかい、あえて私はこの取引を七月まで持ち越すつもりだ。ようやく手応えをつかみ始めたのに、今、手放すと思うか? 今、手を引くのは余程の馬鹿だぞ……仮にできたとしてでもだ。手を引くだと? どうやって値崩れを起こさずに小麦を売り払うんだい? 無理だろ、うまくいかんさ。今、マーケットは二ドルをつけようとしている」ジャドウィンは握り拳で膝を叩いた。顔が急に紅潮し始めた。「いいか、二ドルだぞ」ジャドウィン叫んだ。「二ドルだ、聞こえたか? そこまでは行くさ、まあ、見てればいい」

 

「新麦の作柄報告が六月に出始めるんだぞ」グレトリーの警告はほぼ絶叫だった。「今は小麦の値段が高いが、この春にどれだけの農家が小麦を植えるかは神さましか知らないんだ。記録的な豊作に立ち向かわなければならないかもしれないんだぞ」

 

「承知の上だ」ジャドウィンは言い返した。「私は現状を注視している。きみにはわからんよ。きみの言う『新麦』はすべて計算済みなんだ」

 

「それじゃ、きみは全能の神そのものだね」

 

「その手の冗談は好きじゃない。その手の冗談は好きじゃないんだ。それは神への冒涜だ」ジャドウィンは叫んだ。「そういうのはクルックスにでも言ってくれ。あいつなら感謝するだろうが、私はしない。でも、新麦の件だがね、ほら……これを見てくれ」

 

 そして二時間以上も、ジャドウィンは議論し、数字を並べ、自分が正しいことを証明するための統計資料を延々とグレトリーに見せ続けた。

 

 しかしグレトリーは最後に首を振った。冷静に、慎重に、自分の考えを語った。

 

「ジェイ、聞いてくれ。きみは大仕事をしたんだ。それは知っている。それから、この一年の間に、私が間違っていて、きみが正しかったことがたくさんあったことも知っている。でも今度ばかりは、ジェイ、間違いなく、我々は限界まで来てしまったんだ。今日の小麦は一ドル五十セントの価値があるが、それ以上は一セントもない。その数字を八分の一ずつ超えるたびに無理が祟るんだ。もし二ドルまで引き上げたら……」

 

「勝手にそこまで行くさ」

 

「……もし二ドルまで引き上げたら、頭が重すぎて、ほんのちょっと蹴っただけでひっくり返ってしまうぞ。手にした分でそろそろ満足しろよ。ジェイ、ここらが潮時だぞ。いいかげん五月物を手仕舞いして、ここらでやめよう。仮に少しくらい相場が崩れたとしても、それでも大儲けできるだろう。しかし、この取引を七月に持ち越してみろ。破滅だ、破滅だぞ。これまでは私が間違っていたかもしれないが、今は正しいと思っている。そうだ、ジェイ、昨日、立会場で空売りがあったのを知ってるか? きみに楯突いて小麦の空売りをやってのけた奴がいる……買い占めの最高値でな……そして今朝はそれを上回る売りが出ている。きみは常に買わなければならないんだ。みんなが一斉に売り始めたら、一発で破産だぞ。きみが睨みを効かせているから……私はそう信じてるんだが……みんなは遠巻きにしているだけなんだぞ。しかし、今回の売りは、みんなが心を一つにしかけていることを証明したように私には見える。収穫が始まれば、小麦は農家から手に入れればいいとみんなは考えているんだ。それにな、ジェイ、きみが小麦の値段を吊り上げたものだから、小麦の産地が国中に広がっているんだぞ」

 

「怖気づいたか」ジャドウィンは叫んだ。「これだからきみは困るんだ、サム。きみは最初から怖がっていた。わからんのか、え、マーケットは定期的に荒れるものなんだ」

 

「私には全国の農家が、今まで一度も植えたことがない小麦を植えている様子が見えるからね。いいか、ジェイ、きみは大地そのものと戦ってるんだ」

 

「それなら、それとも戦うとしよう。私が農民どもを止めてやる。何のために新聞や業界誌があるんだい? 大規模な小麦の栽培を思いとどまらせるような記事を明日にでも発信しよう」

 

「それから」グレトリーは続けた。「もう一つ大事なことがある。わかってるだろうが、きみは今すぐ寝た方がいい。神経が参ってるんだ。全然眠ってないことは自覚しているだろ。それと、ほら、誰かが否定や反論した途端に、きみはカッとなって驚くようなことをするからな。それじゃ身が持たないぞ、え、もしきみがこれを続けるというのなら、自分の手綱はしっかり握っていたいだろ。もし今、きみが壊れでもしたら……まあ、どうなるかは考えたくもないな。きみは医者に診てもらうべきだよ」

 

「ああ、馬鹿馬鹿しい」ジャドウィンは叫んだ。「私なら大丈夫だ。とにかく、医者なんか必要ないし、そんなものにかかっている暇はない。私のことは心配しなさんな。私は大丈夫だ」

 

 果たしてそうだろうか? その夜、ジャドウィンは四日間ぶりに自宅で過ごした。時計が四時をまわるまで同じことを自問しながら起きていた。いや、大丈夫ではなかった。何かが彼の身に起きていた。それが何であれ、悪化の一途をたどっていた。頭を締め付けられるような感覚は、今では常態化していた。グランド・パシフィック・ホテルの部屋からグレトリーのオフィスまで歩くだけで、息が切れてへとへとになった。そして、エレベーターの中にいるような足もとが恐ろしい速さで沈んでいく、めまいと変な説明のしようがないむかつきを覚えた。

 

 ラサール・ストリートの往復中や、グレトリーのオフィスで座っていると、立会場の轟音がずっと耳もとで鳴り響いたので、ジャドウィンはこの奇妙な症状を忘れることができた。恐ろしいのは夜……独りで過ごさねばならない長い時間……だった。緊張が解けた瞬間に、駆ける蹄の音か、あるいは手に負えない激流のうなりが、頭の中で聞こえた。うなりはいつも同じ拍子になり、波動はいつも同じ言葉になった。

 

「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦」

 

 そして最近では、夜の長い静寂の中で目が冴えわたり、天井を見つめる間や、次の臭化カリウムの投与までの経過時間を数えたりする間に、ネジに新しい回転が加えられた。

 

 これは説明しづらい感覚だった。全身のあらゆる微細な神経がゆっくりと張り詰めて波打っているようだった。ベッドに横たわり、眠りにつくために延々と数を数え続けていると、それは膝と足首の間から始まった。そして、痛みとは違うが遥かにたちが悪い拷問のゆるやかな波となって、そこからゆっくりと体のあらゆる部分に広がっていった。軽い電気ショックに似た何十億ものぴりぴりと刺すような感覚が肉体を這い上がって頭に達し、見るというよりは感じるといった方がふさわしい白い閃光となって頂点に達したようだった。

 

 体に奇妙な違和感を覚えた。重さがなくなったようだった。時々両手が大きなボクシンググローブの大きさに急速に膨れ上がりそうな気がして、両手が自分のものだと実感するにはこすり合わせなければならなかった。

 

 ジャドウィンは時間がないと言い張って、医者にかかることをどんどん先に延ばした。しかし、本人は決して認めなかったが、本当の理由は、自分が推測した真実を医者が宣告するかもしれない不安があったからだ。

 

 機転が利かなくなっているのだろうか? この疑問の恐怖は、まるで槍の一撃を加えるようにジャドウィンを襲った。どうなってしまうのだろう? どんな災厄が待ち受けているのだろう? 

 

「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦」

 

 枕もとの腕時計がその言葉を繰り返した。こうして自分の能力が口に出せないほど衰退と崩壊を続けているのに、ジャドウィンは明日の仕事をどう掌握するのだろう? 堰を切った水門の激流をどう制御するのだろう? 

 

 疲れ果て、弱り果て、ジャドウィンはまた新たな一日を迎えるために立ち上がった。馬の蹄の音を聞かないようにしながら町に馬車を走らせた。めまいを起こし感覚をなくしながらグレトリーのオフィスに入り、一人恐怖に苛まれながらデスクの椅子に座って待ち続けた。

 

 そのとき、遠くで大きな鐘が鳴った。頭上で、木と鉄を貫いて、立会場の激しい苦闘が始まって続いている音が聞こえた。すると、だらんとほぐれた神経繊維は、再びぎゅっと一ひねりされて引き締められた。大渦の轟音に刺激されて、ゆるみを生じてぐらついている頭脳は、もう一度自分を取り戻した……どうしてなのか、ジャドウィンにもわからなかったが……その日の仕事はさっさと片付けられ、戦いには一段と拍車がかけられた。ジャドウィンはたびたび当てずっぽうの根拠のない勘を頼りに行動した。理路整然とした判断力は自分を見放したと時々感じることがあった。自分の立場の根拠と思えるものにかかわる決断は、一刻の猶予もなくなされなくてはならなかった。理由もわからないまま賛成か反対かを決断を下した。足元に亀裂が生じれば向こう側の縁を見ずに飛ばなくてはならなかった。どういうわけか、ジャドウィンはいつもちゃんと着地した。どういうわけか、彼のものすごく扱いにくい機関車は、接続部が緩んでいるにもかかわらず、よろめき、大きく揺れながらも、いつも軌道を走り続けた。

 

 運、幸運の女神、華麗に舞い上がる才能は、まだ彼とともにあった。辛い目にあい、逆境にさらされてもなお、幸運の女神は、途方に暮れたり判断に迷う者に救い手を差し伸べ、裏切らなかった。

 

 こうして五月は終わりに近づいた。二十五日から三十日の間に、ジャドウィンはグレトリーの反対や警告にもかかわらず、七月物の売り玉を買い戻した。ジャドウィンにはそんなのはたわ言に聞こえた。金持ちになりすぎて、強くなりすぎて、どんな問題も怖くなかった。買い占めの利益は日増しに大きくなった。不運な売り方たちは、絞られてどんどん干されていった。彼らはグレトリーのオフィスで自分たちの判決を聞いた。時間が経ち、この敗れた相場師たちを見ているうちに、ジャドウィンはとても人間を軽蔑するようになった。

 

 ジャドウィンにしてやられた敵のうち何人かは、不気味なほど無頓着に、あるいはスフィンクスのように平然と、あるいは飄々と敗北を受け入れ、毅然とした態度を崩さなかった。しかし、おおかたは、用心しながら盛んに敬意を払うか、大人しく服従するか、平身低頭して卑しい人柄とさもしさを見せるかだったので、ジャドウィンはもう少しで自分を抑えられなくなるところだった。ジャドウィンはこの仕事がいやになった。スキャネルに喧嘩腰のひどい態度をとったことさえ後悔した。あいつは悪党だったが、それでも頭を下げず矜持を保っていた。ひれ伏す者が増えれば増えるほど、ジャドウィンはきつくネジを締めた。稀に、自分が全面的に折れて、損が出ない価格で不幸な人々に小麦を売ることに喜びを見い出すこともあった。しかし結局、この取引を通じてジャドウィンの心は強くなり、自分の無慈悲がどんな貧苦をもたらそうが動じなくなった。まるで生まれながらの権利ででもあるかのように、ブルボン家が税金を自分のものにするように、ジャドウィンは利益を自分のものにした。いろいろ考えて今ようやく思い出したのだが、ジャドウィンは長く忘れていた短い学生時代の歴史のどこかで、あるフレーズに出会っていた。そして自分の活動がもたらした不幸や、立会場に吸い込まれた破産した財産や人生について耳にしたとき、短く笑って片方の肩を持ち上げながら、こう言えるようになったことに気がついた。

 

「負けた奴が悪い」

 

 妻とは滅多に会わなかった。たまに一緒に朝食をとったが、夕食の時に顔を会わせることの方が多かった。しかしそれだけだった。今はジャドウィンの生活はかなり不規則だった。少ない睡眠時間はとても貴重なのに邪魔ばかり入るので、随分前から別の部屋を使っていた。

 

 近頃ローラがどんな生活をしているか、ジャドウィンは知らなかった。ローラがそのことを彼に話したことはなかったし、最近では孤独を訴えることもなかった。ジャドウィンが会うときのローラは楽しそうだった。しかし、このあまりの明るさがかえってジャドウィンを不安にさせた。籾殻で濁った空気をくぐり抜けて、立会場のうめきや財産の潰れる音をくぐり抜けて、ローラと全然うまくいっていないのではという疑念が時々ジャドウィンのところまでやってきた。

 

 かつてジャドウィンは、ラサール・ストリートと取引所の喧騒から抜け出し、少なくとも当面は、二人が愛した昔の生活に戻ろう……一言で言うならローラのところへ戻ろう……と試みたことがあった。しかしその結果は惨憺たるものだった。今、離れるわけにはいかなかった。

 

「小麦を買い占めるんだ!」その翌日ジャドウィンはローラに叫んだ。「小麦を独り占めにしてやる! これじゃ、小麦の方が私を独り占めにしているな。狼の耳をつかんでいるようなものだ。つかむのも大変だが、放したらもっと大変なことになる」

 

 しかし、カーティス・ジャドウィンは、目まぐるしい事態に頭がいっぱいで、目も耳も奪われてしまい、ローラの苦悩に対する自分のかすかな疑念が、どれほどちゃんとした根拠に基づいていたか理解できなかった。

 

 アートギャラリーで夫と過ごしたあの夜、グレトリーが前線からの急使のように二人の前に乱入したあの夜の翌日、ローラはベッドから起きて、急に空っぽになった世界を眺めた。

 

 ローラは自分でコーセルを遠ざけてしまった。ジャドウィンもまた自分のもとからさらわれてしまった。自分はこれからどこに向かえばいいのだろう? ジャドウィンは田舎に……ジュネーブ湖にある別荘にでも……行くように勧めたが、ローラは断った。最近、夫に現れた変化を、痩せた細った顔を、ぎらぎらして疲れた目を、震える指と神経質な仕草を、見ていたからだ。災難が近づいていることをぼんやりと想像した。もしカーティスの身に何かがあったら、ローラの居場所は彼の傍らだった。

 

 ジャドウィンとクルックスがしのぎを削っている間、ローラはいろいろな小さな活動をして頭をいっぱいにすることを思いついた。持っている衣装を仕立て直し、夏用のドレスを計画し、毎日仕立て屋に足しげく通った。そしてあらゆる道の曲がり具合や、木や茂みのすべてが見飽きるほど見慣れたものになるまで公園で馬や馬車に乗った。

 

 その次は、急に古書や初版本に熱中し始めた。頻繁に書籍商や古書店に足を運び、一品を研究し、オークションにのめり込み、湯水の如く金に物を言わせて片っ端から買い集めた。しかし、この道楽はすぐに飽きた。大金が自由になるものだから、獲物を狩る妙味が全然なく、特定の宝物が欲しいと言っただけで、すぐにそれが手に入ったからだ。

 

 他のすべての事も同じだとわかった。欲望が満たされたとたんに強かった興味が消え失せた。自分のものにしたのにちっともうれしくなかった。持ち物へのささやかな愛着も消えてしまった。想像を絶するほど美しいドレスだって、使い古しの手袋で引き出しを一杯にする以上の興味は湧かなかった。見分けがつかなくなるほど馬を買い求めたものだから、ローラの馬車で近所にある三つの厩舎がいっぱいになった。苦労して育てた奇跡の花が、家全体にその香りを充満させた。どこへ行こうが、護衛が先行するのと同じでまず敬意が払われた。その美貌、巨万の富、名馬、優雅な衣装は、ローラを注目の的に、正真正銘の女王にした。

 

 そして、ローラ・ジャドウィンが、自分の寝室でひとり寂しく、気だるさと無限の疲労感の入り交じった仕草で両腕を大きく広げて、叫ばない日はほとんどなかった。

 

「ああ、こんな惨めな人生、退屈で馬鹿馬鹿しいだけね!」

 

 何も楽しめなかった。代わり映えしない日々の連続だった。誰もローラに会いに来なかった。大邸宅に住み、大金持ちなのに、友人はほとんどいなかった。持ち前の「威厳に満ちた態度」が人望を集めるのに役立ったことはなかった。独りで「二階の居間」にこもり、夜遅くまで本を読んだり、明かりを消して窓際に座り、湖の単調な打ち寄せる音を聞いたりして夜をすごした。

 

 そんなとき、ローラは自分の人生に登場した男たち……少女時代からほとんど知っていた愛する人……のことを考えた。最初の真剣な恋愛を思い出した。相手は家庭教師だった貧乏な神学生。眼鏡をかけ、小さな黒い頬髯を生やし、結婚して宣教師になる予定でいる中国に一緒に来てほしいとプロポーズしてくれたのだ。彼は来るたびに、ローラに新しい本を持ってきては読んでくれた。古い粉ひき場がある丘のほうへ長い散歩に連れていってくれた。次は若い弁護士……「ウスター郡で一番頭のいい男」……だった。彼は借りた馬車でローラをドライブに連れ出し、愛の言葉ごとに丁寧に下線を引いたたくさんの小説を贈り(ローラは全然読まなかった)、 ローラの目と髪にことよせて、その「ビロードような黒は王冠の影」と下手な詩を書いた。かと思えば、ボストンの叔母をふらっと訪ねたときに出会った若い騎兵隊の将校がいた。彼はローラに一目惚れし、制服姿の写真とアパッチの民芸品のビーズベルトをプレゼントしてくれた。彼はいつも、ギターの伴奏をしてくれたローラに古いラブソングを歌ってくれた。

 

「真夜中の塔の下で彼はそっとつぶやいた。『何も恐れず真の軍人は飛ぶ』」

 

 それからローラはシカゴへやってきた。するとランドリー・コートが持ち前の明るい情熱とさわやかな高揚感を武器にローラを愛するようになった。ローラは彼を真剣に考えたことはなかった。しかしそれでも、彼の全宇宙が自分が首を縦にふることにかかっていることや、自分の彼への影響力は大きいから、彼とは清く誠実で嘘偽りのない関係が保てる、と見透かして、とてもいい気分でいた。

 

 そしてこの後、芸術家のコーセルと実業家のジャドウィンがローラの人生に登場した。ローラは、結婚する前、コーセルが静かに、たぬまず、一心に尽くしてくれたのを思い出した。コーセルは滅多に自分の愛を語らなかったが、何かと工夫をこらしてローラの人生を愛で満たしていた。彼のちょっとした気遣いや、表に出ない配慮は、ここぞというときに、ここぞという場所で、的確に発揮された。コーセルは一度もローラを裏切らなかった。ローラが彼を必要としたとき、あるいは気まぐれや衝動で彼に目を向けたとき、コーセルが用心してずっとその不測の事態に備えていてくれたことにいつも気づくのだ。ローラへの思いやりには、驚くべきものがあった。何か月、何年たっても、ローラのほんの小さな好みや、表に出さないでいた苦手なものを覚えていた。ローラの好みが本能でわかるのだ。ちょっとびっくりさせようと仕掛けを準備し、さりげなく、ごく自然なものとして、目の届くところに配置した。コーセルは決してローラを困らせなかった。日常生活の小さな悩ましい問題が、ローラの足をすくうずっと前に、きれいに取り除いてしまった。絶対に用心を怠らず、動揺せず、興奮しなかった。

 

 そしてローラを面白がらせた。そう見えないようにして楽しませた。コーセルはローラに話をさせた。考えさせたのである。コーセルがローラを刺激して目覚めさせたので、ローラは自分でも驚くほどの冴えで話したり考えたりした。要するに、ローラが楽しいことは何でも彼に結びつけるようにコーセルは仕向けたのである。

 

 最初に別れたときコーセルは何も言わずに去っていったが、相変わらず義理堅く、静かに、気を配って、同情を寄せて、ローラへの愛情を以前よりも深めて、強くして……決まってタイミングよく……最も孤独だったその瞬間に……話し相手になるために、戻ってきた。

 

 今また、ローラは再びコーセルを自分から遠ざけてしまった。今度はそれが永遠の別れになることをローラはちゃんとわかっていた。ローラはこの偉大な愛を閉め出してしまった。

 

 ローラは神経質に指で髪を整えながらその場で突然動き出した。

 

 そして最後は、夫のジャドウィンだった。ローラは立ち上がって窓際に行き、公園の夜空を眺めながら、しばらくそこに立っていた。暖かくて、とても静かだった。馬車の灯りが蛍のように木々の間にちらほらと見えた。散歩道やベンチ沿いに、白いドレスがはっきりと見え、笑い声が聞こえた。遠く低木のどこかから楽隊の演奏が聞こえた気がした。北東には月の下でかすかに光っている湖があり、あちこちに汽船の色とりどりの明かりが点在した。

 

 ローラは部屋に引っ込んだ。大邸宅は静まり返っていた。どの部屋からも、通路、ギャラリー、廊下からも物音一つ聞こえなかった。ローラと同じ階には誰もいなかった。本はすべて読んでしまった。外出するには遅すぎるし、一緒に行ってくれる相手がいなかった。寝るのは馬鹿馬鹿しかった。いつになく目が冴えていて、いつになくじっとしていられず、余興、気晴らし、娯楽がこれほど待ち遠しいことはなかった。

 

 オルガンを思いついて、アートギャラリーに下りて行き、バッハ、パレストリーナ、ステイナーを一時間弾いた。しかし、突然、もどかしそうに鋭く頭を動かして演奏台から立ち上がった。

 

「私ったらどうしてこんなくだらない音楽を弾いてんのかしら?」ローラは叫んだ。使用人を呼んで尋ねた。

 

「主人はもう帰ってるかしら?」

 

「ジャドウィン様は今夜お帰りにならないとグレトリー様からたった今お電話がございました」

 

 使用人が出て行くと、ローラは唇をかたく結び、顔をあげた。両手を固く握りしめ、目を輝かせた。体をこわばらせて床の真ん中で立ちすくし、腕組みをしたまま、再び息を殺して抑えた嘆きを何度も発した。

 

 突如、怒りがローラを支配した……怒り、ある種のやけを起こし、急に向かっ腹が立った。決断を下す者のように突然背筋を伸ばした。それから急いでアートギャラリーを出て、廊下を横切り、書斎に入り、小さなステンド窓の下の奥まったところにある大きな書き物机を開けた。

 

 便箋を手もとに引き寄せ、短い手紙を書き、封筒の宛名をミシガン・アベニュー、ファインアートビル、シェルドン・コーセルとした。

 

「メッセンジャーを呼んで」ローラは呼び鈴に出た使用人に告げた。「そしたらこれを……いや、来たらここへ寄こして」

 

 ローラはその手紙をインクスタンドに立てかけ、それを眺めながら、指で素早くドレスのレースを引っ張って椅子にもたれかかった。頭はぐるぐる回っていた。思考、衝動、欲望、中途半端な決意、あえて言うなら後悔の入り混じったものが、群がってローラの周囲をくるくる回った。ローラは、自分が一気に跳んでしまった気がした……跳んで着地する場所は、新しくも恐ろしい世界、馴染みのない場所……恐ろしくそれでいて美しい……未踏の地、だからこそ、一層魅力的で、影に包まれた場所だった。

 

 ローラは立ち上がり、両手で胸を押さえるようにして、床を歩き回った。興奮し、頬が赤らんだ。何だか息苦しいほど浮き浮きした気分になって胸のつかえがとれた。この数日持て余していた退屈に代わって、突然無性に元気が湧いて、ある種の強烈な喜びがその黒い目から放たれた。

 

 しかし、入口に足音がして我に返った。そこにメッセンジャーが立っていた。一刻を争う事の重大さには甚だ似つかわしくない姿……大き過ぎるサイズのユニホームを着た皺だらけで発育不良の少年……だった。

 

 ローラは机に座り、手紙を思いっきり少年に向けて突きつけた。今はためらったり、取り繕ったりしているときではなかった。もし今、覚悟を決めなかったら、どんな前途があるのだろう? 自分の人生より空虚な人生が……もっと空っぽで、もっと耐えがたく、もっと屈辱的なものが、あるだろうか? 

 

「この手紙をその住所に持っていってちょうだい」そう言ってローラは封筒とコインを少年に手渡した。「返事をもらってくるのよ」

 

 少年は手紙を帳簿に挟み、胸ポケットに突っ込み、その上のコートのボタンをかけた。少年はうなずいて、背を向けた。

 

 ローラは座ったまま、少年がドアに向かうのを眺めた。さて、これで終わった。自分は選んだのだ。思い切ってやったのだ。明日からどんな新しい生活が始まるのだろう? それがどんな意味をもつのだろう? 想像を絶する速さで、思考が脳裏を駆け巡り始めた。

 

 ローラは動かなかった。両手を固く握りしめ、自分の前にある机の上に置いた。頭を向けもせず、さがっていくメッセンジャーを目で追った。少年はドアを出て行き、その後ろでカーテンが垂れた。

 

 取り返しのつかない一歩を踏み出してようやく反動がやってきた。

 

「待って!」ローラは跳び上がるように立ち上がって叫んだ。「待って! 戻ってちょうだい。ちょっと待ってて」

 

 どうしたのだろう? ローラには理解も説明もできなかった。どういうわけか、はっきりとした映像が一瞬浮かんだ。その瞬間、ローラの中に自分であって自分でない力が生まれ、ローラの意志を支配した。駄目だ、駄目、自分にはできない。結局無理なのだ。ローラは手紙を取り返した。

 

「気が変わったわ」突然言った。「お金はとっといて。もう送るものはないわ」

 

 少年がいなくなるとすぐに封筒を開けて、自分が書いたものを読み返した。しかし今、その言葉は自分の心の動きとは違う気がした。馴染みのない言葉だった。自分が知るローラ・ジャドウィンの言葉ではなかった。この男性と知り合った最初の頃から、そして一緒に過ごしたどんな状況でも、どうしていつも衝動的な行動をとってしまうのだろう? 自分を向こう見ずにしてしまうのは彼に何があるからなのだろう? 

 

 そして、この衝動をいつまで抑えられるだろう? 今回ローラはまた、もう一人の衝動的な自分に勝った。次も勝てるだろうか? そして、こうして悩みながら克服する間に自分は強くなったのか、それとも弱くなったのか? 自分でもわからなかった。手紙を細かく破って、ペン皿に山盛りにして慎重に燃やした。

 

 その翌週、ローラは自分の悩みがこれまで以上に深刻なのがわかった。新たな悩みが一つ増えた。土壇場で回収されはしたが、コーセルへの手紙の一件はローラの目をこれまで予想もしなかった問題の可能性に向けさせた。意地になった拍子に自分がどんなことを仕出かすかが、今わかったのである。推し量ったことのない自分の本性の深淵をのぞいたのだ。こうした隠された落とし穴が自分特有のものなのか、それとも今の自分が置かれた立場にいるすべての女性に共通するものなのか、立ち止まって探究せず、結果だけを考えて不安になった。

 

 しかし、そのことに関して、慎重に考えるにせよ合理的に判断するにせよ、ローラはとっくに時期をのがしていた。反動が、元の決心と同じくらい強力だったので、闇雲に、本能の赴くままにずっと悩み続けた。

 

 自分が今やろうとしていることに対して、何一つ理由を提示できず、さらには自分を取り巻く一連の問題を打ち壊そうとしたこの最後の非常手段の動機すら、はっきりしなかった。それが何なのかを問いかけさえしなかった。ただ自分が困っていることだけはわかっていた。ローラが目を向けたのは悩みの原因だった。ローラは何も考えず夫の方を向いた。ローラの中のすべての女性の部分が、奮い立ち、気を引き締め、最後の試練の中であらゆる力を呼び起こした。街の真っ只中で、怒号をあげ押し流しては吸い込むあの目的も魂もない凄まじさの恐るべき成長し続ける力と、自分との究極の力比べだった。

 

 ローラは独り、助けてくれる人もなく、美貌と知恵と、過酷な試練に耐えた愛情のぼろぼろの絆を唯一の拠り所にして、挑戦者のように大きな渦に立ち向かい、激流と戦い、その白い細い手で、手中に収めた国をも揺るがす渦の力に抵抗したのである。

 

 部屋で独り静かにローラは決心した。悩みはどんどん増えていた。そんな流れの中でローラもまた、行き着く先は落とし穴……黒い底なしの穴……だった。すでに一度ローラはそれにとらわれたことがあった。すでに一度ローラはその狡猾な流れに屈してしまったのだ。今度はとっさに危険を察知して抵抗した。助けを求めて無駄にあがいていた両手を、自分の知る最大の力へと振り向けた。

 

「夫を渡すもんですか」大声で、夜の空虚な闇に向かって叫んだ。「断じて渡さないわ。取り返すわ。だって夫は私のもの、私のものだもの。何ものも夫から私を奪うことはできないわ。何ものも私から夫を奪うことはできないわ」

 

 最初のチャンスは、直近の日曜日に訪れた。土曜日一睡もしなかったジャドウィンは午前中少し睡眠をとった。夕食後、革の寝椅子で横になって本を読もうとしているとローラが喫煙室までやってきた。妻は部屋の隅の書き物机の前に座り、近くにあるカレンダーをどんどんめくり始めた。最後にそのうちの一枚を破って掲げた。

 

「カーティス」

 

「何だい?」

 

「この日付が見える?」

 

 ジャドウィンは目をこらした。

 

「この日付が見える? その日が他の日と少し違うことは知ってるわよね? 六月十三日。六月十三日が何の日か覚えてる?」

 

 ジャドウィンは戸惑いながら首を振った。

 

「いや……覚えてないな」

 

 ローラはペンを取って、印刷された数字の上のメモ欄に何文字か書き込んだ。そして紙を夫に渡すと、夫はローラが書いたものを声に出して読んだ。

 

「『ローラ・ジャドウィンの誕生日』おお、そうか」ジャドウィンは座り直して言った。「そうだ、そうだね。六月十三日か。それに気づかないなんてどうかしてたな。近頃は何も覚えられないみたいなんだ」

 

「でも、今度は覚えるでしょう?」ローラは言った。「これでもう忘れないでしょ。その夜が始まりになるのよ……ねえ、カーティス、すべての新しい始まりになるの。見ててね。私が何とかしてみせるわ。どうすればいいかわからないけど、あなたは私を愛するようになるわ。どんなものも、仕事も、お金も、小麦も、私からあなたを引き離すことはできなくなるのよ。私があなたを作り変えるわ。そしてその夜、六月十三日の夜は私のものよ。日中は仕事があなたを好きにすればいいけど、六時からは私のものよ」ローラはすばやく部屋を横切ると、ジャドウィンの両手を握ってそばにひざまずいた。「もしあなたが私を愛しているのなら、その夜は私のものよ」ローラは言った。「あなた、わかった? 六時に帰宅するのよ。何が起ころうとも……ラサール・ストリートが焼け落ちようとも、何百万ブッシェルもの小麦がその道連れになろうとも……何が起きても……あなたは私を独りにしない……私以外のことは何も考えないのよ。その夜は私のものなんだから。だからあなたは私が言ったとおりにそれを私にくださいね。二度と注意しません。二度と口にしません。あなたにお任せするわ。でも……もし私を愛しているなら、その夜を私にください。あなた、私が何を言いたいのかわかりますか?……もしあなたが私を愛しているのなら……いや……駄目よ、何も言わないで、この話はしないから。駄目よ、お願い。もう何も言わないで。約束とか、誓いとか、そういうのはいらないから。私が言ったことは聞いたでしょ……じゃあ、この件はこれでお終い。他の話をしましょうよ。ところで、最近クレスラーさんに会いました?」

 

「いや」 ジャドウィンはローラに調子を合わせながら言った。「そういえばひと月以上チャーリーに会ってないな。どうしたんだろうね?」

 

「病気だそうよ」ローラは言った。「先日クレスラー夫人にお会いしたのよ。そしたらご主人のことを心配してたわ」

 

「うーん、チャーリーの奴、どうしたんだろうね?」

 

「奥さんもわからないんですって。寝込むほどの病気でもないのに、仕事をしに街に出て行かないし、行こうともしないそうよ。日に日に痩せていくのがわかるって言ってたわ。ご主人は大丈夫だと言い続けてるけど、奥さんの方は、ご主人がじきに何かの病気にかかるのではないかと心配してるんですって」

 

「じゃあ」ジャドウィンは言った。「今日の午後にでも、様子を見に行くとしようか? きみは行きたくないかい? さっきも言ったけど、私はひと月以上会ってないんだよ。それとも電話してディナーにお誘いしようか。チャーリーは同年代の古い友人だ。初めてシカゴに来た頃は、四六時中一緒にいたものだ。今日の午後、会いに行って元気づけてやろう」

 

「駄目よ」ローラはきっぱりと言った。「カーティス、一週間のうち一日は休まなくちゃいけないわ。午後はずっと横になって、できるなら眠ってください。私が明日、顔を出してみます」

 

「そうか、わかったよ」ジャドウィンは同意した。「眠れるなら眠るべきだな。それにサムが五時に来ることになっている。鉄道関係者を何人か連れてくるらしい。やることがたくさんあるからな。そうだな、じゃあ、彼らが来る前に、ひと眠りするとしよう。それとね、ローラ」ローラが立ち上がるときに手を取ってジャドウィンは付け加えた。「ローラ、これが最後だから。もうあと一月もすれば……いや、長引いたとしても六週間もすれば……買い占めはお終いだ。そしたら、二人でどこかへ行こう、どこへでもきみの好きなところへね。そして、残りの人生をずっと一緒に楽しく過ごそう……残りの人生すべてをね。それじゃ、おやすみ。今なら眠れそうだ」

 

 ローラはジャドウィンの頭の下に敷くクッションを並べて、窓のカーテンを引いて、そっとドアを閉めて出て行った。そして三十分後に様子を見に忍び込み、ようやくジャドウィンが眠りにつき、疲れた目を閉じ、大きな力強い手を腕枕にして休んでいるのを見届けた。ローラは部屋の真ん中にしばらく立って夫を見下ろしていた。そして来た時と同じように物音を立てずに抜け出した。睫毛では涙が震えていた。

 

 ローラ・ジャドウィンは翌日も、その翌日もクレスラー夫妻を訪ねることはなかった。三日間、家に閉じこもり、一連の小さな出来事にかかりっきりだった。新しいドレスの仕上がりが遅れたかと思えば、猛暑であったり、雨が降ったりした。しかしその月の第二週目の木曜日には、嵐は去り、再び太陽が輝いた。午後の早いうちに、ローラはクレスラー夫人に電話をかけた。

 

「お二人ともお元気ですか?」ローラは尋ねた。「もしよろしければお伺いしてお昼をご一緒させていただいてもよろしいかしら?」

 

「チャーリーは相変わらずだけどね」クレスラー夫人が答えた。「どうせ、働きすぎよ。ぜひ来て元気づけてあげて。来てみて私がいなかったら勝手にくつろいでいてね。私は鉄道の切符のことで街まで行かなくちゃいけないのよ。明日にでも、うちの人をコノモウックに送り出してやるんだから。昨夜、決めたのよ。切符やタイムカードや荷物とかで、あの人を悩ませたくないし。私が出向いて全部やるんだから。あなたは都合がつき次第来てチャーリーの相手をしてあげてね。そちらのご主人はどうなのよ、ローラ?」

 

「あら、カーティスは元気よ」ローラは答えた。「時々へとへとでいるけど」

 

「あーあ、わかるわ。いったい、お金をどうする気よ? ジェイがこの三、四か月で何百万ドルって稼いだって聞いたわ。先週私が話した人は、ジェイの買い占めはシカゴ商品取引所史上一番すごいものだって言ってたわ。それじゃあね、ローラ、準備ができたらいつでも来てね。ランチの時に会いましょう。チャーリーがここにいてね、愛してるって伝えてくれだって」一時間後、ローラの馬車はクレスラー邸の前に停まった。小さな馬丁が猿のように機敏に降りて、膝掛けを腕に下げて軍人のようにステップに立った。

 

 ローラは、三時に迎えに来るよう馬車に言いつけて、玄関のステップを急いで駆け上がった。玄関は開いていて網戸になっていた。ローラは遠慮なく中に入った。

 

「クレスラーさん!」ローラは廊下で手袋を脱ぐ間に声をかけた。「クレスラーさん! キャリー、まだ帰ってないの?」

 

 すると、メイドのアニーが、タオルを頭に巻き、手にはたきを持って、階段の一番上、二階部分に現れた。

 

「奥さまはお出かけです、ジャドウィンさま」メイドは言った。「おくつろぎいただくように申し付かっております。奥さまはお昼には戻ります」

 

 ローラはうなずき、ホールの帽子置き場の前に立って、帽子と手袋を脱ぎ、ベールを畳んでハンドバッグに入れた。その家は古風で、とても家庭的で、広々としていて、涼しくて、広い廊下と広い窓があった。ローラが最初に入った「正面の書斎」には、七十年代風の鋼鉄製の彫刻の数々と、貝殻や中国の硬貨や漆の箱が詰まった「収納」と、定番のノコギリザメの鼻があった。マントルピースは斑点のある白い大理石で、その棚には普通のブロンズと金箔の時計があり、古典的なドレープをまとった女性の像が地球儀にもたれかかって飾られていた。壁には山の風景を描いた油絵がかかっていた。正面の窓と窓の間の赤い大理石台にある黒クルミのテーブルの上に、立体鏡と紫檀材のオルゴールが置かれていた。

 

 古めかしいチッカリング社製のピアノが、部屋の奥を斜めに横切るように、閉じた引戸のそばにあった。ローラはここに腰を下ろし、コーセルがアートギャラリーの大きなオルガンで演奏した夜から必死で練習した『メフィスト・ワルツ』を弾き始めた。

 

 しかし、思い出せる範囲で精一杯その曲を弾き終えると、立ち上がってピアノを閉じ、自分がいる部屋と「奥の書斎」(クレスラー夫人が詩集を置いている小さな部屋)との間の折戸を押し戻した。

 

 部屋に入ると、驚いたことに、クレスラー氏がそこにいて、肘掛け椅子に座り、ローラに背を向けていた。

 

「まさか、ここにいらっしゃるとは思わなかったわ、クレスラーさん」近づきながらローラは言った。

 

 ローラは相手の腕に手を置いた。クレスラーは死んでいた。ローラが触れると、頭は肩にうなだれて、耳のすぐ前のこめかみの弾痕を見せた。

 


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