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立会場 シカゴ物語  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第8章

 

 四月のある朝、シカゴ商品取引所の小麦の立会場は特別に鐘が鳴るよりも丸五分早く取引が始まった。立会場及びその周辺に押し寄せたブローカーや事務員の群れは、小麦とトウモロコシの立会場の間のフロアにまであふれかえるほど凄まじかったので、烏麦を扱うトレーダーたちを所定の場所から追い出してしまった。前日のマーケットは、五月小麦が九十八セント八分の五の値をつけて引けた。買い方たちは、あと二十四時間もしないうちに「ドル小麦」という魅力的伝説がウエスタンユニオンの電信に載るだろうと予言し、保証した。

 

 指標は朝から活発な値動きを示した。この六週間は一瞬たりとも取引が停滞したことはなかった。立会場の空気は本物の電気のようにぴりぴりしていた。そこにはシャンパンや日の出の山頂のような勢いがあった。活気に満ち、刺激的だった。

 

「未知の買い方」は今なお支配しているようだった。マーケット全体がその(つの)の動向を気にしていた。時折、彼が小麦をさらに一段上に押し上げるときには、その急な突き上げの力強い凄まじさを感じた。その尻尾のような連中……つまり小口の買い方たち……は、ほくほくだった。彼らは闇雲に、毎日、毎週、自分たちを豊かにしてくれる正体不明の謎の友人に懸命にしがみついた。売り方はほとんど見えなかった。その大物の買い方が大口の買い注文を一口出して、売り方を立会場からほぼ一掃してしまった。売り方は唸ったり不平を言いながら退散し、ただ遠巻きにして爪をちらつかせて挑むだけだった。その大物の買い方が手強そうに額を下げるだけで、売り方の攻撃や抵抗のあらゆる動きを阻止できそうだった。その間、リバプール、パリ、オデッサ、ブダペストでは、ヨーロッパの繁華街や不作の農家の食料となる穀物の需要がますます大きくなった。

 

 取引が始まる少し前、チャールズ・クレスラーは、建物南東の角にある喫煙所で朝の一服を終えるところだった。しかし遠くで鐘が鳴って、大洪水が押し寄せるような長いゴーゴーと唸る振動を伴って、取引開始後の立会場の喧騒が聞こえてくると、葉巻を投げ捨て、喫煙所からメインフロアに出て、正面の窓へと向かった。見本台でポケットに小麦を入れて、ひとまず窓のサッシを上げ、花崗岩の窓棚の上に鳩の朝食を広げた。

 

 クレスラーが見ていると、ぱっと開いた翼の慌ただしい舞いは、またたく間に窓の前を埋め尽くした。すぐ横でおはようと挨拶する声がしたのでクレスラーはびっくり仰天した。

 

「向こうはあなたを知ってるようだね?」

 

 クレスラーは振り向いた。

 

「おや、これはどうも……そうなんですよ……向こうは私をよく知ってるんです。特にあの赤と白の雌はね。昨日から羽の調子が悪いものだから、私が見ていないと、他の鳥たちに追い払われてしまうんです。例えば、あそこのふくれっ面の嫌な奴が来てね。あいつが決まって横取りするんですよ。小麦を独占したがってるんです。どうも物足らないみたいでしてね」

 

「まあ」来たばかりの相手は簡潔に言った。「他でもいますからね」

 

 そう言ったのは四十歳くらいの男だった。名前はカルヴィン・ハーディー・クルックス。とても小さくて、とてもほっそりしていた。髪はまだ黒く、顔は……髭が剃りたてほやほやで、猫のような三角形で……同じく黒かった。眉毛は細く黒く、唇も細くて、しっかり閉じた袋の口のように少しすぼまっていた。顔からは考えが読めず、無表情で、冷ややかだった。

 

 服装はいたってダンディーで、コートもズボンも最新型だった。白いベスト、黄褐色のゲートル、金の腕時計とチェーン、宝石のついたスカーフピン、印章つきの指輪をしていた。コートの上ポケットから、はめていない赤い手袋の指先がはみ出ていた。

 

「そう」クルックスは真新しいハンカチを広げながら話を続けた。「他でもいるでしょ……いつまで小麦を集めたら満足するのかわからないのが」

 

「ああ、『未知の買い方』のことですね」

 

「未知の大馬鹿者のことだよ」クルックスは穏やかに返した。

 

 チャールズ・クレスラーには俗物的なところが微塵もなかった。これほど庶民的な人はいなかった。しかし同時に、この話し合いの間は、虚栄心を満たそうという気持ちを抑えることも完全に無視することもできなかった。もしこれが彼の意識レベルにまで及んでいたとしたら、これがもとで自分が嫌になっただろう。だがそれは自尊心の高まりを何となく感じた以上にはならなかった。クレスラーの目にはもっと重要なものが映っているようだった。彼は今、この男と話しているところを友だちに見せたかった。「クルックスが今日言ってたんだがね……」次に知り合いに会ったときにこう話すつもりだった。C・H・クルックスはラサール・ストリートでも「超大物」と目されていたからだ。新たな謎の買い方が幅を利かせつつあるとはいえ、マーケットはこの大物の売り方を忘れることはできなかった。立会場で踏み合い突き刺し合いが続く間に動きをとめて、自分たちは買い方と戦っているのに、どうして売り方は助けに来ないのかと肩越しに不安げな視線を送る者は未だにいた。

 

「なるほど、そうですね」クレスラーは短い髭をとかしながら認めた。「確かに馬鹿者だ」

 

 二人は正反対だった。それぞれが相手と真逆の存在だった。一方が長身で、痩せこけて、締まりがないのに対し、他方は引き締まっていて、小柄で、小作りだった。一方は骨だらけなのに、もう一方は栄養がいきわたっていた。一方は猫背なのに、もう一方は歩兵の伍長のようにしゃきっとしていた。

 

 しかし、クレスラーが続けようとすると、クルックスは顎を上げた。

 

「おい!」相手は言った。「あれは何だ?」

 

 小麦の立会場の方角が、また急にやたらと騒がしくなった。トレイダーたちが一斉に怒鳴っていた。歓声が上がり、帽子が宙を飛んだ。二人のブローカーが、ステップの一番下の段に近い床で、両手をラッパのように口にあてて、遠くにいる仲間に向かって大声を張り上げた。その二人の上、立会場のステップ最上段では、六人のブローカーが腕をいっぱいに伸ばして、建物の各所にいる仲間に値動きを手信号で伝えた。何度も何度も歓声が上がり、激しい歓呼や喝采が響き、ベテランも新米もフロア中を駆け巡った。傍聴席では見物人たちが盛んに手すりから身を乗り出した。向こうの食糧市場で売買が一時的にとまって、小麦のトレーダーたちの騒ぎに全員の頭が向けられた。

 

「ああ」クルックスが言った。「ついに来たか」

 

 文字盤の針が突然もう一メモリ跳ね上がった。メッセンジャーボーイも下働きも守衛も、取引所に関わる仕事や生活をしている人で、この興奮を感じない者はいなかった。そのニュースは、百の電信で世界中に一気に拡散し、電話線を伝って百のオフィスに伝えられた。ドアというドアから、ビルの窓という窓から、そこから、街中に、州に、北西部に、国中に広がりながら「ドル小麦」という呪文は勢いづいた。

 

 クルックスはクレスラーに向き直った。

 

「今日、キンスリーの店で一緒にランチでもどうかな? あなたと話がしたいんだ」

 

 そして、クレスラーがその誘いを受けると、クルックスは簡単にうなずいて、踵を返して立ち去った。

 

 その日、キンスリー店の二階の個室で、クレスラーはクルックスだけではなく、彼の仲間のスウィーニーと、一番古くて一番好きな友人のフレイという紳士に会った。

 

 スウィーニーは、派手でけばけばしいおしゃべりなアイルランド人で、かすかな訛りがあり、意見、議論、発言のすべてに「おわかりか、みなさん」と一言添えた。 ドイツ系アメリカ人のフレイは、実に静かな、とてもハンサムな男で、黒い頬髯を生やし、愛嬌があり、目がキラキラしていた。三人は取引所の会員であり、常に売り方のグループと連携していた。現に、彼らはそのリーダーと言える存在だった。後でクレスラーが仲間内でよく言っていたように「彼らはウェストサイドのほぼすべてを買うことができた」

 

 そしてランチの間に、この三人は、クレスラーが一瞬息をのむほど単刀直入に、自分たちは未知の買い方を相場から追い出す準備をしていると告げて、クレスラーにその仲間にならないかと尋ねた。

 

 クレスラーが直感でリーダーと判断したクルックスは、スウィーニーが息をつかずに語り、前置きがすべて終わるまで、口を開きさえしなかった。やがて魚のように生気がない目を向け、運命自身の声のように表情のない声で言った。

 

「この大口の買い方が誰かは知らんが、そんなことは構わない。だが、私の方針に合わないからマーケットから退場してもらいたいんだ。こっちはもう三、四か月の間奴に好き勝手をさせた。奴を利用してドルの大台に乗せようと考えたからだ。今朝、五月物のオプションが一ドル八セントで引けた。そろそろ我々の出番だ」

 

「でも」クレスラーは急いで反論した。「お忘れですか……私は相場はやりませんよ」

 

 フレイは微笑みながら、友人の腕をたたいた。

 

「チャーリー、この件に関しては、あまり危険はないだろうよ」

 

「つまりね、みなさん」スウィーニーはフォークを振りかざして叫んだ「我々が売りを浴びせて奴をマーケットから追い出すってわけだ。あん畜生を追い出してやるんだ……おわかりかな、みなさん?」

 

 クレスラーは首を振った。

 

「お断りだ」クレスラーは答えた。「私を除外してください。私は何年も前に投機はやめたんでね。それに、この種のマーケットで空売りをすれば……あなたがたにリスクの説明をする必要はありませんな」

 

「リスクだと!」クルックスがつぶやいた。

 

「じゃあ、チャーリー、私から説明しよう」フレイが話し始めた。

 

 他の二人は会話から少し離れた。クルックスはさっきのようにそっけない態度でしばらく考え込んだ。スウィーニーは両手を頭の後ろで組んで椅子を壁まで倒し、フレイがさっき提案した徒党の組み方と攻撃の概略をクレスラーに説明するのを聞いていた。

 

 話は一時間半近くに及んだ。その間にランチのテーブルは紙だらけになった……手紙、契約書、倉庫の領収書、統計表などでいっぱいだった。

 

「どうだ」フレイは最後に言った。「なあ、チャーリー、このゲームがわかったか? これをどう思う?」

 

「これほど独創的な計画は聞いたことがないな、ビリー」クレスラーは答えた。「クルックスの後ろ盾があれば負けることはないでしょう」

 

「じゃぁ、あなたを頭数に入れていいですね?」

 

「入れないでくださいよ」クレスラーはきっぱりと言い切った。「私は投機はやらんのでね」

 

「でも、これだけのことを考えたことがあるのか?」フレイはそう言って、新たな視点からこの提案のすべてをおさらいして、声をはりあげて締めくくった。「なぜだ、チャーリー、我々は永遠の財産を手に入れるんだぞ」

 

「私は永遠の財産なんか欲しくないんだ、ビリー・フレイ」クレスラーは突っぱねた。「見てのとおりだ、ビリー。覚えておいてくれよ、私はもういい歳なんだ。あなたたちはみんな若い。私はちょっとした金なら残したんだ。ちょっとした仕事だってある。静かに年を取りたいんだよ。あなたたちが子供だった頃に、こっちは散々やりたい放題はしたからな。もうこういうことに関わらせないでくれ。誰か他を当ってくれよ」

 

「ほお、こいつは驚きだな」スウィーニーは叫んだ。「なあ、我々じゃ業界誌を抱き込めないと思って気が引けてのか? あんなもんは我々のポケットの中にあるんだぞ。クルックスが今、人差し指一本あげただけで大衆を売り一色にできないと思うのか? すでに新聞社のコラムのほとんどを独占してるんだぞ。二日とかけずにマーケットを売り注文一色にできないとでも思うのか? ここで我々が一致団結しないとでも思うのか? あいつはバターの中の虫だろ? いいか、聞いてくれ。言わせてくれよ……」

 

「この計画に関して、さっき話さなかったことはもうあるまい」クレスラーは言った。「もちろん、あなたたちは勝つだろう。クルックス社はロスチャイルドと同じで、地震が来てもびくともしない。しかし、私は何年も前に先物相場には手を出さないと誓ったんだ。それを守るのさ」

 

「おい、冗談だろ、チャーリー」フレイは調子づいて言った。「お前さん、怖いんだろう?」

 

「何がだ?」クレスラーは尋ねた「投機がか? あなたたちは随分私を買ってくれてるが、あなたたちも私くらい歳をとって、三度のパニックを経験し、買い占めの失敗がどういうことかを知ったら、投機が怖くなるさ」

 

「だが我々なら証明できる」すかさずスウィーニーは言った 「我々がやっているのは投機ではない……相手の方だよ。投機をしているのはこの馬鹿な買い方だろうが?」

 

「合理的な取引であれば、私は何だって参加するよ」クレスラーはテーブルから立ち上がりながら答えた。「あなたたちのグループが投機的グループでないことを私に納得させれば参加しよう。しかし、あなたがたの取引がそれ以外のものであるとは思えないね」

 

「明日も、ここで会いませんか?」オーバーコートに袖を通す間にスウィーニーが尋ねた。

 

「そんなことしても無駄ですよ」クレスラーは言った。

 

「それでも会いませんか?」相手はねばった。結局、クレスラーはそれを受け入れた。

 

 レストランの階段で別れわかれになった。リーダー格の二人はクレスラーの広い猫背が通りへ消えていくのを見届けた。

 

「これで仲間入りしたも同然だ」スウィーニーは言い切った。「明日、話をつける。一度相場師になった奴はずっと相場師だからな。あいつは昔、牛小屋の大将だったんだ。血は争えんさ。投機が怖いと漏らしたときに、うっかりぼろを出したわけだ。自分を支配していないものを怖がることはできないからな。どうだ、わかったか?」

 

「とにかく」フレイは言った。「我々はあいつを引き入れなければならないんだ」

 

「その辺のところを聞かせてくれよ」スウィーニーは答えた。「この計画にはまだよくわからないところがあるんだ。何でクルックスはあんなに熱心にあいつを入れたがっているだ? 俺はあまり気が進まないんだがな。こっちはあいつなんかいなくてもやっていけるだろ。それほどの大金持ちってわけでもあるまいに」

 

「ああ、堅実で保守的な現物を扱う一介の穀物商だ」フレイは答えた。「何年も先物とは無縁だった。クルックスとしては、スティールス社に近づく前に、そういう要素を仲間に入れておかなければならないんだ。まわりから山ほどお金を用立ててもらわなければならなくなるかもしれないし、そういう連中っていうのは怖気づいて用心深くなりがちだからな。クレスラーが仲間にいれば、グループに堅実で保守的な性格を与えられるってもんだ。その辺のところはクルックスに任せろ。あいつは自分の仕事を心得ているからな」

 

「こっちはてっきり」スウィーニーは思いついたように言った。「クルックスが今日、秘密を明かしてくれると思ってたんだがな。きっともう例の大口の買い方の正体をわかってんだろ」

 

「間違いなくわかってるさ」相手は答えた。「準備ができたら我々にも教えてくれるさ。でも、私にだってその個人を特定できると思うぞ。少し前にグレトリー・コンバース社を通してリバプールに大量の小麦が売れたんだ。あそこは長年カーティス・ジャドウィンの代理人をやっている」

 

「えっ、ジャドウィンがか? するってえと、これから大勝負になるんだな」

 

「でも、いいか」フレイは警告した。「ここが重要なんだ。クレスラーには絶対に知られないようにするんだからな。とにかくどっぷりつかるまで、抜けられなくなるまでは。あいつとジャドウィンは仲がいいという話だぞ。あれ、少し降ってきたな。そろそろ行かないと。明日のランチで会おうや」

 

 クレスラーがラサール・ストリートに差し掛かると、小雨は急に土砂降りになった。間一髪のところでイリノイ信託銀行の玄関に逃げ込み、ずぶ濡れになるのを免れた。すぐそばを通り過ぎていく人たちはみな同じ避難所に向かっていた。その中にカーティス・ジャドウィンがいるのを見て、クレスラーは驚いた。ジャドウィンはグランド・パシフィック・ホテルのカフェの入口から狭い小道を走ってやってきた。

 

「こんにちは! こんにちは、ジェイ」 友人がステップを上がってくると、クレスラーは叫んだ。「鯨がヨナに言う台詞じゃないが『濡れてないでこちらへどうぞ』」

 

 二人の友人は、コートの襟を立てて、しばらく玄関の下に立ち、通りを行き交う人たちを眺めていた。

 

「どうだい」クレスラーがようやく口を開いた。「今朝『ドル小麦』を達成したぞ」

 

「そうだね」ジャドウィンは頷きながら答えた。「『ドル小麦』だね」

 

「思うんだが」クレスラーは続けた。「きみは残念がっているだろう。自分が参加していないものだから」

 

「いやいや」ジャドウィンは葉巻の先をかじりながら答えた。「そんなことはない。私は……私はもう足を洗ったからね」

 

「じゃあ、永久に、この先ずっとなのかい?」

 

「永久にずっとだよ」

 

「じゃあ」クレスラーは言った。「他の誰かが、きみが去ったところから始めたんだな。この未知の買い方のことだがね。みんながその正体を探ろうとしてるんだ。しかし、クルックスは私にこう言っていたぞ……ご存知のキャル・クルックスがだ……そいつが誰だろうと構わないって。クルックスもこの勝負をおりたんじゃないかな……この大口の買い方が疲弊するまで手を出さないのだろう。この大口の買い方って誰なんだろうね」

 

「大口の買い方なんていないさ」ジャドウィンは偉そうに言った。「単に買いが殺到しているのか、あるいはグレトリーを通じてニューヨークの連中が暗躍しているのかもね。私だって知らないよ。クルックスと似たようなもので、どうでもいいよ……もうゲームから手を引いてしまったから。今は不動産の方が忙し過ぎて、他のことなど考えられないよ。朝から晩まで駆けずり回りっぱなしさ。いいかい、チャーリー、この街ときたらまだ半分も成長していないんだからね。それに、もう一つ気づいたんだ……都市は西に向かって発展するんだ。ウエストサイドの郊外に建築融資組合があるんだが、これがすばらしいものでね。どれ、雨はやんだようだ。奥さんによろしく伝えてくれ。じゃあな、チャーリー」

 

 クレスラーと別れて、ジャドウィンはすぐ近くにあるルッカリーの事務所に向かった。しかし、デスクに落ち着かないうちに、電話に呼び出された。

 

「もしもし!」グレトリーの小さくそっけない作り声が言った。「もしもし、きみか、ジェイ? ダルースの現物小麦の件だけど、きみの分、買ったからな」

 

「わかった」と答えてからジャドウィンは付け加えた。「そろそろ、じっくりと話をした方がいいと思うんだが」

 

「私もそれを言おうとしてたんだ」ブローカーは答えた。「今夜七時、グランド・パシフィックで会おう。これからは一緒にいるところを見られないに限る。私のことを問い合わせるなよ。喫煙室に直行してくれ。私はそこにいるから。それとだ、ミネアポリスからの返事が、今日の午後五時半頃に来ると思う。それが到着し次第、会いたいと思う。それまで待っていられるか?」

 

「今、家に帰るところだったんだ」ジャドウィンは反論した。「昨夜は夕食まで家にいなかったし、家内のやつが……」

 

「これはかなり重要なんだぞ」ブローカーは警告した。「それに、もし私がきみの家に電話したら、誰かが割り込んで我々の話を立ち聞きしてしまう可能性がつきまとうからな」

 

「うーん、じゃ、そうしよう」ジャドウィンは同意した。「じゃあ、今日はもう仕事じまいだ。明日のランチに帰えればいいか。仕方がない。ところで、今日の午後、クレスラーに会ったんだ、サム。どうも何かを疑っているように私には思えたんだ……まるで薄々感づいているといわんばかりに」

 

「電話を切った方がいい」ブローカーの声が返ってきた。「電話を切った方がいい、ジェイ。こうして電話をするのはリスクが大きい。今夜会おう。じゃあな」

 

 ローラが書斎の電話に呼び出されたのはそれから三十分くらいしてからだった。

 

「ええ、今夜は一晩中帰ってこないの?」ローラはジャドウィンの連絡に反応してぼんやりと叫んだ。

 

「無理なんだよ、奥さん」ジャドウィンは答えた。

 

「でも、どうしてよ?」ローラは言った。

 

「ああ、仕事だよ、建築貸付組合のことでね」

 

「そうでないことはわかってるわ。グレトリーさんに任せておけばいいでしょ……」

 

 しかし、ここで、グレトリーの警告がまだ記憶に新しかったジャドウィンはすかさず口を挟んだ。

 

「もう切るよ、ローラ。さよなら。明日の昼に会ったら、すべてを説明するよ。さよなら……ローラ……もしもし!……まだいるのかい?……もしもし、もしもし!」

 

 しかし、ジャドウィンは受話器で、小さなドアが閉まるときのようなガタガタ、カチッという音を聞いた。受話器から応答はなく切れていた。妻が失望、憤慨して、さよならも言わずに電話を切ったのだとわかった。

 

 数日が経過した。すぐにまた一週間が過ぎた。ドルに到達してから小麦相場は落ち着いた。数日、穏やかなひと時が続いた。水面下で、潮の干満の陰で、大きな力が静かに稼働して「状況」を再構築していた。何百万ブッシェルもの小麦を支配するために、何百万ドルという金が動き始めていた。その月の第三週が終わると、フレイはクルックスにクレスラーが「参加」したことを報告した。さっそくグループとスティールス系の大手金融機関との間で交渉が開始された。しかしその一方で、ジャドウィンとグレトリーは、敵がいないと見越し、「買い占め」ができることを知っている分、自分たちが断然有利だと知り、黙々と穀物を集めていた。三月末の時点で、ジャドウィンは五月小麦の買い占めに加えて、ダルース、シカゴ、リバプール、パリの現物小麦の少ない供給量の半分……約二千万ブッシェルを買い占め、これに対して同じ分量の七月のオプションを空売りした。現物の小麦を扱う以上は、負けるわけにいかなかった。小麦が値上がりすれば、彼の二千万ブッシェルはさらに価値が上がり、下がれば、空売りを買い戻して利益を手にできた。そして、この間も地道にコツコツと五月小麦を買い、グレトリーの帳簿に、その月の穀物収穫量よりも二千万ブッシェル多く所有していることが記されるまで買い続けた。

 

 しかし、この作業には彼のすべての時間だけではなく、思考力を総動員した徹底した考察が必要だった。ほんの少し前まで五百万ブッシェルを重荷に感じ、細心の注意を払う必要があると思っていた人物は、今では四千万ブッシェルの手持ち分に潜む巨大な力に目を光らせ、支配し、コントロールすることを求められた。時々結婚前の春のカーティス・ジャドウィンを思い出した。フランスの輸入関税のニュースを聞きつけて百万ブッシェルを空売りし、その取引を 「大口」だと考えていたあのカーティス・ジャドウィンを。あの頃とは別人だった。あのときは投機に疑いを抱き、恐れてさえいた。今は自分の中にこれまで考えもしなかった力や、才能や、幅広い理解力があることを発見していた。それができる人が、推定の根拠もないのに自分を「偉大」と呼んでしまうものわからなくはない。ジャドウィンは自分がすべての人たち……グレトリー、クルックス一派、傲岸不遜な売り方の連中、取引所の関係者全員……より優れていることを知っていた。ジャドウィンはその誰よりも強くて、大物で、やり手だった。数日もすれば全員が、手元にないのに自分たちが引き渡しを約束してしまった小麦はジャドウィンからしか手に入らない……しかも彼の言い値である、という事実に気づくだろう。ジャドウィンがその気になれば、相手から一ブッシェル当たり百ドルを取り立てることもできるのだ。相手はその値段を支払うか、さもなければ破産しなくてはならなかった。

 

 今はもうジャドウィンの頭にはずっとこの一つの大きな事実……五月小麦……しかなかった。朝、目が覚めた瞬間から、これがジャドウィンにつきまとった。せわしい朝食の間も、ジャドウィンから離れなかった。馬車が街に彼を運ぶ間も、馬の蹄のリズムが「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦」と聞こえた。ラサール・ストリートに入るがはやいか、物が行き交う轟音が耳に飛び込んだ。西部の農場からシカゴを通り抜けてヨーロッパの製粉所やケーキ屋に向かう小麦の激流の轟音だ。激流は一旦、通りの入口で、四千万ブッシェルを、自分が支配しているとジャドウィンが豪語する渦の中に巻き込んだ。午後が終わって夜が来た。その日の仕事は終わった。明日の作戦を立てねばならなかった。予期せぬ小さな問題が何十何百と毎時間発生し、毎分新しい決断を下さねばならなかった。ジャドウィンは夕食の時間に会社を離れた。再び馬が家まで運んでくれた。アスファルトを踏む馬の蹄が再び「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦」と単調な繰り返しを絶え間なく響かせた。ディナーのテーブルについても食事などしていられなかった。皿が運ばれる合間にその日の仕事を振り返り、吟味し、自分に問いかけた。「この処理は正しかったのか?」「その判断は正しかったのか?」 「ここに穴はないのか?」 「あの特電はどういう意味だったのか?」食事が済むと、グラッドストーンのバッグに入れて持ち運んだ書類、契約書、統計資料、報告書などが研究された。グレトリーが頻繁に訪れた。すると二人は書斎にこもって真夜中過ぎまで話し合い、議論し、計画を練った。

 

 やがて補佐役を送り出して玄関のドアを閉め、誰もいない静かな家に向かおうとしたとき、ついにその瞬間が訪れた。疲れた頭はだらりとうなだれ、鉛の重りのように疲労が踵にのしかかった。どこかでホールクロックが一つボーンと銅鑼のように鳴った。明日朝の立会場の波乱の幕開けを告げる合図のようだった。小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦! たちまち疲れ切った感覚は再び引き締まった。たちまち疲れた心はしゃきっとなった。ジャドウィンは明かりを消し、玄関に鍵をかけた。この豪邸はとっくに眠りについていた。夜明けの始まりの冷たく薄暗い静寂の中で、カーティス・ジャドウィンはベッドに入ったが、目を開けたまま横になり、暗闇を見つめながら、計画を立て、新しい手段を考え、一日の行動をおさらいしていた。一方で、鼓膜の奥のかすかな血流が、過労の脳に絶えずつぶやいた。「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦。四千万ブッシェル、四千万、四千万」

 

 朝食と夕食のときしか妻と会わない日々が続いた。時々、ローラは怒り、傷つき、夫はこんなにも自分を放ったらかしにするのかと嘆くことがあった。かと思えば、夫を気の毒に思うときもあった。夫がすべて悪いわけではないと判断しているようだった。

 

 ジャドウィンはローラが何を考えているのか想像するしかなかった。ローラはもうジャドウィンが仕事にかまけることを話題にしなくなった。ある時はローラの黒い目に非難や訴えを、またある時は怒りやひどく傷ついたプライドを見たと思った。数か月前なら、これはジャドウィンの心を揺さぶっただろう。しかし今はいきなり激昂した。

 

「きみは私がわざとこうしていると思うのか! きみにはわからないんだ、想像もつくまい。私は小麦を買い占めるんだ! 何ということだ、私を締め上げてるのは小麦の方じゃないか! 自業自得だな。私はたまたま板挟みに陥ってしまい、そのせいでこうなってしまった。今さら都合よく抜け出そうったって無理なんだ。今夜きみとクレスラー夫人と一緒に劇場に行くかって? いっそ、ジェリコにでも誘ってくれよ。あのコーセルにでも私の代わりを頼んでくれ」

 

 ごく自然にこうなった。招待状を受け取るとアーティストは、ジャドウィン夫人に立派なバラの花束を送り、芝居の後で、湖畔を見渡す自宅のアパートで夕食を振る舞った。夕食が終わると、ジャドウィン夫人、クレスラー夫人、ペイジをそれぞれの家まで送り届けた。

 

 とても面白い偶然だが、この席に男性は彼しかいなかった。そろそろお開きにしようかという頃になって、ペイジはランドリーから電報を受け取った。病気で寝込んでいるらしかった。その日の取引所の仕事が一時的にランドリーを消耗させてしまい、医者は外出を禁止した。クレスラー夫人は、チャーリーはこのところは何か考え事をしていて、すっかり老け込んでしまったと説明した。

 

「あの人は私と仕事の話はしないのよ」夫人は言った。「相場じゃないのは確かだけど、先週なんかはかつてないほど心配でそわそわして何にでもあたってたわ。そして今夜は今夜でパーマーハウスで客だか何だかに会うために外出しなきゃならなかったのよ」

 

 一行はクレスラー夫人を自宅の玄関で降ろし、ジャドウィン邸へと向かった。

 

 ローラはコーセルに言った「前に一度、私たち三人でこの道を帰ってきたことがあったわね。覚えてる? オペラの夜だったわ。私が初めて主人と会った夜よ」

 

「ヘルミック事件の夜だったわ」ペイジはしみじみと言った。「そしてオフィスビルはどこも明かりがついてたわね。あら」自宅まで来たときに付け加えた。「書斎に明かりがついてるわ。もう一時近いのに。ジャドウィンさんはまだ起きているのね」

 

 ローラは急に黙り込んだ。これは、いつ、どんなふうに終わるのだろう? 夜毎、夫はこうして書斎にこもって、明け方まで仕事をしていた。ローラが夫と団欒を楽しむことはなかった。夜は長く、時間は耐え難い重さとなってローラの手にのしかかった。

 

「きみは家にいるのかな?」ドアの前でローラの手をしばらく握りながら、コーセルは尋ねた。「明日の晩なんだけど、ご在宅? また遊びに来てもいいですか?」

 

「ええ、いいわ」ローラは答えた。「家にいわね。どうぞ、いらして」

 

 ローラの馬車は、アーティストを自宅アパートまで送っていった。コーセルは道中ずっと身動きせずに座ったまま、見るともなく窓の外を眺めた。タバコが消えた。ケースから別のタバコを取り出したが火をつけるのを忘れていた。

 

 コーセルは考え事をしたり、ぼんやりとしたりしながら、ゆっくりと階段を上った……エレベータは夜間停止していた……部屋に入ると、帽子とコートを放り出して、ガスに火をつけずに炉の前に座った。(天気はまだ厳しかった)ひと抱えほどの丸太が板石の上でくすぶっていた。

 

 使用人のエヴァンスが奥の部屋からやってきて、何か用はないか尋ねた。コーセルはイブニングコートを脱いだ。エヴァンスはスモーキングジャケットを持って来て、すぐそばのタバコの入った長い錫の箱と灰皿ののった小さなテーブルに置いた。それから部屋の隅にあるテーブルの、重いシルクのシェードをかぶった腐食したブロンズのランプをつけ、カーテンを引き、新しい薪をくべた。コーセルが新しいタバコに火をつける間、小さな銀のアルコールバーナーを向け、やがて「おやすみなさいませ」とつぶやくと、泥棒のように用心深くドアを閉めて退出した。

 

 レイクフロントに面したこのスイートルームは、コーセルが「家」と呼ぶもので、出かけてしまうときはいつも、忠実なエヴァンスにそっくりそのまま預けた。どんなに長く留守にしても、歓迎と安堵を感じることなくにここに戻ってくることはなかった。未だに戸惑いはあったが、椅子に落ち着いたので、ほっとくつろいだ気分になった。

 

 ランプがぼんやりと部屋を照らした。綿密に設計された絵のような部屋だった。細心の注意を払って厳選されていないものは一つもなかった。壁には緑色とほのかな金色の渋い玉虫のような効果が出るように銅箔が貼られ、夕日が差し込むと、そこは深い森の中の空き地を思わせた。アシカ革に茶色い木模様の装丁を施した十八世紀の書物が並んだ棚……アディソンの『スペクテイター』、ジュニウス、ラシーヌ、ロシュフコー、パスカルなどが、あちこちに立てかけてあった。どちらを向いても、芸術と職人技の小さな名作に目がとまった。ブロンズのティアラをつけた黒大理石のローマ衰退期のリアルなアンティークの胸像があり、絶妙な出来栄えの文字が散りばめられた『エイモンの四人の息子』の十四世紀版を額に収めたページがあり、かつては白かったが今は経年劣化で茶色く、中央だけが死んだ女王の盾の紋章と四分一の紋章で輝いているルネッサンス期のシルクの吹き流しがあり、窓間には壮麗なロレンツォの時代に作られた象牙の『踵のヴィーナス』像があった。カザンの原画とボードリーのチョーク画が、サン・ゴーダンスのブロンズの平板と一緒に壁に掛けられていた。暖炉から部屋の向かい端にまで及ぶ、北フランス派最盛期のタペストリーには、腕がすでに翼と化したハルシオンが、青いエーゲ海で、海藻が流れるように長い髪をなびかせているセイクスの死体の上を飛ぶ姿が描かれていた。

 

 コーセルはしばらく炎を見つめながらじっと座っていた。隣の部屋で時計が一時半を告げると、アーティストは長い指で目頭を押さえながら体を動かした。

 

 しばらくしてから立ち上がり、暖炉に向かいがてら、張り出した炉棚に腕をもたせかけ、そこに額をつけ、その姿勢を保ったまま、燃え盛る丸太を見下ろしていた。

 

「彼女は不幸なんだ」コーセルはようやくつぶやいた。「見ればわかる……。不幸で孤独なんだ。ああ、いればよかったときにそばを離れるとは、実に愚かなことをしてしまった! ああ、今さらいるべきではないのに、離れる踏ん切りがつかないとは愚かも程がある!」

 

 次の日の夜、コーセルはジャドウィン夫人を訪ねた。いつもと同じように相手は独りっきりだった。コーセルは詩集を持参していた。二人が予定したとおりにアートギャラリーで夜を明かす代わりに、コーセルがロセッティの詩を朗読した。二人の会話以上に、ありきたりで、事務的なものはなかったかもしれない。しかし帰り道に、コーセルはふと二人の話のある特徴に気がついた。重要なことだと思ったが,コーセルはそれを言葉にしたくなかった。コーセルもローラも、一晩中、一度もジャドウィンのことを話さなかった。

 

 徐々に親近感がわいた。コーセルは目を閉じ、耳をふさいだ。ローラへの想いと、最後の夜の追想と、次の出会いへの期待が、コーセルの目覚めている時間のすべてを満たした。コーセルは考えることを断念した。流れに身を任せた。ジャドウィンとはあまり面識がなかった。コーセルとローラの夫は会った回数こそ少なかったが、コーセルは相手の挨拶に誠意がないとは感じられなかった。ジャドウィンは一度言ったことがあった。

 

「家内に会いに来てくれてありがとう、コーセル。私はこのところ、結構留守にすることが多くてね。もしあなたのような人が時々来て、家内に絵の話をしてくれなかったら、きっと寂しがると思うんだ」

 

 ゆっくりと段階的に、付き合いは親密になった。いろいろな劇場やコンサートで、コーセルはローラをエスコートした。毎週二、三回、ローラを訪ねていった。彼のアトリエでの催しには、いつもローラがいた。コーセルは自問自答した……ローラはこれをどう受け止めているのだろう? ローラはコーセルに何の素振りも見せなかった。コーセルの存在を好ましく思っている以外の態度を決して見せなかった。ローラがこうして黙ってついてくるのは後押しなのだろうか? 人妻として、騎手とくっつく気があるのだろうか? ローラの結婚生活は耐え難いものだとコーセルは確信していた。亭主と合わないのだ。ローラは亭主を嫌っているとコーセルは自分に言い聞かせた。

 

 しかし、あるとき、ローラの予想外の、そして(コーセルにとっては)整合性のとれない反応のせいで、この信念はかなり揺らいだ。ローラは新しく入手したキャンバスを見ながら芸術協会で午後を過ごす約束をコーセルと交わした。しかし、ランチの一時間後にコーセルが訪ねると、ジャドウィン夫人は不在だと告げられた。次に会ったとき、ローラは一日中、夫と一緒に過ごしたことを明かした。早い列車でジュネーブ湖に行き、別荘の下見と、春先に使う準備をしてたのだ。あまりに突然決めたことだったので、ローラには計画の変更をコーセルに伝える余裕がなかった。コーセルは、ローラが……本当は……自分との約束をすっかり忘れていたのではないかと思った。コーセルにはこの出来事が全然理解できず、いずれにせよ、果たして夫婦仲が悪いと確信を持てるのかと後になって自問した。このときはジャドウィンが突然休暇を取ることにして、ローラが手っ取り早くそっちを優先したのかもしれないと推測した。それでも、ジャドウィンがそう言っただけで、ローラは他のすべてのことを忘れてしまうのだろうか? ジャドウィンは、頭をちょいと動かしただけで、ローラを自分のところへ呼び戻せるのだろうか? コーセルは困惑した。それが本当だと認めるつもりはなかった。そうした見かけよりも、ローラはもっと気概もプライドもある女性だとコーセルは思い込まされた。ジャドウィンが何らかの形でローラに強制したんだと信じることで決着をつけた。しかしその直後の数日間のローラは、これまでになく明るく、冴え渡り、輝いていた。

 

 しかし日にちが経てば、仕事にかまけてジャドウィンがどんどん妻から離れていくのがよくわかった。よく街で夜明かしし、一日の仕事を終えて家に帰っても、憔悴し、疲れ果てていて、ディナーを済ますとさっさとベッドに直行してしまうことさえあるのを知った。アーティストとジャドウィン夫人は、かつてないほど一緒にいることが多くなった。

 

 ある日曜日の夕方、今年初めての本格的猛暑日に、ローラとペイジは外出し、クレスラー夫妻と一緒に一時間過ごした。ローラが結婚する前にみんなでそうしたように「玄関のステップに出て座って」過ごした。不思議なことに、ジャドウィンはその場に居合わせることができた。今晩と次の水曜日の晩は自分といてほしいとローラが強く言ったからだ……水曜日は恋人時代に二人でそうしたように、馬車で公園をのんびりドライブする計画だった。

 

 もちろん、コーセルもクレスラー家へやって来た。ノースアベニューの豪邸でジャドウィン夫妻と食事を共にし、その後で三人は歩こうということで、徒歩でクレスラー邸まで行った。

 

 しかし明らかに、その夜、コーセルはローラ・ジャドウィンとほとんど会わなかった。ローラは夫がそばを離れないように工夫していた。他の人たちから夫を遠ざけようとさえしていた。やがて他の人たちをステップに残したままクレスラー邸の客間に座り込んで話を始めた。

 

 やりたいことがいっぱいあったローラはやがて声を大きくした。

 

「どこに行こうかしら? 思ったんだけど、ディナーは家でとるんじゃなくて、あなたが一旦家に戻って……ちょっと……早めにね、そして公園のレストランまで送ってもらって、そこで食事をするのはどうかしら、結婚前みたいに、もう一度恋人に戻ったみたいにして。ああ、天気がいいといいんだけど」

 

「ああ」ジャドウィンは答えた。「水曜日の夜のことか。ねえ、ローラ、実を言うと、私は……結局のところ、都合がつかないんだ。だって、水曜日は……」

 

 ローラは急に立ち上がった。

 

「でも、あなたは言ったわ」ローラは少し声をふるわせがなら始めた。「あなた、言ったじゃない……」

 

「ああ、確かに言ったよ。でもね、今回もまた大目に見てもらわないとね」

 

 ローラは答えなかった。暗過ぎてジャドウィンにはローラの顔が見えなかった。しかしその沈黙に不安を覚えたので、手の込んだ説明を始めた。しかしローラはそれを遮り、ちゃんと冷静に言った。

 

「じゃあ、それならいいわよ。ええ、私は気にしないわ。忙しいのなら当然よね」

 

「わかってくれるね?」

 

「ええ、わかったわ」ローラは答えて立ち上がった。

 

「そろそろ帰った方がいいわね」ローラは言った。「どうする?」

 

「ああ、そうだね」ジャドウィンは同意した。「私もかなり疲れてるんだ。大変な一日だったからね。喉も渇いたな」ジャドウィンは言った。「きみも水を飲みたいかい?」

 

 ローラは首を振った。ジャドウィンがクレスラー邸のダイニングルームのほうへ消えていく間、しばらく暗い部屋の中で独りで、通りのほうを眺めていた。頬が熱くなるのを感じた。両側に垂れた両手が硬い拳を握った。

 

「あれ、一人なの?」背後でコーセルの声がした。

 

 ローラはすぐに振り向いた。

 

「僕は帰らないとならないんでね」コーセルは言った。「おやすみの挨拶をしに来たんだ」コーセルは手を差し出した。

 

「おやすみなさい」ローラは手を預けて答えた。それから勢いにまかせて付け加えた。

 

「また会いに来てくれる……近いうちに? 水曜日の夜とか」

 

 その時、コーセルの心臓は喉まで出かかった。手の中にあるローラの手が一瞬自分の指を握りしめるのを感じた。

 

「それじゃあ、水曜日は当てにしていいのかしら?」ローラは繰り返した。

 

 コーセルはローラの手を握りしめ、いきなりかがんで手にキスをした。

 

「おやすみなさい」ローラは静かに言った。戸口にジャドウィンの足音がした。

 

「おやすみ」コーセルはささやいて、次の瞬時には行ってしまった。

 

 このところ、ローラは自分でも自分のことがわからなかった。時間ごとに人が変わった。周囲にいるすべての人を困惑させるほどころころと気が変わった。ある時は、陽気さが美しい家中を満たし、またある時は、自分の部屋に閉じこもって、みんなとの接触を断った。そして組んだ腕にうずくまり、胸が張り裂けんばかりに理由もわからずに泣いた。

 

 二、三日の間、宗教的な興奮がとりついて完全にローラを支配した。病院に寄付をするとか、スラム街で教会の仕事をしようなどと言い出した。しかし、友人たちがこの新しい展開に合わせてそれぞれが見方を変えたとたんに、ローラは別のことを始めた。ある日の午後、競馬場で、大きなひらひらの帽子をかぶり深紅の花束を持って、グレトリー夫人と一緒に一番派手な馬車に乗っている姿が目撃された。

 

 しかしローラはこうした行動を繰り返さなかった。その翌日にはもう新たな気まぐれが彼女を支配したからだ。マクベス夫人の役柄を覚えて、家の最上階にあるダンスルームに舞台を作り、そこに閉じこもって、三日間ぶっ通しで稽古をし、凝った衣装で身を包み、誰もいない部屋に向かって胸声で台詞を諳んじた。

 

「『カラスが声をからし、ダンカンの運命の到来を告げている、しかも胸壁の真下にいるとはな』」

 

 やがて、マクベス夫人に飽きてしまい、ジュリエット、ポーシャ、オフィーリアを演じた。どれもふさわしい衣装を着て、飽きずに熱心に勉強して「やっぱり舞台に立ちたい」と宣言して、ウェス叔母さんを怖がらせた。マクベス夫人に扮した自分の肖像画をシェルドン・コーセルに描いてもらおうと考えて楽しむことさえあった。

 

 そのアーティストのことが頭に浮かぶたびに、ローラはその考えを締め出そうとした。そう、確かに、コーセルはたびたび、年がら年中、私に会いに来た。多分コーセルはまだ私を愛している。だとしたら、どうなのだ? コーセルはずっと私を愛していた。コーセルが私を愛するのも、コーセルが私と一緒にいることも、間違ってはいなかった。コーセルがいなかったら私の人生は、言葉では言い表せないほど、我慢できないほど孤独だっただろう。それどころか、気位が高く、美貌に恵まれ、鋭敏な頭脳を持つ私が、あのローラ・ジャドウィンが、やつれ、衰え、忘却と無視の中で消えようとしている、と一瞬でも思われたのではないだろうか? 私が悪いのだろうか? 私を無視した人たちにそれを見てもらおう。私の若さは未だ健在だ。そして惹きつけたり、褒め称えずにいられなくする力もたっぷりあるのだから。

 

 問題の水曜日の夜、コーセルが会いに来たとき、ローラは客間で話し込み、しばらくしてから相手に言った。

 

「あなたが鑑賞の仕方を教えてくれた絵を覚えてるかしら……アートギャラリーにあった小さな水たまりの絵よ、あなたが『絶望』と呼んだ絵だけど? それをね、二階の自分専用の部屋……居間なんだけど……いつでも見られるところに置いたのよ。今はとても気に入ってるわ。でも」ローラは付け加えた。「光の具合がどうもね。もっと上手に吊るせると思うんだけど」ローラは一瞬ためらったが、突然何を思ったのか、コーセルの方を向いた。

 

「一緒に上がってもらって、どこに飾ったらいいか教えてくれない?」

 

 二人は小さなエレベーターで上の階に行き、ローラはアーティストを問題の部屋に案内した。ローラの「居間」は広く、風通しのよい場所で、磨き抜かれた床は分厚い皮の敷物で覆われ、壁は単調な羽目板が天井の中程まで張られていた。本棚があちこちにあり、鉢植えの植物や縦長の真鍮のランプが置かれていた。公園と湖を見下ろす窓際には「マデイラ」という長い椅子があり、その近くには茶器や半透明な陶磁器が置かれたサント・ドミンゴ・マホガニーの大きな丸いテーブルがあった。

 

「何て美しい部屋なんだ」ローラが壁の電源ボタンに触れるとコーセルがつぶやいた。「きみの個性がよく表れているね。いかにもきみが住んでいそうな部屋だ。もしきみが何千マイルも離れたところにいて、僕がここに入ったとしても、これがきみのだってわかったよ……そのくらいすてきだ」

 

「ここにその絵があるのよ」絵がかかっている場所を示しながらローラは言った。「照明が悪いって思わない?」

 

 しかしコーセルは、そんなことはない、キャンバスをもう少し壁から傾ければ良い効果が得られると説明した。

 

「ああ、なるほどね」コーセルが絵を固定するとローラは同意した。「確かにね。明日また掛け直すわ」

 

 しばらく二人は部屋の中央に立ったまま、絵を眺め、絵の話をしていた。そして、どうしてそうなったのかよく覚えていないが、ローラは自分がマデイラの椅子に寄りかかり、コーセルが丸いテーブル近くのすぐに座っていることに気がついた。

 

「私の部屋を気に入ってもらえてよかったわ」ローラは言った。「ほとんどの時間をここで過ごしているのよ。最近はよくここでディナーをいただいてるわ。ペイジは外出が多いから、私は時々一人になるの。昨夜はしばらく真っ暗にして、ここに座っていたわ。家中が静まり返っていたわ、みんなが出払っていたから……使用人までもね。結構暑かったから窓を開けて何時間もここに座って湖を眺めていたのよ。ぴちゃぴちゃと岸辺に打ち寄せる音がしたわ……まるで海みたいにね。静かだったわ、とても静かだった。バリントンの小さな少女だった頃のことを考えていたわ。何年も何年も前のことよ。「水場」でヒルベリーを摘んでいたこととか、トウモロコシ畑で迷子になったときの様子とか……だって茎が私の頭の上まであったのよ……父が干し草の馬車に乗せてくれたときは、どんなに嬉しかったことか。あの頃は幸せだったわ……ただのそばかすだらけで黒髪の痩せた少女、服は破れていて、手はベリーの茂みで傷だらけだったわ」

 

 ローラはドラマ仕立てで語り始めたが、今ではすっかり役になりきっていた……ありったけの演技力で、贅沢な暮らしの中で不幸になった女性が、楽しかった素朴な子供時代を悲しみと憧憬の念で振り返った。誠実であって、誠実ではなかった。自分の一部……別の時代にあって同じように自分を「私」と呼んぶ二人のローラ・ジャドウィンのうちの一人は、自分の言葉や振る舞いが、自分に共感を寄せる男性に、自分を愛する男性に、どのような影響を及ぼすかを知っていた。しかし、別のローラ・ジャドウィンは、完全に、全面的に誠実ではない自分の遠回しな態度を、姑息、あこぎとさえ思って憤慨しただろう。彼女が言っていることはすべて真実だった。ローラは思った、自分が今置かれた立場に置かれた者はこれまで誰もいない。自分が今話したことを話したことがある者はこれまで誰もいない。細い指の上に顎を乗せ、目を大きく見開いて、ローラは続けた。

 

「もしあの時、あの日々が私の人生で最も幸せなものだとわかってさえいたら……。この豪邸も、このすばらしさも、この富も、いったい何の役に立つのかしら?」ローラの声はフェードルの声であり、両腕を膝に降ろすだるそうな仕草は、その前日にポーシャの嘆きに加えてするようになったばかりのものだった。

 

 ……私の小さな身体は、この大きな世界にほとほと疲れてしまった。

 

 しかし同時にローラは、自分の心が本物の悲しみで本当に痛んでいることや、目に浮かぶ涙が、これまで流したどの涙よりも本心から出たものであることを知っていた。

 

「この富は」ローラは椅子のクッションに頭を落としながら話を続けた。「何のためにあるの、何の埋め合わせかしら? そんなものはいくらだって喜んで、ディアボーン領主の水場に戻って、ヒルベリーに染まった手でイラクサを摘んでいたあの小さな黒髪の少女と、それから私を美しい心の友と呼んで、青い髪飾りを買ってくれて、ポンプ小屋の陰でキスしてくれた私の小さな恋人にあげるわよ」

 

「ああ」コーセルはすかさず、むきになって言った。「それは知らなかったな。結局あの頃だってきみの人生を甘美にしたのは愛だったんだ……たとえそれが愚かな少年少女の愛だとしてもね」

 

 ローラは両手を膝の上に降ろし、考え込んで、指輪をくるくると回した。

 

「そうは思わないかい?」コーセルは低い声で尋ねた。

 

 ローラは答えを返さずに、ゆっくりとうつむいた。それからしばらく、どちらも口をきかなかった。ローラは指輪をいじくっていた。アーティストは椅子で前かがみのまま、ぼんやりと部屋を見渡した。コーセルが帰ってきてから過ごしたどの時間も、これまで二人の間で行き交ったどの言葉も、この短い無言の瞬間ほど、大きな意味を持たず、二人を近づけはしなかった。

 

 ついにコーセルはローラの方を向いた。

 

「自分の人生に愛がないなんて思ってはいけないよ」コーセルつぶやいた。「僕がきみにそんなことは信じさせない」

 

 しかしローラは何も答えなかった。

 

「見るだけでいいんだ」コーセルは続けた。「目を向けさえすれば、きみの人生を長年包んできた愛があることがわかるんだ。きみはずっとそれを自分から締め出してきたんだよ。ずっときみのものだったのにね。きみの扉の前にあってずっと見守ってきたんだ……神さまは知っているよ、どんな憧れを抱いて窓越しに見守っていたか。それが追いつかないところへ、きみは行ったことはないんだ。それが知らない、大切にしない、きみの足跡なんてないんだ。きみは自分の人生に愛がないとでも思ってるのかい? だって、きみのまわりにあるだろ……ただ声を出さないだけできみのまわりにあるじゃないか。先方には話しかける権利がないからね。ただ辛抱する権利しかないんだ」

 

 それでもローラは一言も発しなかった。ローラはコーセルから顔をそむけ、窓の外を眺めた。再びどちらも話をしないまま時間が経過した。テーブルの上の時計は着実に時を刻んだ。窓を通して遠くから悲しみを誘う湖の波の音が絶えず聞こえた。二人を取り巻く家中が静かだった。やがてローラは椅子に座り直した。

 

「今度の夏、留守の間に、この部屋を改装しようと思うの」ローラは言った。「羽目板が天井近くまであった方が見栄えがいいって思わない?」

 

 コーセルは批評家の目で部屋中を見回した。

 

「いいね」コーセルは元気よく答えた。「木ほどすてきな背景はないからね」

 

「そして一番上の部分を細い棚にするかもしれないわ」

 

「ただし、真鍮の飾り板や、しろめのキッチン用品は置かないことだね」

 

「タバコ吸ったら」ローラはうながした。「吸いたいんでしょ。マッチならテーブルの上よ」

 

 しかし、コーセルはタバコに火をつけるときに、自分のマッチ箱を出した。それはウィーンの質屋で買った珍しいアンティークの銀製品で、ハートの形をしていて、上の方に古びた金の小さな公爵の冠がついていた。片側に小さな文字で自分の名前を刻ませてあった。ローラが感心して見ていると、コーセルはそれをローラに差し出した。

 

「古い小物入れだと思う。あるいは爪に塗る軟膏でも入っていたのかもしれない」 コーセルは中身のマッチを手のひらに出した。「内側に赤い染みがまだついているでしょ……嗅いでごらん」ローラが手に取るとコーセルは付け加えた。「硫黄のマッチの匂いでさえ、おそらく三世紀前に蒸留された趣のある古い香りを消せないんだ」

 

 一時間後、コーセルはローラのもとを去った。ローラは部屋の敷居より先へはコーセルを見送らず、玄関まで独りで行かせた。

 

 コーセルがいなくなるとローラは部屋に戻り、公園と湖が見える窓際のいつもの場所にしばらく座っていた。コーセルが去ってすぐに、ペイジ、ランドリー・コート、ウェッセルズ夫人が帰宅した音を聞き、ようやく夢心地から覚めて、寝る準備をした。しかし寝室に向かう途中で、マホガニーの丸いテーブルに通りかかったときに、自分が座っていた場所の付近に、小さなものが置かれていることに気がついた。

 

「あ、忘れ物」コーセルのハート型のマッチ箱を手に取ってつぶやいた。見るともなくちらりと見たが、頭は他のことで一杯だった。それを再びテーブルの上に置くと、自分の部屋に行ってベッドに入った。

 

 その夜、ジャドウィンは帰ってこなかった。朝はローラが彼の代わりに朝食のテーブルを取り仕切った。そこには、ランドリー・コート、ペイジ、ウェス叔母さんの姿があった。最近では時々三人が長時間のコンサートや講演に出かけるときに、ランドリーが家に一晩とめてもらうことがあった。

 

「ご主人に何か伝言はありますか、ジャドウィン夫人」朝食を済ませて街に出る準備が整うとランドリーが尋ねた。「いつも最初にグレトリーさんのオフィスで会いますからね。何か伝言でもあれば?」

 

「ないわ」ローラはあっさりと答えた。

 

「そういえば」ウェス叔母さんが言った。「昨夜、その角で、あのコーセルさんに会ったわ。ちょうど帰ろうとするところでね。お帰りになる前に帰って来ることができなくて本当に残念だったわ。私はあの人があの大きなオルガンを演奏するのを聞いたことがないよ。ずっと心待ちにしていたのにね。昨夜こそ、お帰りになる前に捕まえられるかもしれないと思って、急いで帰って来たのに。いつもがっかりさせられるわ」

 

「それはお気の毒でしたね」ローラはつぶやくと、どうしてそうしたのかはわからないが、愚かにも付け加えた。「二人で夕方までずっとアートギャラリーにいたのよ。すばらしい演奏をしてくれたわ」

 

 その日の午前中十一時頃、ローラはいつものように馬車で出かけた。 家を出て一時間もしないうちに引き返した。

 

 急にあることを思い出したのだ。天翔けるような襲歩でクルセイダーを自宅方向に急がせ、今度は最もゆっくりした常歩に抑えた。突如ローラの脳裏に浮かんだものはコーセルのマッチ箱だった……表に彼の名前が刻まれている……居間のテーブルの上にはっきりと見える状態で置きっぱなしだった……そこは極めてプライベートな特別の場所だった。

 

 そこはローラの専用部屋であり、日頃の家事ではこの部屋に手を付けないように使用人たちに命じてあった。自分でそこの整理整頓をするほどだった。とはいえ、そこはその先のスイートルームに行くときにメイドや家政婦がよく通るし、ローラが不在のときにペイジやウェス叔母さんが時々本を読みに来ることがあった。家族はその場所を「二階の居間」と呼ぶこともあれば、単に「ローラの部屋」と呼ぶこともあった。

 

 家に向かって馬車を走らせる間にローラは、今朝、家を出る前に部屋をちらりとも見なかったことを鮮明に思い出した。使用人はそこには手を触れないだろう。しかしウェス叔母さんやペイジなら可能性は十分にあった。

 

 頭に血がのぼったローラは馬を鋭く鞭打った。ちょっとした苦境、困った状況が、小さな鞭のように目の前をよぎった。こんなことになるなんて! いつも堂々と構えていたはずのこの自分が。

 

 突然、ローラは再び馬の歩調をゆるめた。いや、急ぐことはないのだ。逸る気持ちを抑えて、わざとゆっくりと道を進んだので、ローラが馬車寄せに降り立ったときには十二時を回っていた。

 

 鞭をぎゅっと握りしめ、居間に向かい、後ろ手にドアを閉めながら中に入った。

 

 テーブルに直行したものの、急に不安で胸が苦しくなり息を呑みながら思わず立ち止まった。小さなハート型のマッチ箱がなくなっていた。ペイジが部屋の隅のソファで、自分の横の床に本を落とし、丸くなって眠っていた。

 

 ローラは乗馬服を丸めて腕にかけ、ブーツのつま先で神経質に床を叩きながら、部屋の中央でじっと立っていた。唇を固く結び、手袋をはめた片方の手の指が、せわしげに乗馬用の鞭を叩いていた。ローラは困惑した。容赦なく胸を締め付ける不安、名状しがたい何かへの恐怖が、突然胸ぐらをつかんだ。

 

 勘違いをしていたのだろうか? 自分が見たマッチ箱は本当にテーブルの上にあったのだろうか? もし部屋の他の場所にあるのなら、すぐに見つけなければならなかった。動揺しながらもできるだけさりげなく迅速に部屋中をあちこち動き回り、机の隅を覗き、床や椅子の上を探し、いたるところ、あらゆるところを探しまわったが、みっともないと感じたことは一度もなかった。顔は紅潮し、息は切れ、両手は開いたり閉じたりしていた。

 

 しかし、古びた金の冠のついた銀のハートは見つからなかった。三十分もすると、ローラは探すのを断念せざるを得なかった。最後に部屋を出たときに、マッチ箱がマホガニーのテーブルの上にあったのは確かだった。それが紛失したのではないことを今は確信していた。

 

 机の前に座り、乗馬服と帽子という格好のまま、四回目になる引き出しと棚の物色をしていると、振り返ってもいないのに、ペイジが目をさまして自分を見ていることにすぐに気がついた。ローラは咳払いをした。

 

「私の青い便箋を見なかった、ペイジ?」ローラは尋ねた。「すぐにクレスラー夫人に手紙を出したいんだけど」

 

「いいえ」ペイジはソファから立ち上がって言った。「見ていないわ」ペイジは部屋を横切って姉の方に来た。「ひょっとして」ポケットからハート型のマッチ箱を出しながら付け加えた。「これを探してるんじゃない。預かっておいたわ。ジャドウィンさんがここで見つけてもどうってないのはわかってるけど」

 

 ローラはペイジの手からハート型の小さな銀器がくるくる回って部屋の向こう側へいってしまうほど乱暴に叩き落として、立ち上がった。

 

「預かっておいたですって!」ローラは叫んだ。「預かっておいた! 何でそんなことするのよ! どういうつもりよ? カーティスがここで見つけたからって私がどうだっていうの? コーセルがここに来たことをカーティスが知ると私がどうなるっていうの? もちろん、ここに来たわよ」

 

 ペイジは真っ青になったが、姉の激昂にまったく動じなかった。

 

「コーセルさんがここに来たことを誰かに知られても気にしないのなら」ペイジは静かに言った。「今朝、朝食のときに、彼が夕方ずっとアートギャラリーにいただなんて、どうして私たちに話したりしたのよ? てっきり」ペイジは無理に何食わぬ顔をして付け加えた。「マッチ箱を隠すことが、あなたのためだと思ったのよ」

 

「私のため! あなたね! 私が何を隠さなくちゃいけないのよ?」ローラの叫びはほとんど言葉になっていなかった。「確かに、夕方ずっとアートギャラリーにいたと言ったわよ。そうだったんだもの。私たちはね……今思い出したんだけど……私の絵がどんな風に飾られているかを見に、ちょっとだけここに立ち寄ったのよ。すぐに下へ降りたわ。座る暇もなかった。二分と部屋にいなかったもの」

 

「彼はここにいて、半ダースほどタバコを吸ったでしょ」ペイジは答えて、マホガニーのテーブルの上にある銀色のペン皿を指差した。本棚の後ろに隠れていて、五、六本分のタバコの灰と焦げた吸い殻が散らばっていた。

 

「まったく、ローラったら」ペイジは言った。「本当に不器用ったらないわね」

 

 ローラは右手で鞭をつかんだ。

 

「やめてよ……混乱させないでよ」ローラは息を切らして叫んだ。

 

「ずっと自分でそうしてきたように見えるけど」ペイジは静かに言った。

 

 ローラは鞭を放り出して腕を組んだ。

 

「えっ」ローラはぎらぎらした目でペイジを見据えて叫んだ。「どういうこと? 座りなさいよ」ローラは椅子に手をやり指図した。「座って、何を言いたいのか話してよ」

 

 しかしペイジは立ったままだった。動じることなく姉の視線を受け止めた。

 

「コーセルさんのマッチ箱がここにあってもあなたには関係ない、って私に信じさせたいの?」

 

「ちっとも関係ないわよ」ローラは叫んだ。「ちっともね」

 

「それならどうしてここへ来て必死にそれを探したの? 私はずっと寝ていたわけじゃないのよ。見てたんだから」

 

「だって」ローラは答えた。「だって……私……だって……」やがて気を取り直して一気にまくし立てた。「私がやったことを、あなたに答えなければならないの? 説明しなくてはならないの? 昔っからずっとあなたは姉を裁こうとしてきたわ。出過ぎたまねなのよ。今日からそんなことは禁止するわ。私がどうするかは私の問題よ。誰の助言も求めないわ。自分の好きなようにする、わかった?」目には涙が浮かび、嗚咽が喉の奥で抑え込まれた。「自分の好きなようにするわよ」そして、その言葉とともに、ローラは机のそばの椅子に崩れ、素手の拳で何度も開き蓋を叩き、涙と嗚咽にまみれ、歯を食いしばるそばから叫んだ。「私は自分の好きなようにするわ。わかった? 自分の好きなように、自分の好きなようにね! 私は幸せになるのよ。なるわ、なるんだから!」

 

「ああ、ローラ、ローラ……」ペイジは駆け寄りながら叫んだ。しかしローラは再び立ち上がり、相手を押し戻した。

 

「触らないで」ローラは叫んだ。「あんたなんか大嫌い!」 ローラはこめかみに拳を当て、目を閉じて、体を揺さぶった。「触らないでよ。私から離れてよ。私から離れて。あなたなんか大嫌い、みんなみんな大嫌い。この家も大嫌い。この生活も大嫌いよ。みんながよってたかって私をなぶり殺しにするんだわ。ああ、神様、いっそ死ねたらいいのに!」

 

 ローラは顔を伏せたままソファに突っ伏した。嗚咽が頭から足まで揺さぶった。

 

 ペイジはローラの横にひざまずき、肩に腕を回したが、妹がどう慰めても、ローラは組んだ腕の中で声を殺して泣くだけだった。

 

「放っといて、放っといてよ。私に触れないで」

 

 しばらくペイジは黙って聞いていようとしたが、少し考えてから立ち上がり、ローラの帽子のピンを引き抜いた。帽子を取り、首に巻いたスカーフを緩め、手もとで姉をそのままむせび泣かせておいて、手際よく、静かに、硬いきつ目の乗馬服を脱がせた。隣の部屋から冷水に浸したタオルを持ってきて、ローラの顔と両手を洗った。

 

 しかし、姉は心を許そうとせず、妹の呼びかけや愛撫に応じようとしなかった。一時間余りが過ぎた。ペイジは姉の性格を知っていたので、結局、発作がひとりで治まるのをじっと待ち続けた。

 

 しばらくすると、泣き声が長く震えるような息遣いに変わり、ローラはやっとの思いで小さなむせび声をひねり出した。

 

「私の化粧台からコロンを持ってきてくれる? 頭が痛くてたまらないのよ」

 

 そして、ペイジがドアに向かって駆け出すと「手鏡もお願い」と付け加えた。「私の目、腫れぼったい?」

 

 二人姉妹の間であったことはこの言葉を最後に幕引きとなった。

 

 しかし、同じ日の夜、八時から九時の間、長くなるとわかりきった夜を過ごすための本を書斎の本棚で探していると、コーセルの名刺がローラのところに運ばれてきた。

 

「私は不在よ」ローラは使用人に言った。「ああ……待って」ローラは言い添えた。そしてしばらく考えてから言った。「いいわ。ここに案内してちょうだい」

 

 ローラは空っぽの暖炉の前の立派な白い絨毯の上にまっすぐに立って、青白い顔で、アーティストを迎えた。相手が現れても両手は後ろにあった。部屋を渡ってきてもローラは動かなかった。

 

「最初はあなたに会うつもりはなかったのよ」ローラは言った。「使用人には不在と言ったんだけど、でも、気が変わったの……あなたに言いたいことがあったから」

 

 コーセルは巨大なマントルピースの角に肘をついて暖炉の反対側に立った。ローラが最後の言葉を話し終えるとすかさず目を向けた。いつものように、二人きりだった。入口の厚ぼったい音をさえぎるカーテンが、うまいこと二人だけにしてくれた。

 

「あなたに言いたいことがあるの」ローラは言った。それから落ち着いて言った。

 

「もう私に会いに来てはいけないわ」

 

 コーセルは突然ローラから顔をそむけ、しばらく言葉を発しなかった。そして最後に再びローラに顔を向け、低い声で尋ねた。

 

「僕が何か怒らせたかな?」

 

 ローラは首を振った。

 

「違うよね」コーセルは静かに言った。「違うな、僕はそんなんじゃないことはわかってる」長い沈黙があった。アーティストは大きな革張りの椅子の背もたれを手でゆっくりとなでながら床を見つめた。

 

「遅かれ早かれ」コーセルはようやく答えた。「こうなることはわかってた。やっぱり……きみが正しいな。僕はアメリカに戻って来るべきじゃなかった。僕は自分が信じられるほど強いだなんて信じてはいけなかったんだ。それじゃ」……コーセルはローラをじっと見つめた。唇から言葉が一つずつ、とてもゆっくりと出てきた。その声はかろうじて聞き取れる程度だった。「それじゃ、僕は……もう二度と……きみには会わない。これでいい?」

 

「ええ」

 

「それが僕にとってどういうことかわかるかい?」コーセルは叫んだ。「きみにわかる……」コーセルは大きく息を吸い込んだ。「もう二度と会わないよ! 今、僕に残されたわずかなものさえも失うとは。僕は……僕は……」コーセルはすぐ顔をそむけて窓際まで歩き、しばらく背中を向けて、外を眺め、後ろで両手を組んで立っていた。そして、しばらくしてから顔を向け、再び落ち着いた状態に戻り、とても低い声で言った。

 

「でも帰る前に」コーセルは言った。「せめてこれだけでも答えてくれないか……別れてしまうんだから答えても今さら何の害にもならないだろ。本音を打ち明けてくれるよね。きみは幸せかい、ローラ?」

 

 ローラは目を閉じた。

 

「あなたには知る権利はないわ」

 

「きみは幸せではないんだ」コーセルはきっぱりと言った。「見ればわかる。僕にはそれがわかる。もしきみ幸せだったら、僕にそう言っただろうからね……。もし約束したら」コーセルは続けた。「もし僕がきみにもう二度と会わないことを約束したら、もう一度来てもいいですか……お別れの挨拶をしに?」

 

 ローラは首を振った。

 

「そのくらいさせてくれてもどうってことはないだろう」コーセルは頼んだ。「僕にとってそれはまだ残っている希少な時間の中で楽しみにしているとっても大事なことなんだ。二人きりで会いたいとか言ったりしないよ。英雄を気取ってきみを悩ませたりはしないから」

 

「あなたがもう一度私に会ったからって」ローラは疲れた様子で嘆いた。「何になるのよ? どうしてこれ以上私を不幸にするのよ? どうしてあなたは戻って来たの?」

 

「だって」コーセルはまくしたてた。「だって僕はきみのことを愛しているからさ」……コーセルは握りしめた拳を少しあげて椅子の背もたれにゆっくりとおろした。「この世の考えうる他の誰よりもね」

 

「やめて!」ローラは叫んだ。「あなたは言ってはいけないのよ。私に向かって二度とそんなことを口にしないで。帰って……お願いだから」

 

「ああ、もし僕が四年前にきみのもとを離れなかったら!」コーセルは叫んだ。「あの時、留まってさえいたら! あれ以来一日たりともそれを後悔しなかった日はない。あの時、きみは僕を愛してくれたかもしれない。わかってる、僕にはわかってるんだ。不謹慎かもしれないが、今のきみなら僕のことを愛せるってわかるんだ……」

 

「帰ってくれる?」ローラは叫んだ。

 

「否定してくれよ」コーセルは強く言った。

 

 ローラは目を閉じ、両手で耳をふさいだ。「愛せないわ、そんなことできるはずないでしょ」そればかり何度もつぶやいた。「できないわ、できないわよ」

 

 ローラはコーセルが突然動く気配を耳で感じた。目を開けると相手がみるみる自分に向かってくるのが見えた。ローラはそれを防ごうと手をかざしたが、コーセルは自分に向けられた腕をつかみ、相手が抵抗できないうちに、レースの袖の隙間越しに腕に何度もキスをした。ローラは素肌の肩に、突然コーセルの唇の熱さを感じた。

 

 思わず息を呑んだ。急な息苦しさに全身が指先にいたるまで悶絶するほどの苦しみで、血がわき、鼓動が激しくなった。

 

 ローラは腕のレースが引きちぎれてしまうほどの勢いで相手を振りほどき、棒立ちで硬直したまま立ちすくした。全身に心地いいかすかな震えが走った。真っ白い頬が、突然、赤く燃え上がった。

 

「帰ってちょうだい」というだけで精一杯だった。

 

「じゃあ、もう一度きみに会ってもいい?……一度だけでいいから」

 

「ええ、いいわ、何でもいいから、とにかく帰って……もしもあなたが私を愛しているのなら!」

 

 コーセルは部屋を離れた。すぐに玄関のドアが閉まる音がした。

 

「カーティス」 ローラは次に夫に会ったときに言った。「カーティス、前回は私と一緒にいることができなかったわよね。覚えてるかしら? 私たち、馬車でドライブすることになってたでしょ。今夜は一緒に過ごしてくれる? 私たち二人きりで、この家で……それとも、あなたと一緒にお出かけしようかしら。何でも言うことを聞くから」ローラは一瞬相手をじっと見つめた。「女性に……私に……こんな頼みごとをさせないでよ。毎回これっきりって自分に言い聞かせているんだから。これだけは忘れないでおいてね、カーティス……私にだって少しはプライドがあるのよ。わからないの?」

 

 二人は再び朝食のテーブルにいた。ローラがコーセルに別れを告げた翌朝のことだった。ローラの話を受けて、ジャドウィンは手をテーブルの上にバンと下ろした。

 

「よし、そうしよう」ジャドウィンは叫んだ。「今夜こそきみと一緒にいよう。仕事なんかどうでもいい! それじゃ二人で外出せず、ここにいよう。きみは何か読むものを用意するんだ。二人でまた昔のような夕べを過ごすとしよう。二人で……」

 

 ジャドウィンは突然口ごもり、ナイフとフォークを置き、きょろきょろと部屋の中を見回した。

 

「二人でまた昔のような夕べを過ごそう」カーティスはゆっくりと繰り返した。

 

「どうしたの、カーティス?」妻が尋ねた。「何か問題があるの?」

 

「ああ……何でもない」カーティスは答えた。

 

「ほら、やっぱり、あったんだわ。言ってよ」

 

「何でもないって。もう大丈夫だよ」ジャドウィンは元気よく答えた。

 

「違うくせに」ローラは食い下がった。「言わなきゃだめよ。あなた、具合悪いの?」

 

 ジャドウィンは一瞬ためらった。それから。

 

「具合?」ジャドウィンは問い返した。「そんなんじゃない。でも……きみには言っておこう。数日前からなんだけど」ジャドウィンは眉間に指を当てた。 「この辺に奇妙な感覚があるんだ。感じては消えるんだ」

 

「頭痛なの?」

 

「違うな。説明しづらいんだ。感覚がなくなった気がするんだ。時々、頭に重い鉄の帽子……ヘルメットでもかぶっているような感じがするんだ。そして時々……よくわからないんだが、中に霧だか何だかそんなものがあるような感じがするんだ。出かけられるようになり次第、今度の夏はゆっくり休もうと思ってる。あとひと月か六週間あれば、仕事をきちんと片付けて、放っておけるようになるからね。そして、ジュネーブまで行って、思いっきり羽根を伸ばすんだ」ジャドウィンはしばらく黙り込んで、顔をしかめ、額に手をやり、目をぱちぱちさせた。そして、いつもの俊敏さを取り戻し、腕時計を見た。

 

「さて!」ジャドウィンは叫んだ。「もう行かなくちゃならない。今夜のディナーまでには帰れないが、八時までには必ず戻る。その時間にはここにいると約束するよ」

 

 ジャドウィンが別れのキスをすると、ローラは相手の首に腕を回した。

 

「ねえ、私を放ったらかしにしないでよ、絶対に、絶対に! カーティス、私を愛してね、いつも愛してね、あなた。そして、私のことを考えて、私に優しくしてね。覚えておいて。私にはあなたしかいないのよ。あなたは私にとって父であり母であり、愛する夫なんだから。あなたが私を愛していることは知ってるわ。でも時々……ああ」ローラは突然、叫び声をあげた。「あなたが愛してくれない思うと……何よりも何よりも私を愛していると思わなかったら……私はあなたのことを愛せないわ。カーティス、愛せない、愛せないわ。だめよ、だめ」ローラは叫んだ。「邪魔しないで。ちゃんと聞いてってば。そんな風に感じるのは私が悪いのかもしれないけど、でもね、私はただの女なのよ、あなた。私はあなたを愛してるけど、愛も大事なのよ。女はそういうものなの。善人も悪人も、弱者も強者も、女って、この世の他の何よりも自分が愛されてなきゃならないの。さあ、行って。仕事に行ってちょうだい。遅れちゃだめよ。ほら、ジャービスが来たわ。早く行って。いってらっしゃい、八時に会いましょう」

 

 自分の言葉どおりに、その夜、ジャドウィンは約束の時間に速やかに帰宅した。しかし、ジャドウィンが家に入ったとき、ホールで出迎えたのは玄関係だった。主人の帽子と杖を受け取る間に、奥さまがアートギャラリーでお待ちかねです、すぐにご案内するように奥さまから申しつかっておりますと説明した。

 

 ローラはちょっとしたサプライズを計画していた。アートギャラリーは真っ暗だった。くすんだ青のシェードの奥のあちらこちらにある照明は暗かった。しかし、最上段の絵に光を当てる可動式反射板のひとつは煌々と燃えるようだった。ジャドウィンが入ってくると、その向きが変えられた。大きな円錐状の強烈な白い光が、テオドーラの衣装を全身にまとってオルガンの前に立つローラにそそがれた。

 

 ジャドウィンは一瞬、度肝を抜かれた。

 

「何なんだ!」ジャドウィンは入口で立ち止まり思わず叫んだ。

 

 ローラは動くたびに、鎖や装飾品、揺れるペンダントをちゃらちゃら鳴らして、ジャドウィンの方へ駆け寄った。

 

「驚いた、驚いたでしょ」ローラは笑った。「どう、すごいでしょ?」ローラは両腕をあげて相手の前でくるりと回った。「すばらしいでしょう? ベルナールを覚えてる?……野外劇場でのユスティニアヌス帝の箱のシーンは? あなたの奥さんは美しくないって言ってみて。私は美しいでしょ、美しくない?」ローラは頭を上げて挑発的に叫んだ。「言って、言ってみて」

 

「おい、随分と」ジャドウィンは息を呑んだ。「着飾ったものだね……」

 

「私は美しいと言いなさいよ」とローラは命じた。

 

「まあ、美しいと思うよ」ジャドウィンは叫んだ。

 

「あなたがこれまでに知り合った中で最も美しい女性ですか?」ローラは迫った。そしてすかさず付け加えた。「私は本当はキッチンのメイドのように地味かもしれないけど、そんなことないって信じてくれないとだめよ。世界で一番美しい女性でありながらぱっとしないと思われるくらいなら、醜くても美しいって思われた方がましだもの。答えて……私ってあなたがこれまでに出会った中で一番美しい女性じゃないの?」

 

「私が今までに出会った人の中で一番美しいよ」ジャドウィンは熱く繰り返した。「でも……いったい、今度は何をする気なんだい? 何だってこんなことをしようって思いついたんだい?」

 

「さあ、わからないわ。ただの思いつきよ。私のドレス姿は全部見たことがあるでしょ? 今朝、あなたが出かけてから、これを買いに行ったのよ。カーティス、もしあなたが私をあなたの妻になろうと思うほど夢中にさせていなかったら、ローラ・ディアボーンは大女優になっていたわ。それをこの指先に感じるのよ。ああ!」王冠のペンダントが再びぶつかって音をたてるほど、ローラはいきなり頭をもたげて叫んだ。「私は大物になれたかもしれないわ。あなたは信じてないわね。聞いてよ。これはアタリアよ……旧約聖書に出てくる王妃よ、覚えているでしょ」

 

「待ってくれよ」ジャドウィンは反論した。「テオドーラだと思ってたんだけどな」

 

「わかってるわ……でも気にしないで。私次第なんだから。座って聞いててよ。ラシーヌの『アタリー』の一節よ。邪悪な女王が母ジェザベルの恐ろしい夢を見るの。フランス語だけど、披露するわ」

 

 そして、部屋の中央で「ステージ」に立ち、ローラは始めた。

 

 『私のベッドに向かう影は曲がったように見えた。私はキスしようと手を伸ばしたが、恐ろしいごちゃごちゃした物しか目に入らなかった。骨も肉も傷つき、泥沼に引きずり込まれ、血まみれの断片となった醜い手足。貪欲なものどもが仲間内で争ったのだ』

 

「すごいな!」何言っているかわからなかったが、ジャドウィンは思わず、ローラの表現の激しさと情熱に引き込まれて叫んだ。

 

 ローラは両手のひらを打ち合わせた。

 

「アブナーそのままでしょ」ローラは叫んだ。「言葉どおりよ」

 

「アブナー?」

 

「劇の話よ。あなたなら感じとれると思ったから」

 

「やれ、やれ」夫は首を振りながら、まだ戸惑った様子でつぶやいた。「変な奥さんをもらっちまったな」

 

「これがわかったとき、あなたは私を理解し始めるのよ」ローラは答えた。

 

 ジャドウィンはこんなに楽しそうな妻を見たことがなかった。あまりのはしゃぎぶりに困惑していた。

 

「カルメンの格好をしとけばよかったわね」ローラはまくしたてた。「そしたらあなたのために踊ったのに。それに、あなたがオルガンで私のためにそれっぽい曲を演奏できたらよかったんだけど。そうだ、二階に衣装があるわ。待って! 着て来るから! 座ってて……いや、それより、私がいない間にオルガンの準備をしておいてよ。ねえ、今夜は私と一緒に楽しくやりましょう」ローラはジャドウィンに抱きつきながら叫んだ。「今夜は私の夜でしょ? せいぜい馬鹿をやらせてもらうわ」

 

 その言葉を残してローラは部屋を飛び出したが、信じられないほど短い時間で戻ってきた。ビゼーのたばこ屋の娘に扮し、黒髪に赤いバラを挿して、指にはカスタネットをしていた。

 

 ジャドウィンがボレロを始めた。

 

「私が踊るのを見ながら同時に演奏できる?」

 

「ああ、できるとも。続けたまえ。どうしてスペインの踊りを知ってるんだい?」

 

「ずっと前に習ったからよ。今夜は選んだもののことは何でも知ってるわ。もっと速く弾いてよ」

 

 ローラはまるで疲れを知らないかのように、アタリーに投じたのと同じ熱い意気込みで踊った。黄色いスカートは床からぱっと噴き出す炎のようであり、全身が火の舌のように、同じく荒い抑えの効かない気迫で動いているようだった。カスタネットは火花を散らすようにカチカチと鳴り、黒のマンテイラはたなびく煙の雲だった。ローラは炎の化身であり、気まぐれで、騒々しく、よくわからないけど、まぶしかった。

 

 やがて突然ローラはカスタネットを部屋のはるか向こうに投げ捨て、息を切らしながらソファに倒れ込んだ。

 

「ああ」ローラは叫んだ。「せいせいしたわ。こうでなくっちゃね。ここに来て私のそばに座ってよ。これで私が踊りもできるって認めてくれるでしょ」

 

「大したものだよ」ローラがクッションの間に居場所を作る間にジャドウィンは答えた。「実にすばらしかった。でもね、それでもやっぱりね、ローラ、私としては……私としては……」

 

「何なのよ?」

 

「まあ、やり過ぎかなって。何だか大げさだよ……ちょっと、それに不自然なんだよな。昔のような、静かで、つつましく、凛としたきみが僕は一番好きなんだ。静かでいるときのきみが一番いいな。きみにこんな一面があったなんて知らなかったよ。今夜は随分興奮してるんだね!」

 

「そうさせてよ。とにかく今はそんな心境なんだから。でももう大人しくするわ。さあ、お話しましょう。今日は大変な一日だったの? あら、また頭痛?」

 

「いや、今日の街の様子は少し静かだったな。でも、帰宅するときになって頭にあの奇妙な感じがしてね……今は少し頭痛がするかな」

 

「頭痛なの!」ローラは叫んだ。「何とかしなくちゃ。私が愚かなことしたから、余計に悪化させちゃったのね」

 

「いやいや、大丈夫だよ」コーセルは保証した。「じゃあ、こうしよう。私はここで少し横になるから、きみは私のために何かを弾いてくれよ。何か静かなのがいいな。ラサール・ストリートはとても疲れるんだ、ローラ、きみにはわかるまいがね」

 

 そして、ジャドウィンはソファいっぱいに体を伸ばし、妻はオルガンで、夫が一番好きだとわかっている音楽……古い曲ばかり『デイジー・ディーン』『ロード・ラヴェル』『静かな空に星があるとき』『あなたの格子を私に開いて』を演奏した。

 

 やがてローラが弾き終わると、ジャドウィンは嬉しそうにうなずいた。

 

「よかったよ」ジャドウィンは言った。「よかったのなんの。私には一番の薬だな」ジャドウィンは続けた。「こうして静かに横になって、明かりを落として、愛する女性が古い古い曲を演奏してくれるのは。うちの親父がね、ローラ、その『あなたの格子を私に開いて』と 『父さん、父さん、さあ、私と一緒に帰りましょう』をよくバイオリンで弾いてたんだ」腕枕でぼんやりと向かいの壁を見ながらジャドウィンは続けた。「ああ、古い農家の台所がはっきりと目に浮かぶよ! 壁は丸太としっくいだけで、四隅にまっすぐな支柱があって、よくそこで身長を測ったけな……子供の時分に。暖炉もあったな」腕を使って説明しながらジャドウィンは付け加えた。「あっちに薪入れの箱があって、こっちには引き出しのついた古いタンスみたいなのがあって、その下でいつも三毛猫が子猫をかかえてたっけ。あの頃は幸せだったな。もちろん、今はきみがいるし、別世界だがね。でも、違いを生むのはきみだけだ。私たちは立派な地位と大金を手に入れた……それを誇りに思うよ。しかしわからない……。もしみんなが私を解放し、私たち二人を……きみと私を……むき出しの床と生皮の椅子とおんぼろベッドの古い家に戻したって、私たちなら何とかなると思う。自分が幸せなら幸せだ、それくらいでちょうどいいんだから。私は時々思うんだが、私たちは……きみと私は……貧しくても一生懸命働いて肩を寄せ合って仲良くしている方が、大金を稼いで大金を使うよりも幸せなんじゃないかってね……どうしてかはわからないが……きみが幸せかどうか、それが大事なんだ。もしもこいつらが」ジャドウィンは絵や重い掛け軸、豆本入りのガラスのキャビネットめがけて無造作に足を蹴った。「もしもこいつらがその邪魔をするのなら……まあ……うっちゃったって構わないんだ! 詩のようにはいかないんだ、本当のことは」

 

 ローラは夫が横になっているところにやってきて、そばに座り、膝枕をして、長く白い手で額をなでた。

 

「ああ、いつもこうしてあなたと一緒にいられたら」ローラはつぶやいた。「悩まず、優しく、ありのままでいてね。またそんな夫になってちょうだい。ああ、あなたは男よ、カーティス。偉大で、強くて、心優しい男性よ、優雅じゃないし、大した教養はないし、品のいい話し方はしないし、偽り、見せかけ、模造品の、艶っぽさもないけどね。愛してる。ああ、愛してる、愛してるわ、あなた!」

 

「ローラ!」ジャドウィンは妻の手を撫でながら言った。

 

「ねえ、本を読んであげましょうか?」ローラは尋ねた。

 

「これがよさそうだね」

 

 ジャドウィンが話す間に、廊下に足音がしてノックがあった。

 

 ローラは顔をしかめて立ち上がった。

 

「邪魔をするなと言っておいたのに」ローラは声を抑えて言った。それから「どうぞ」と声をかけた。

 

「グレトリーさまがお見えです、旦那さま」使用人が告げた。「すぐにお目にかかりたいと申しておりますが」

 

「言ってやってよ」ローラはすぐにジャドウィンの方を向いて言った。「不在だって……会えないって」

 

「会わなければならないな」ジャドウィンは立ち上がりながら答えた。「重大な用事でもない限り、彼は自分からここに来ることはないからね」

 

「入ってもいいか、ジェイ?」ブローカーは廊下から話しかけてきた。厚いカーテン越しでも、彼の声がどれだけ興奮し不安でいるのかががわかった。

 

「入ってもいいか? 使用人についてきたんだ。失礼とは……」

 

「どうぞ、入ってくれ」ジャドウィンは答えた。ローラは顔を真っ赤にして、衣装を覆い隠すように長椅子のカバーにくるまった。グレトリーが帽子をかぶったまま、そそくさと部屋に入ってきた。

 

 ジャドウィンは中程で相手を出迎えた。ローラは長椅子に座ったまま、将軍と副官の間で交わされる早口のやりとりを聞いた。

 

「さあ、いよいよ正念場だぞ!」グレトリーは叫んだ。

 

「ああ……それで?」ジャドウィンの声は、斧を振り下ろすように鋭く、素早かった。

 

「今つかんだんだがね」グレトリーは言った。「クルックス一派が明日腹をくくるつもりらしい。朝は地獄になるぞ。連中は鐘が鳴るのと同時に攻撃をしかけてくる」

 

「メンバーは?」

 

「わからん。誰にもわからんさ。もちろん、スウィーニーはいるな。だが、奴の後ろにもいる……おまけに奴は銀行の信用が厚い。だから言っただろ、遅かれ早かれ奴と戦うことになるって」

 

「それじゃ、戦ってやろうじゃないか。そう怖がりなさんな。クルックスは大物じゃない」

 

「じゃあ、誰が大物か知りたいな」

 

「この私さ。奴もそれを知ることになる。クルックスと私の共存できる場所はない。どちらかがこのマーケットを支配しなければならない。奴が私の邪魔をするなら叩き潰すまでだ!」

 

「それじゃ、ジェイ、きみと私とで今夜はとことん話し合わないとな。さっそくグランド・パシフィック・ホテルまで行こうじゃないか。コートがすでに待機している。クルックスのことをつかんだのは、あの神経質な坊やだ。今すぐ来られるよな? こんばんは、奥さん。ご主人をお借りして申し訳ないですが、仕事なんで」

 

 いや、それは違った。この前線からの急使を沈痛な思いで聞いている大物相場師の妻にとって、それは戦いだった。金融街の戦いは再び準備が整ったのだ。ラッパが鳴り響き、何千もの軍靴が押し寄せる音が響き渡った。ここでさえ、自分の家でさえ、夫の頭を膝に乗せているときでさえ、穏やかな静寂のひと時でさえ、遠くで鳴り響く音が耳に入った。夜の闇の中、どこか遠くで、大きな勢力が再び陣取り合戦を繰り広げていた。明日になれば取っ組み合いが始まる。夫か敵か……どちらかが倒れなければならない。大きな戦いが目前に迫っているときに、どうすれば夫をつなぎとめられるだろう? 隊長たちの大声や叫び声がどう夫に影響するかをローラは知っていた。夫が自分の抱擁を振りほどいて部隊に駆けつけるのを経験してきたのだ。ジャドウィンはローラが求めた男だった。強さも熱意も勇気も劣っていたら、ローラはそれほど彼を愛しはしなかっただろう。

 

 しかし再び彼を失ってしまった。取り戻したと信じたその瞬間に彼を失ったのだ。

 

「行かないで、行かないでよ」ジャドウィンがおやすみのキスをするときにローラはつぶやいた。「あなたったら、行かないで! 今夜は私の夜だったのよ」

 

「行かなくちゃらなないんだよ、ローラ。じゃあね、奥さん。ほら、よさないか……サムが待ってるんだ」

 

 ジャドウィンは急いで二度キスをした。

 

「行こうか、サム」ブローカーの方を向きながらジャドウィンは言った。

 

「おやすみなさい、奥さん」

 

「行ってくるよ、ローラ」

 

 二人はドアの方を向いた。

 

「コート君が銀行でね、小切手を見たというんだ……」

 

 入口の掛け物がもとの位置に垂れると、声は途絶えた。玄関のドアがガチャリと音を立てて閉まった。

 

 ローラは耳をすませてその場で座り直し、拳を唇に押し当てた。

 

 もう音はしなかった。広い空っぽの家の静寂は、石が落ちて水たまりに波紋が広がるように、ドアが閉まる音とともにローラの周りに広がった。ローラは唇に指の関節をぎゅうっと押し当てた。指で目を押した。ゆっくりと手を握ってはまた握り直し、自分の知らないことが聞こえてこないかと耳をそばだてた。自分を無視して急いで離れていく夫と、戦いの慌ただしさと熱気の中で夫を想う自分の愛情について考えた。自分から突き放してしまい、永久にその愛を自分の人生から締め出したコーセルのことを考えた。

 

 ローラは押しつぶされ、くじけて、クッションの間に横たわり、腕に顔を埋めた。ほんのりとギャラリーを照らす明かりは頭上と周囲に、はっきりとした影を落としていた。この場所を照らす光はほんの一つか二つだった。絵の金色の額縁が鈍く光を反射した。光の中でぼんやりと輪郭が見える巨大なオルガンのパイプが、上の方の暗がりに向かって高らかとそびえ立っていた。半分しか見えない豪華な掛け物がかかっているその場所全体は、暗い壮麗な空間で、ビザンチン式建築の巨大で薄暗い内部のようだった。

 

 ローラ・ジャドウィンは、ものすごく高いドームの下の広々とした床の上で、腕輪、シルクの衣装、竪櫛、小さなバラの模様のスリッパという間の抜けな装飾品に身を包んだまま、途方に暮れて、ソファのクッションの間に半分隠れて横たわっていた。泣いたとしても声にはならなかった。天井の高いアートギャラリーのこもった静寂が一度だけ破られたのは、ささやきとむせび声半々の泣き声が、何も聞こえない何も見えない暗闇に上がったときだった。

 

「ああ、私は今、独りぼっち、独り、独りなのよ!」

  


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